松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

facebook.png


HOME > 礼拝説教集 > 20151011

2015年10月11日(日)
説教題「どの声に聴き従うか」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第10章1〜6節

「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

旧約聖書: 詩編23

本日は神学校日・伝道献身者奨励日と呼ばれる日です。私もかつてそうでしたが、神学生と呼ばれる牧師になる志を与えられ学んでいる者たちが、様々な教会に派遣されて、説教の奉仕にあたる、そのような日でもあります。私たちの教会でも夏に行われました夏期伝道実習と並んで、神学生たちがそれぞれの教会へ赴く。そして牧師になるとはどういうことなのか、そのことを具体的に体験するのです。

牧師とはいったい何でしょうか。つい先日、国勢調査がありました。私も書かなければなりませんでしたけれども、職業のところに「牧師」、事業の内容のところには「教会運営」などと書いたように思います。事務的なものでありますから、ごく簡単に書いておきましたが、教会で牧師とは何かと問われたら、もっと違う答え方をしなければなりません。

英語で牧師のことを“pastor”(パスター)と言います。この言葉はもともとラテン語の“pastor”(パストール)から生まれました。その言葉の意味は、羊飼いです。羊を牧草地へ導き、草を食ませ、養う。教会によって呼び方は様々ですけれども、多くのプロテスタント教会では聖職者のことを牧師と呼びます。

本日の聖書箇所に出てくる羊を養う羊飼いとしての務めを担うわけですが、どのように羊飼いとしての務めを行うのか。何よりもキリストの御声を聴かせるようにすることです。いつでも教会にキリストの御声が響いているようにする。それがいわば「教会運営」ということになります。

牧師の職務として、今日の聖書箇所だけでなく、いくつかの聖書箇所を挙げることができます。私たちが御言葉を聴き続けているヨハネによる福音書の最後のところに、復活された主イエスと弟子のペトロの対話が記されています。主イエスが三度にわたってご自分のことを愛しているかとペトロに問われます。その際に主イエスはペトロに言われます。「わたしの小羊を飼いなさい」(二一・一五)。「わたしの羊の世話をしなさい」(二一・一六)。「わたしの羊を飼いなさい」(二一・一七)。これから伝道者になり、教会を建てていくペトロに、主イエスはそう言われたのです。

使徒パウロが三年間も滞在したエフェソ教会の人たちに別れを告げる際に、このような言葉を残します。「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。」(使徒言行録二〇・二九)。

その上でこう続けます。「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。」(使徒言行録二〇・三一)。狼どもがやって来るだろう。だから私が教えてきたことを思い起こせと言うのです。私が教えてきたこととは、パウロが語って来たキリストの御声にほかなりません。困難な時にこそ、羊飼いとして群れにキリストの御声を響かせるように、そのようにエフェソ教会の人たちに奨めているのです。

ペトロの手紙一にはこうあります。「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。」(Ⅰペトロ五・二~三)。

教会に与えられている羊が神の羊であり、神から委ねられている羊であることが言われています。その羊たちを養う。権威を振り回してではなく、群れの模範となり、キリストの御声をいつでも聴けるようにする。それが牧師としての務めです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所も、羊飼いと羊の話として主イエスが語られています。羊や羊飼いと言われて、私たちはよく分かるでしょうか。日本に住んでいる私たちはあまりよく分からないのではないか、そのように言う人もいます。たしかにそういうところもあるかもしれません。

例えば、本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、詩編第二三編です。有名な箇所でもあります。「主は羊飼い」(詩編二三・一)という言葉から始まります。主なる神が羊飼いであり、私たちが羊ということです。

イスラエルの人たちにとって、羊という存在は欠かすことができません。当然、羊を飼う羊飼いという職業の人たちが身近にいたことになります。羊飼いが羊を導き、「青草の原に休ませ」(二三・二)とか、「水のほとりに伴い」(二三・二)とか、そのようなことはよく分かるのです。四節の「あなたの鞭、あなたの杖」(二三・四)というのも、狼などの外敵を追い払うためのものです。羊を奪うものがやって来たら、羊飼いは命を懸けて戦います。そういうことは、イスラエルの人たちはよく知っていたのです。

私たちはどうでしょうか。よく分かるようで、分からないところもあると思います。今日の聖書箇所に、「囲い」「門」という言葉が出てきます。聖書学者によって少し言うことが違いますが、いずれにしても何らかの囲いがあり、その囲いのどこかに門があるのです。これは夜の寝床のためのものだそうです。囲いは、羊が逃げ出さないようにするというものよりも、外敵の侵入を防ぐためのものです。門のところには、羊飼いの一人でしょうけれども、門番がいる。その中で羊は夜を過ごすのです。ルカによる福音書のクリスマスの話では、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちのところに天使が現れるわけですが、おそらくこのようなところに天使が現れたのでしょう。

