松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2014年9月14日(日)
説教題「我らの間に宿る言」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第1章14〜18節

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

旧約聖書: 出エジプト記 第33章7~11節

本日は教会設立九〇周年の記念礼拝です。この記念礼拝を行い、お昼を挟んだ後、午後にも記念の集会を行う予定です。しかしあまり大がかりなことはしません。祝会のようなことを行うわけではありません。関係者や他教会の方々を招いて、記念式典を行うこともしません。九〇周年の記念誌も発行する予定はありません。九〇年の歩みに感謝しつつ、むしろこれからの十年を覚え、一〇〇周年に向けて心を新たにする時にしたいと願っています。

私たちの教会の歴史の出発点は、一九一六年六月四日になります。この日、松本聖書研究会が発足しました。主に学校の教員たちが集まり、聖書の研究会を開いた。その八年後、一九二四年九月一三日、金曜日の一八時半からであったようですが、「建立式」というものが行われました。聖書研究会ではなく、教会として正式に発足をする、その記念礼拝であります。

建立式に何が行われたのか、教会設立の『七〇年史』にそのときの様子が記されています。植村正久先生の司式で洗礼式が行われた。男性二名、女性一名が洗礼を受けたようです。教会建立準備報告がなされ、日本基督松本教会建立宣言がなされた。長老任職式がなされた。そして植村先生による聖餐式がなされた。八九名の陪餐があったようです。この礼拝の中で説教ももちろんなされました。「神と人生と教会」と題して、川添万寿得先生によってなされた。参加者は全部で一五〇名ほどであったようです。同じグループの教会が信州に七教会ありましたので、その関係者たちも集って、このような礼拝がなされました。

九〇年前の礼拝と、今日、私たちが献げている礼拝でしていることは基本的には同じです。今日も一人の受洗者が与えられ、洗礼式が行われました。聖餐がこの後、祝われます。今、説教がなされています。讃美歌も歌われました。九〇年前にどの讃美歌を歌ったのか、残念ながらその記録はありません。

しかし、九〇年前に任職された手塚縫蔵長老、この方は長老ですが初代の牧師のような働きをなさった方ですが、『基督者』という雑誌の中で、九〇年前の建立式の様子をこのように綴っています。「…その意義益々深く深く、御恩寵御摂理まことに博く高く厳かなるを、仰ぐのみにて候。『われ山に向かいて眼をあぐ、我が助け何処より来るや。我が助けは天地を創り給えるエホバより来たる。』…」。「その意義」とは教会が設立された意義のことですが、そのことを覚え、詩編第一二一編の冒頭の聖書の言葉を引用しています。

私たちはこの礼拝の最初の讃美歌として三〇一番を歌いました。これは詩編第一二一編をそのまま讃美歌の歌詞にした歌です。私たちの教会に連なった多くの者たちが、この讃美歌を愛唱しました。手塚縫蔵長老が引用し、その後の教会員たちがこの讃美歌を愛唱してきたのです。

詩編第一二一編は、最初の一節のところに書かれている通り、「都に上る歌」です。エルサレムの都に上る歌、巡礼の歌です。これから巡礼に出掛ける。一節のところにこうあります。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。」(詩編一二一・一~二)。

出発前に山々を見上げる。パレスチナの山は、日本の山とは違います。ましてアルプスの山々とはまったく違います。山はごつごつとしている。これからその山を越えて行かなければならない。盗賊に遭うかもしれない。無事にたどり着けるだろうか。そんなことを思いながら、「わたしの助けはどこから来るのか」と問う。「わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから」と続いていくのです。六節のところにも「昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない。」(詩編一二一・六)とありますが、これも天地を造られた主の助けによって旅をすることができるということです。

松本東教会の人たちは、詩編第一二一編のそのままの意味では理解しなかったと言えます。むしろ新しい意味をここに見出し、讃美歌として歌ってきた。美しく高くそびえるアルプスの山々がある。一体あの山はどなたがお造りになったのか。主なる神である。その神が私たちの教会もお建てになられた。松本平に建てられた教会として、主なる神から助けがやってくることを、いつも自覚して歩んで来た教会なのであります。

