松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年11月8日(日)
説教題「あなたの決断が問われる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第10章22〜30節

そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」

旧約聖書: エレミヤ書42:18~22

本日、私たちに与えられた聖書箇所の最初のところにこうあります。「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。」(二二節)。神殿奉献記念祭という祭りの名が記されています。こういう名前の祭りは、新約聖書ではここだけです。いったいどのような祭りだったのでしょうか。

神殿というのは、エルサレムの神殿のことです。最初に神殿が建てられたのは、ソロモン王によってです。先のダビデ王のときに、その計画が立てられましたが、実際に神殿が建ったのは、その子であるソロモン王の時代です。イスラエルが最も繁栄したときに建てられました。

その後、王国が分裂し、王が次々と代わる中で、その神殿が破壊されてしまう出来事が起こりました。イスラエルがバビロニアという国に滅ぼされてしまい、神殿が破壊されてしまうのです。国の主だった人たちは異国の地に連れて行かれることになりました。そういう数十年の捕囚期を経て、国に戻ることが許され、エルサレムの神殿などを再建します。最近、祈りの会で読み進めている旧約聖書のエズラ記、ネヘミヤ記にはそのときの出来事が記されています。こうして建てられた神殿が第二神殿です。主イエスの時代には、この第二神殿が建てられていたことになります。

第二神殿建築後も、イスラエルはたびたび侵略、支配を受けることになってしまいます。ある時代に、セレウコス朝という国からの支配を受けていたときのことです。アンティオコス四世エピファネスという人が王でした。ユダヤ人たちは反乱を起こしてしまったために、迫害され、圧迫されます。エルサレムの神殿からはユダヤ人が追い出され、外国人が駐留することになります。様々な偶像が置かれ、ゼウスの神殿とされてしまいます。ユダヤ人からすれば、神殿が汚されてしまったということになります。

そこに、ユダ・マカバイという人が登場します。戦いによって、エルサレムの神殿を解放します。そしてユダヤ人の王国を再び成立させます。神殿の中にいた外国人を追い出し、偶像の祭壇を撤去し、神殿を清めて、神に対する礼拝を取り戻しました。これが成されたのが、紀元前一六五年一二月二五日であると言われています。口語訳聖書では「神殿奉献記念祭」ではなく「宮きよめの祭」となっていました。いずれの名称にしても、このような祭りがこのような意味で行われていました。この祭りが、一二月一八日から二五日まで、一週間ほど続いて行われたと言われています。

ただ、この祭りは過越祭などの祭りとは違い、ユダヤ人男性が皆、エルサレムに来なければならないというわけではありません。各自の家において祝われてもよいことになっていました。しかし主イエスはエルサレムにおられた。冬でありました。そして次の春の過越祭では、主イエスの十字架が起ころうとしていた。そんな中での出来事です。

今、お話をしたユダ・マカバイという人は、メシアとも呼ばれた人です。ユダヤ人たちにとってはヒーローです。反乱軍を率いて、見事に勝利を収め、国を建てなおしてくれた人です。主イエスの時代もマカバイのことは忘れられることはありませんでした。特にこの神殿奉献記念祭の最中は、なおさらだったでしょう。

そんなマカバイのことを忘れられないユダヤ人たちが、主イエスに尋ねます。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」(二四節)。ユダヤ人たちは主イエスのことを取り囲んで、このように尋ねるのです。このユダヤ人たちの頭の中には、マカバイのようなメシアのことがあったでしょう。政治的に、軍事的に、民族的に、救い主となってくれるようなメシアを彼らは探し求めていたのです。

それに対する主イエスのお答は、イエスかノーかではありません。主イエスは彼らの考えを見抜かれていたのでしょう。二五節のところでまずこう言います。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。」(二五節)。