ただ、この囲いと門の中で、すべての生活が完結をするわけではありません。草を食べさせるために、水を飲ませるために、羊飼いたちは羊たちを外に連れ出して、養わなければなりません。のどかな牧草地帯を私たちは想像するかもしれませんが、パレスチナの地は基本的に岩がごつごつしたようなところです。わずかばかりの牧草地、水のあるところへ導いていく。羊飼いは羊たちをそのようにして養っていたのです。

羊飼いたちの羊の導き方は、声によります。声だけです。ある説教者が、旅行者が羊飼いのところを訪ねたときの話を紹介しています。旅行者が羊飼いにお願いをして、羊飼いの人と服を交換してもらった。姿は羊飼いそっくりに見えるわけです。意気込んで、本物の羊飼いがやるように、自分も羊を導こうとした。ところが羊たちはちっとも言うことを聞かない。ところが旅行者の格好をした本物の羊飼いが声を出して導くと、羊たちはその通りに動いていく。そんな話をある説教者が紹介しています。羊は、目は悪いそうですが、耳はとてもよいのだそうです。声を聴き分けることができるのです。

主イエスが今日の聖書箇所にある羊飼いと羊の話をされた後、今日の聖書箇所の最後のところになりますが、このように記されています。「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。」(六節)。分かる、分からないという言葉が使われています。ファリサイ派の人たちは分からなかった。皆さまは主イエスのこの話をお分かりになられたでしょうか。

私が毎週日曜日の説教を終えて、説教の感想を時々、聞くことがあります。松本東教会ではあまり言われないのですが、他の教会ではよく「分かりました」という感想を聞くことがあります。それでは普段はあまりよく「分からない」のかとも聞き返したくなりますけれども、「分かる」「分からない」という感想は、私たちの心の中でもよく生じると思います。しかし、どのように「分かった」のか、どのように「分からなかった」のか、同じ「分かった」「分からなかった」にしても、そこに意味されていることには、かなり幅があると思います。

例えば、まだ洗礼を受けておられない求道者の方々と学びをしている際に、主イエスの十字架がよく分からないと言われます。主イエスの十字架は、信仰の最も中核にあることであり、それゆえに求道者の方々が最後まで引っかかるところでもありますが、その十字架が「分からない」と言われる。その「分からない」にしても、人によってかなりの幅があります。イエス・キリストの十字架の意味がさっぱり「分からない」という方もあれば、ある程度は「分かっている」方もある。人間の罪が赦されるために、罪なき神の子が十字架にお架かりになった。そのようにして人間の罪が赦されたのだ。その論理は「分かる」。そういうことをかなり「分かっている」方もあります。

しかし一様に出てくる言葉は「分からない」という言葉です。ある程度は分かっていても、どうも「分からない」。腑に落ちない。なぜそうなるのか。自分とのかかわりがよく「分からない」からです。主イエスの十字架と自分がどうかかわるのか。もっと言うならば、主イエスの十字架によって私の罪が赦されたのか、そのことが「分からない」のです。

ここでのファリサイ派の人たちの「分からない」というのは、まさにこの点にあります。ファリサイ派の人たちは、羊飼いや羊のことはよく知っているのです。何も主イエスのこんな話など聞かなくても、そんなことは分かっている。主イエスの言葉自体も、難解な言葉は使われていませんし、単純で平易な言葉です。子どもでも分かる話でしょう。しかしそれでもよく分からなかった。なぜなら、自分たちのこととして、この話を聞くことができなかったからです。

今日から第一〇章に入りましたけれども、この話はそもそも第九章から続いている話です。新共同訳聖書では小見出しが付けられているせいで、第九章の終わりの主イエスの会話文で括弧がいったん閉じられてしまいます。そして第一〇章一節から再び括弧付けられ、それが五節で閉じています。しかしかつての口語訳聖書がそうであったように、これは本来、括弧を閉じるべきではなく、間を置かない一連の話です。

ファリサイ派の人たちは、第九章のところどころに出てくる人たちです。第九章の最初に生まれてからずっと目が見えなかった人が、主イエスによって目を開いていただきました。その奇跡をめぐって、人々があれこれと話し合ってきた。その中で、ファリサイ派の人たちが、この目が見えるようになった人を追い出してしまうのです。先週の説教で「村八分」という言葉を使いましたけれども、この人はファリサイ派の人たちによって、「村八分」いや、それ以上の目に遭ってしまいます。

なぜそうなってしまったのか。ファリサイ派の人たちは、実にきよく、正しく、まじめに生きていた人たちです。皆から尊敬され、教師としての自覚に生きていた人たちも多かったと思います。しかしそこに落とし穴があった。自分たちの知らないところで起こった奇跡を認めることができなかった。もっと言うならば、その奇跡を起こした張本人を認めることができなかった。その張本人である主イエスのことを、この目が見えるようになった人は、神のもとから遣わされた人だと言った。あなたたちにそのことが分からないとは実に不思議だと言われてしまう。だから追い出されたのです。