山々の背後に神がおられる。このことは、見えるものの背後に何かがあるということになりますが、本日、私たちに与えられた聖書の箇所の一四節も同じように考えることができます。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(一四節)。

ヨハネによる福音書から御言葉を聴き始めて、今日で五回目の説教になります。第一章一節から一八節までのヨハネによる福音書全体の序の部分になりますが、今日で五回目です。今日は教会設立記念礼拝ですが、特に別の箇所を読むということはせずに、この箇所から御言葉を聴きたいと思っています。特に一四節に集中したいと思います。

「肉となって」と記されています。肉となる、肉体を取る、目に見える形になるということです。肉という言葉は、ギリシア語ではサルクスと言います。ヨハネによる福音書を書いた著者は、わざわざこのサルクスという言葉を選んだことになります。「言は肉となって」ではなく、「言葉は人間となって」でも「言葉は体となって」でもよかったはずです。

新約聖書のギリシア語事典をひきますと、このサルクスという言葉は一四七回も使われていることが分かります。興味深いことに、人間の食べる肉に関しては別の語が用いられる。サルクスは人間に関連する語です。人間に関連する語の中で、聖書で使われている語としては、「人間」、「心」という語に次いで、三番目に使用頻度の高い言葉です。その意味するところは広く、人間の肉体、人間全体、人類全体までの幅広い意味があります。

用法も様々ですが、人間の肉体の弱さと関連して使われることも多い。例えば、主イエスが十字架にお架かりになる前夜、ゼツセマネの園で祈りをされました。弟子たちを伴ってでありますが、弟子たちにここで祈っているようにと言われ、少し離れたところで主イエスは一人祈られます。主イエスが弟子たちのところに戻られると、弟子たちは疲れ果てて眠っていました。主イエスはこう言われました。「心は燃えても、肉体は弱い。」(マタイ二六・四一)。

ローマの教会へ手紙を書いたパウロも、人間としての自分を見つめ、こう言います。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。」(ローマ七・一八)。これらの箇所で使われているのがサルクスという言葉です。肉は弱い。私たちも同じように、自分の肉の弱さを覚えることもあると思います。年を取ると、肉体の衰えを感じてきます。様々な欲があるのも、この肉体があるからだと言えると思います。

イエス・キリストがお生まれになったことを、ヨハネによる福音書の著者は、「肉を取って」と表しました。肉を取り、見える形になった。神学の用語ではこれを「受肉」と言います。肉を受ける、肉を受け取る、肉を受け入れる。神が人間の弱さの象徴である肉を受け入れてくださった。その方法を自ら選らんでくださったことを表しています。

今日の聖書箇所に関して、改革者のマルティン・ルターがこのようなことを言っています。「飼い葉桶から始めるべきです」。飼い葉桶とはクリスマスのときの飼い葉桶です。主イエスがお生まれになり、布に巻かれ、飼い葉桶の中に寝かされました。羊飼いたちが知らせを聞いてやって来るわけですが、羊飼いたちが目撃したのが、飼い葉桶の中の主イエス・キリストでした。

ルターは続けてこう言います。「なぜ神はこれほどの苦難を与えられるのか、私どもは、そのようなことを議論します。確かにそれは真実です。あなたがそのように神と共に語り、主権ある神に会いたいと願うのであれば、あなたは、高いところにおられる神を見ることになるでしょう。…だがむしろ、飼い葉桶に行きなさい。そこでこそあなたがたは神を見出します。神が私どもの主であり、あなたがたの救い主であられる事実を見るのです」。

ルターが言っているのは、こういうことです。神を一体どこで見出すのか。私たちはいろいろなことを議論します。そのことをしている中で、自分が高く登って、高きにいます神を見出すのでしょうか。ルターはそうではないと言います。むしろ飼い葉桶に行きなさい。そこに神がおられるから、そこで神にお会いできるから、と言うのです。

言が肉となった。見える形で現れた。その背後には、一体どんな意味があるのでしょうか。松本東教会の人たちは、アルプスの山々という目に見えるものを見て、神への信仰をその都度確かめて、讃美をしてきました。同じように、言が肉となった、その受肉の背後にあるものは何か。イエス・キリストの十字架での死です。