主イエスはまず「わたしは言った」と言われています。果たして主イエスがご自分をメシアだと明確に言われたことはあったでしょうか。ヨハネによる福音書の第四章で、主イエスがサマリアの女と対話をされます。その中で、サマリアの女はこう言います。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」(四・二五)。それに対して、主イエスは「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」(四・二六)と言われます。ある聖書学者は、主イエスがはっきりとご自分がメシアであると言っているのは、ここだけではないかと言っています。それにもかかわらず、主イエスは「わたしは言った」と言われているのです。

どういうことでしょうか。続けて主イエスは「わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている」(二五節)と言われています。主イエスが今まで行った業によって、私がメシアかどうか分かるというのです。

第九章では、生まれてからずっと目の見えなかった盲人の目を開けるという奇跡を行いました。盲人は目が見えるようになり、信仰を持ちました。それが何を意味するのでしょうか。第八章では、主イエスはご自分のことを「世の光」であると言われました。罪の奴隷から真理による自由を与えると言われました。どういう意味でしょうか。第六章では、たった五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人を養いました。その上で「わたしは命のパンである」と言われた。それはどういう意味なのでしょうか。それぞれの業は何を表しているのでしょうか。

主イエスとはいったいどなたなのか。それは、それぞれの業によって分かる。その業を見て、あなたがたはどう判断するのか。あなたたちの問題だと、主イエスは言われたのです。

主イエスにあなたはメシアなのかどうか、その質問をしてきたユダヤ人たちは、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。」(二四節)と言っています。「気をもませる」というのは、どういうことでしょうか。かつての口語訳聖書では、「不安のままにしておくのか」となっていました。さらに古い文語訳聖書では、「心を惑わしむるか」となっていました。いずれにしても、心が落ち着かない、平安でないということです。

聖書の元の言葉では、直訳をしますと、魂が奪われている、というようになります。何かの心配事が起こり、そのことに心が奪われてしまう経験は、誰にだってあります。心がそのことばかりになり、奪われてしまうと何が起こるか。心だけが奪われるのではなく、魂も奪われる。気が気でなくなって、まるでいつもの自分ではなくなる。自分自身が奪われてしまう。そういう状態になってしまうのです。魂が奪われることによって、自分自身がはっきりしなくなってしまうのです。

いったいユダヤ人たちは何に心を乱されていたのでしょうか。どのような人たちだったのかはよく分かりませんので、はっきりとは言えません。しかし、ユダ・マカバイのことから考えると、おそらく、政治的、社会的、民族的な関心があったのだと思います。

自分たちのそのような願いがどのようにしたら実現をするのか。この人ではなかった。あの人でもなかった。第二のユダ・マカバイが現れてくれないものか。そして自分たちの願いを実現してくれないか。彼らそう思っていたに違いありません。そうだとすると、彼らにとって、別に主イエスというお方が大事なのではなく、むしろ自分たちの願いを実現する方が大事なのです。「自分の願いを実現してくれる」メシアを探しているだけなのです。

主イエスのお答が二五節から始まっています。二五節と二六節のところで、二回にわたって、「あなたたちは信じない」と言われています。なぜ信じないのか。理由が二六節後半にあります。「わたしの羊ではないからである。」(二六節)。続けて二七節で「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と言われます。ユダヤ人たちは魂を奪われてしまいました。しかし主イエスの羊はそうではありません。心を奪われない。いや、奪われそうになったときにも、主イエスの声の聞き方、また主イエスの呼び方を知っている。それが主イエスの羊です。

先週の一一月三日に、教会員のカレン・リックスさんのゴスペルコンサートが行われました。人数の都合上、今年は別会場で行われました。多くの方が参加をしてくださり、感謝しています。

コンサートが終わった後、ある方から感想を伺うことができました。その方は、歌われた曲の中で、“Pass Me Not”という曲が一番良かったとのことでした。この歌はこのように歌います。「イエス君、イエス君、みすくいに、われをも、もらさで、入れてまえ、入れたまえ。主よ、主よ、聞きたまえ、くだけし、心の叫びをば、叫びをば」。なぜその曲が一番良かったのか。それは、黒人の心からの叫びを聞いたような気がするから、という理由でした。

