松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2014年9月7日(日)
説教題「恵みと真理」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第1章9〜18節

その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

旧約聖書: 出エジプト記 第33章18~23節

ヨハネによる福音書から御言葉を聴き始めて、今日で四回目の説教となりました。ヨハネによる福音書の第一章一~一八節は、この福音書の序文の文章です。来週、もう一回、この序文の文章から御言葉を聴き、次に進みたいと思いますが、今日は特にこの序文の中でも「恵みと真理」について、考えたいと思います。

二つのものが並べられていますが、まずは真理から考えてみましょう。真理とは一体何でしょうか。真理という言葉を使う場合、何気なく使っているところもあると思います。真理のことを何となく分かっているような気がする。しかし具体的に真理とは何か、誰かにそう聞かれたとすれば、皆さまはきちんと答えることができるでしょうか。おそらく答えに困ってしまうと思います。

試しに辞書で真理という言葉をひいてみますと、「ほんとうのこと。まことの道理。」(広辞苑)という意味や、「だれも否定することのできない、普遍的で妥当性のある法則や事実」(大辞林)というようなことが書かれています。なるほど、真理とはそういう意味だということは何となく私たちも知っているわけです。しかし、では具体的に真理とは何なのか、だれも否定することのできない普遍的で妥当性のある法則や事実とは一体何なのか、そう問われたら、答えに困ると思います。さらに、その真理を定義できたとしても、あなたはその真理に生きているのかと問われたならば、ますます困ってしまうと思います。

真理とは何か。新約聖書の元の言葉はギリシア語です。ギリシア語で真理は「アレセイア」と言います。ヨハネによる福音書で頻繁に出てくる言葉です。今日も含めてですが、これからもたくさん真理、アレセイアの話をしていくことになるだろうと思います。

ギリシアと言えば、ギリシア哲学です。哲学者たちも真理をめぐっていろいろなことを考えました。まず真理のことを最初に考えた人として、プロタゴラスという人を挙げることができます。この人は紀元前五世紀に生きた人です。プロタゴラスは「人間は万物の尺度である」という言葉を残しました。人間は何か物を見たり触れたりします。そしていろいろなことを感じとります。しかし感じ取り方は人によって様々です。例えば、風が吹いてくる。風に当たると、暑いと感じる人もいれば、寒く感じる人もいます。風に吹かれて気持ちいいと感じる人もいれば、不快と感じる人もいます。まさに「人間が万物の尺度」なわけです。そうなりますと、人それぞれに違うのだから、真理というものは相対的なものであって、絶対的な真理などはない。プロタゴラスはそう考えたのです。

続けてはプラトンという人です。この人は紀元前五世紀から四世紀にかけての人で、プロタゴラスよりも一世代後の人です。プラトンは「真理とは永遠かつ普遍的なもの」と考えました。しかし人間はなかなかその真理を探り当てることができないと考えた。なぜかというと、人間というものは、魂が肉体という牢獄の中に閉じ込められている。その人間が現実世界で真理を探ろうとしても無理な話しだと、プラトンは考えたのです。それでもプラトンは、「絶対的な真理はない」と考えたプロタゴラスのようには考えませんでした。確かに現実世界に真理はないかもしれない。しかし現実世界とは別の霊的な世界に真理はあるのだ、そう考えたのです。

プロタゴラス、プラトンから時代がだいぶ経って、紀元四世紀から五世紀にかけて活躍したアウグスティヌスという人がいます。先週の説教でもご紹介をしましたが、この人は教会の人です。哲学的なことにもかなり精通していた人です。アウグスティヌスはプラトンに反対しました。確かに真理を認識することは難しいかもしれない。しかし、ヨハネによる福音書の冒頭に「万物は言によって成った」(一・三)と書かれている。また創世記の初めに、人間が神の像・似姿として造られたと書かれている(創世記一・二六~二七)。私たち人間は、神によって造られたのであるから、神の助けによって、真理を認識することができると考えたのです。

私たちもアウグスティヌスと同じように、教会の人として、神に助けられて、聖書から真理を聴き取ることができます。真理に生きることができます。真理とは何でしょうか。聖書は何と語っているでしょうか。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所に、真理という言葉が二箇所、出てきます。一四節と一七節ですが、いずれも「恵みと真理」とあります。恵みと並べられて出てきているのです。「恵み」と「真理」。「これ」と「それ」。英語で言えば、AとB。このように並べる場合、同列のものを並べることもできますし、まったく違うものを並べることもできます。AイコールBである場合もあれば、AとBがまったく対立する場合もあります。AとBに何を並べるか、それは文章を書く人の自由です。