見えるものになるということは、必ず例外なく、それはなくなるということを意味します。コリントの信徒への手紙二にこうあります。「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(Ⅱコリント四・一八)。イエス・キリストの受肉の背後にあるのが、十字架での死です。肉となったからには過ぎ去らなくてはならない。神自らが受肉を、十字架での死を選び取ってくださり、私たちのところに来てくださったのです。

これが神から私たちへの最大の答えになります。本日、この礼拝の中で、一人の姉妹に洗礼が授けられました。この姉妹は二、三年にわたり求道をしてこられましたが、様々な問いを抱いてこられた方です。もちろんこの姉妹だけではない。私たちの誰もが、求道者の誰もがそうです。神について、信仰について、聖書について、様々な疑問を抱きます。

私たちが一つの問いを抱くとすると、その問いに付随してたくさんの問いを抱くことになります。例えば、なぜこの世に悪が存在するのか、という問いを考える。それに付随してたくさんの問いが次々と生まれてきます。悪は神が起こしていることなのか、それとも傍観しているのか。神は悪いことが起こるのを止めることができるのか、全能の力を持っているのか。いや、そもそも悪とは一体何か…。このようなたくさんの問いが次々と生まれてきます。そして結局の行き着くところは、私たちはその問いのすべてに決して答えることができないというところです。人間は神ではない。すべてを知ることなどできないのです。

神は私たちに何でも答えてくださるというわけではありません。しかしたった一つ、私たちに与えてくださった最大の答えがあります。それが、まさに本日、私たちに与えられた聖書の言葉です。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(一四節)。
私たちはこの世を生かされている中で、たくさんの問題を抱えて生きていかなければなりません。悪の問題もそうです。それだけでなく、経済の問題、健康の問題、家庭の問題、社会の問題、その他にもたくさん挙げることができます。いろいろな問題に苦しむ私たちです。

そんな私たちのところに、イエス・キリストが来てくださった。それも肉を持って、痛みの分かるお方として、実際に傷んでくださった方として、私たちのところに来てくださった。私たちの苦しみや重荷を代わりに担い、十字架で死ぬために来てくださった。これが答えなのです。どんな問題に苦しむ者であろうと、神から私たちに与えられている答えがこれなのです。「主イエスはあなたのために肉となったのだ」、「あなたのために十字架で死なれたのだ」、これが私たちに共通に与えられている答えであり、救いなのであります。

一四節に「わたしたち」という言葉があります。ヨハネによる福音書では、初めてここに「わたしたち」が出てきます。第一章一~一八節の序の部分で、三箇所出てきます。一四節、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」の中に二箇所、それに一六節、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」のところが三箇所目です。

ここに出てくる「わたしたち」とは一体誰でしょうか。実際に「その栄光を見た」人でしょうか。実際に主イエスにお会いした弟子たちでしょうか。ヨハネによる福音書が書かれた頃の教会の人たちでしょうか。それとも、実際に見ていない人たちを含めた教会の信仰者たちのことでしょうか。聖書学者たちもいろいろな「わたしたち」を考えています。

しかし、あまり特定の「わたしたち」に限定する必要はないと、私は思います。「わたしたち」の範囲がどんどんと広げられているからです。三番目の箇所である一六節には「わたしたちは皆」と書かれています。皆が、例外なく「わたしたちは皆」、恵みの上にさらに恵みを受けたのです。

ヨハネによる福音書の最後に「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(二〇・三一)とあります。「あなたがた」とありますが、この福音書を読む「あなたがた」が信じて、今度は「わたしたち」の側になって欲しい。ヨハネによる福音書が書かれたのには、そのような明確な目的があります。

私たちの松本東教会の九〇年の歩みもそうでした。様々な人たちが集いました。一体のべ何人の人が集ったのか。そのようなことは数えたこともありませんが、たくさんの人が集い、教会に加えられ、「わたしたち」が増えていった。今日も受洗者が与えられ、一人の方が加えられました。今も昔もこれからも、皆がイエス・キリストを信じ、イエス・キリストに生かされる「わたしたち」になるのです。