この“Pass Me Not”は、私たちが用いている讃美歌の五二四番にもあります。メロディーは、コンサート当日に歌われたものとは違いますが、歌詞はここから取られました。もともとは英語の讃美歌です。作詞をしたのは、楽譜の左上のところに書かれています。フランシス・ジェーン・ヴァン・アルスタインという人です。これは結婚後の名前で、フランシス・クロスビーとして親しまれている人です。たくさんの讃美歌を作った人です。

生まれて間もなく、目の異常が出てしまい、医療ミスも重なり、失明をしてしまいます。その後、父親を失い、苦境の中でクロスビーは育ちます。母親は失意の中にありながらも、娘を励まし、育てた。あるとき、娘にミルトンの有名な「失明について」の詩を読ませてやります。その最後のところに、こんな言葉があります。「ただ立ちつくして待つのみである者もまた、神に仕えまつる」。何にもできないような人であっても、神に仕えることができる、という意味の言葉です。この言葉によって、クロスビーは魂に命を得て、讃美歌の作詞をするようになります。驚くほどの感受性で、たくさんの讃美歌の歌詞を生み出し、その数は数千とも言われています。

“Pass Me Not”もその一つです。日本語にすれば「わたしを通り過ぎないでください」となります。主イエスに対する叫びです。「イエス君、イエス君、みすくいに、われをも、もらさで、入れてまえ、入れたまえ。主よ、主よ、聞きたまえ、くだけし、心の叫びをば、叫びをば」と歌います。これは作詞をしたクロスビーの叫びでもあります。黒人霊歌ではありませんが、黒人たちの叫びでもあります。多くのキリスト者の叫びでもあります。私たちの叫びでもあります。主イエスの羊として、主イエスに向かう叫びなのです。

主イエスの羊は、いったいどのように叫べばよいのか、そしてどこに向かって叫べばよいのか、そのことをよく知っているのです。今日の聖書箇所に出てくるユダヤ人たちのようではありません。こっちに向かって「あなたがメシアなのか」、あっちへ向かって「あなたが私の願いを叶えてくれるメシアなのか」、そのことを問い続けるのではありません。そのようことに魂を奪われるのではなく、一人の羊飼いに集中することができるのです。

この羊飼いは、羊たちをよく知っていてくださいます。二七節の後半にこうあります。「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」(二七節)。羊飼いは羊のことを一匹一匹、よく知っていてくださいます。さらに二八節では、よきものが与えられることが言われています。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(二八節)。

永遠の命は、ヨハネによる福音書の一つのテーマです。有名な第三章一六節には、こうあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(三・一六)。永遠の命とは、信じる者に与えられ、さらにそれを言い換えて、「滅びることがない」と言われます。さらにそれもまた言い換えられて、「わたしの手から奪うことはできない」と言われます。盗人、強盗が襲ってきても奪われることがありません。たとえ死の力であっても、私たちは奪われることがない。主イエスの羊であることは、とこしえに続くのです。

週報にも記した通り、昨日、一人の兄弟の病床洗礼式が行われました。この兄弟は、囲いの外から導かれた方です。先週の聖書箇所にこうあります。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(一〇・一六)。囲いの中に入ったから、めでたくキリストの羊になったわけではありません。もともとキリストの羊であったのです。

教会の信仰に対して、反発も持っておられた方でもありました。私も訪問を続けました。しかし私が特に信仰の導きをなすことができたわけでもありません。家族が説得をしたわけでもありません。私やご家族は、ただ主イエスが導いてくださるように、祈ったにすぎません。それでも主イエスは動いてくださいました。囲いの外に出かけ、この羊を囲いの中に導き入れてくださったのです。

洗礼を受けて、私たちの教会に加えられたこの兄弟も、主イエスの羊です。私たちも主イエスの羊です。これから羊になるわけではない。もうすでに羊なのです。とこしえに失われることなく、主イエスに守っていただける羊とされているのです。