主イエスはファリサイ派の人たちに対して、この譬え話をお語りになりました。本来ならば、ファリサイ派の人たちは、人々の羊飼いたるべき存在です。しかしその羊飼いたちが、一匹の羊を追い出してしまった。この一匹の羊は主イエスの声を聴き分けたわけですけれども、その羊を追い出してしまった。あなたがたは正規の羊飼いではない。囲いを乗り越えてきたのだ。盗人ではないか、強盗ではないか。そんな話でもあるのです。羊飼いと羊の譬え話、そういう慰めに満ちた話でもありますが、実に厳しい批判が、この話で語られているのです。

しかし私たちにとって、主イエスが語ってくださったこの話は、なんとも慰めに満ちた話であります。もちろん、私たちがファリサイ派のようにならないように、牧師がこのような羊飼いにならないように、そういう警告の話でもありますが、羊たちは本当の羊飼いであるキリストの御声を聴くことができる。そういう慰めに満ちた話なのであります。

今日の聖書朗読の箇所として、一応、六節までで区切りました。区切り方は様々ですけれども、確かにここで一つ区切ってもよいと思います。ファリサイ派の人たちへの譬え話がここでひとまず済んで、さらにその話を発展させて、主イエスがお語りになられているからです。特に来週、御言葉を聴きますが、主イエスが「良い羊飼い」であることが一一節と一四節で繰り返し語られ、しかも「良い羊飼い」が「羊のために命を捨てる」(一一節)、それほどまでに「良い羊飼い」でいてくださると言われるのです。

今日の聖書箇所では「門」という言葉が何度か出てきます。この「門」という言葉は、九節まで出てくる言葉です。「わたしは羊の門である」(七節)。「わたしは門である」(九節)。これ以降は「わたしは良い羊飼いである」(一一節、一四節)と言われるわけですが、九節までは主イエスは「門」なのです。

門とは何でしょうか。聖書の中でも、「門」のことが語られている箇所があります。例えば、山上の説教の最後のあたりで、主イエスはこう言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ七・一三~一四)。

この主イエスの言葉だけを聴きますと、私たちは恐れを抱いてしまうかもしれませんが、ヨハネによる福音書第一〇章の門の話と合わせて聴きますと、味わい方が変わってきます。「見いだす者は少ない」と主イエスはマタイによる福音書では言われますが、手掛かりとなるのはキリストの御声です。その声を頼りに、羊は門を通って行くのです。

私たちが御言葉を聴き続けているヨハネによる福音書の第一四章六節にこうあります。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(一四・六)。ここに「門」という言葉こそはありませんが、門のイメージで聴くことができます。主イエスという門を通り、唯一の道を歩み、真理へと、命へと、父なる神のもとへと至るということです。

この門から入る方法は、キリストの御声を聴き分けるかどうか、キリストについていくかどうかです。そうすれば九節にありますように、牧草を見つけることができます。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」(九節)。私たちを生かす命の糧を見つけることができるのです。

一昨日のことになりますが、南信分区婦人修養会が飯田入舟教会にて行われました。講師の先生は女性の牧師の方でありますが、あるときにお二人の息子を交通事故で失った方です。そのときはキリスト者ではありませんでした。おじが教会の牧師であったため、息子たちを亡くした後のケアをしてもらった。おじの教会の礼拝に行き、最初はまったく説教を聴く気はなかったそうですが、二年間出席をした。そうすると次第にキリストの御声が自分の中に入ってくるようになった。聖書の言葉に救われ、死んでいた自分が生き返った。それから洗礼を受け、献身をして神学校に入り、牧師となられた。そういう講師でありました。

この講師の方が今でもよく言われることがあるのだそうです。二人の息子の死を「よく乗り越えましたね」、と。しかしご本人が、自分は乗り越えていないとはっきり言われていました。乗り越えることなどできない、消化することなどできない。しかし乗り越えられないこと、消化できないことをそのまま神さまの元に持って帰るのだ、そう言われました。

確かにその通りです。私たちは人間です。乗り越えられないこと、消化できないこと、納得できないこと、疑問のまま解決できないことがたくさんあります。ヨハネによる福音書第九章に出てくる目が見えるようになった人も、村八分にされてしまいました。そのこと自体は消化できないことだったかもしれません。ただキリストを神のもとから来られたと証言しただけなのに、そのような目に遭ってしまったのです。

しかしそれでもキリストの御声を聴いて歩むことができる。このお方は私たちの良き羊飼いです。羊である私たちのために命を捨ててまで愛してくださる羊飼いです。狭い門であるかもしれません。しかしその御声で私たちの名前を呼んで下さり、その門を通って牧草地へと導いてくださる。そういう救い主なのです。狼が襲って来ようとも、盗人や強盗が入って来ようとも、私たちはキリストの御声を聴き分け、この声に養われ、命を得て歩んでいくのです。