しかしギリシア語で時々なされる決まりのようなことがあります。AとBというように二つのものを並べた場合、後に出てくるBのものが先に出てきたAを説明するという場合があるのです。例えば、聖書の中に「知恵と理解」(コロサイ一・九)という言葉が記されています。神が「知恵」と「理解」を私たちに与えてくださったということですが、「知恵」と「理解」というまったく別のものを与えてくださったのではなく、「知恵」つまり「理解」を与えてくださったという意味になる。知恵を得れば、理解をすることができるわけです。このように考えると「知恵と理解」と訳すよりも、「知恵、すなわち理解」と訳した方がよいかもしれません。

ここで出てくる「恵みと真理」も同じように考えることができます。二つのまったく対立するものではなく、「恵み、すなわち真理」と考えた方がよい。もっと言えば「恵み、それこそが真理なのだ」ということです。さらに言うならば「恵み、それがなければ真理なし」、そう言っていると考えることができる。人間は恵みを受けて生きる、それが真理に生きる者の生き方である、聖書が言っているのはそういうことなのであります。

真理を知ることももちろん大切なのではありますが、真理に生きることが何よりも大切なことになります。どうせ人間は真理には生きられない、そう言ってみせたところで、それは真理に生きていることにはなりません。単に真理に背を向けて生きているだけです。

私たちも自分の生き方を省みてみる。礼拝の祈祷で毎週必ずしているのが、悔い改めの祈りです。先週の一週間の生活を、神の前にあって振り返ってみる。自分の生き方がどこか歪んだ生き方であったことに改めて気付かされます。そんな歪んだ生き方をごまかそうとして、ぼろが出ないように何とか繕ってきた。時にはぼろが出てしまうこともあったかもしれません。

実際には私たちの生き方は、恥ずべき生き方になってします。神に対しても人に対しても、立派に胸を張って自分の生き方を見せることができない私たちです。そんな生き方しかできない私たちを、聖書は何と言うかというと、罪人と言うのです。神の前に私たち人間は罪人。そんな私たちが罪人して自分たちの歪んだ生き方を悔い改めて祈る。それが祈祷の中でしていることの一つです。

どうしても真っ直ぐに生きることができない、罪人の私たちなのでありますから、私たちに残された道は、赦していただく道だけです。赦されること、それは恵みです。その恵み、すなわちそれが真理なのだ、ということです。罪人のゆえに、恵みを受けなければ真理に生きられない私たちである。恵みを受けて生きることこそ、真理の生き方である。聖書が言っているのはそういうことです。

聖書にはその真理が書かれています。そしてその真理に生きよと奨められている。ヨハネによる福音書の中で、恵みという言葉は、今日の箇所に出てくるわけですが、一七節を最後にして、ヨハネによる福音書の中には二度と出て来ない言葉になります。反対に真理という言葉は、実にたくさん出てくる言葉です。数え上げると、全部で二五回も出てくる。第一章一四節を先頭にして、最後に出てくるのは第一八章三八節です。「真理とは何か」、ピラトという人が主イエスにそのように尋ねています。この人は主イエスの十字架での死刑を最終的に確定させた裁判官です。裁く人が裁かれる人に「真理とは何か」と尋ねたのです。

主イエスはその時、真理に関しては何もお答えになりませんでしたが、むしろヨハネによる福音書に書かれている出来事や主イエスのお言葉から真理を知ることができます。例えば、主イエスがあるときにこう言われました。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(八・三一~三二)。文脈としては、罪をどうしても犯してしまう、罪の奴隷になっている私たち人間が、真理によって自由になるということが言われています。

また主イエスは別の箇所で、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(一四・六)と言われました。このような主イエスの言葉をたどることによって、私たちは真理を知ることができます。

先ほど、真理という言葉はたくさん出てくるが、恵みという言葉は第一章一八節を最後にして後は出て来なくなると申し上げました。それでは恵みは消えてなくなってしまったのか。そうではありません。恵みという言葉こそは出てきませんが、恵みの出来事がたくさん記されているのです。

例えば、第八章の初めに「姦通の女」が出てきます。いずれ詳しくお話しすることになりますが、この人は死刑に定められる可能性のある罪を犯しました。しかし最後のところで主イエスから言われます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(八・一一)。赦しの出来事です。恵みの出来事です。真理の出来事です。十分に恵みが現れている出来事ですが、その出来事が「恵み」という言葉が使われずに記されていく。それがヨハネによる福音書の一つの特徴です。

ヨハネによる福音書の序文の中で、恵みという言葉が出てくるもう一つの箇所が、一六節です。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(一六節)。

一六節の前半のところで、「満ちあふれる豊かさ」という言葉が出てきました。この言葉は充満、溢れ出すという意味です。器に水を注ぎます。その器に入りきらないで溢れ出す。そんなことを表す言葉です。

私たちの松本東教会の九〇年にわたる歴史もそうでした。いつも恵みが溢れていた。来週の日曜日、教会設立九〇周年の記念のときを持ちます。記念礼拝を行い、記念集会も行いますが、あまり大がかりなことはしません。むしろいつも通りの礼拝を行うことにしています。

午後の記念集会も、ごく短い時間で簡単に終えたいと思っていますが、昔の写真のスライドショーを予定しています。先週、私はこの教会の昔の写真をたくさん観ました。その写真を観ていると、今とではまったく違う様子が写し出されている写真もありますし、今とまったく変わっていない様子の写真もあります。

私たちの松本東教会は、改革派という流れの中にある教会です。九〇年前、日本基督教会というグループの一教会として正式に発足しました。この日本基督教会が改革派の伝統に立っているのです。戦争中に松本市内の三教会が合同し、また戦後は単立の教会として歩み始めましたが、一三年前に日本基督教団に加盟をしました。そして最近、改革派の流れの中にある教会であることを、再び自覚するようになってきました。

改革派の教会の特徴として、いろいろなことを挙げることができますが、その一つに、礼拝堂がとても簡素であることを挙げることができます。宗教画が飾ってあるわけではない。いろいろな飾りがあるわけでもない。牧師がきらびやかな衣装を身にまとっているわけでもない。簡素であることをよしとするのです。なぜか。言葉を大切にするからです。礼拝堂に何もなかったとしても、礼拝堂の空間が神の言葉で満たされていればよい。今日の聖書の言葉にあるように、「満ちあふれる豊かさ」であればよい。そう考えるのです。

改革派の一つのスローガンとしての言葉に、「御言葉によって絶えず改革される教会」というものがあります。改革とは言っても、人間や制度によって改革されるのではない。神の言葉によって改革される。礼拝堂いっぱいに神の言葉が響き渡り、収まりきらずに溢れ出す。そのことが昔も今も、そしてこれからも起こる。そのような教会として私たちは歩み続けているのです。

一六節の後半のところに「恵みの上に、更に恵みを受けた」とあります。恵みという言葉がここに二度も出てきます。元の言葉がどうなっているかと言うと、「恵み、アンチ、恵み」となっています。恵みという言葉の間に「アンチ」という言葉が使われているのです。アンチという言葉は、英語だと「反対に」という意味があります。私はアンチ巨人ファンだと言うと、私はあまり巨人という野球のチームが好きではないということになります。

ギリシア語では「反対に」という意味よりも、「代わりに」という意味合いの方が強い言葉です。つまり「恵みの代わりに恵み」という意味になります。これでもまだ何を言っているのか、よく分からないと思います。これをどう理解するのか、二通りの理解の仕方があります。

第一の理解の仕方はこうです。恵みという言葉が二回出てきますので、最初の恵みと二番目の恵みは違う恵みであると考える。最初に恵みがあったけれども、二番目の恵みがやってくる。直後の一七節がまさにそのことを言っていると考えるのです。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」(一七節)。

モーセを通して神から与えられた律法、これは神から与えられた生きるガイドラインでありますから、これも恵みとして有難かった。しかしその恵み通りには生きられなかったわけです。そこで二番目の恵みがやってくる。イエス・キリストを通して与えられた恵みです。つまり一七節で言っているように、最初の恵みがあったけれども、その代わりの恵みとして二番目の恵みがやってきた。それが第一の理解の仕方になります。

第二の理解の仕方はこうです。「アンチ」という言葉をどう解釈するか。ある人が、この言葉には「絶え間なき交替」があると言っています。二つだけではない。次々と交替が起こると言うのです。ある説教者は「恵みの波が押し寄せている」と言いました。私たちが海辺に立ったときのことを考える。波がやって来ます。しばらくすると次の波、そのまた次の波が押し寄せます。何度も何度も、代わるがわるにやって来ます。「アンチ」にはそのような意味もある。こう考えますと、一六節前半にあります「満ちあふれる豊かさ」という言葉と非常によく合うわけです。水が溢れる、波が何度も押し寄せる、そんなイメージです。

改革派の最初の改革者でありますジャン・カルヴァンという人が、ヨハネによる福音書の注解を書いています。カルヴァンも、この言葉をこのように解説しています。「わたしは、むしろこれを、キリストのうえに注がれためぐみに、わたしたちは浴している、と解釈するひとたちの意見をとりたい。…いわば運河としてかれ〔キリスト〕からわたしたちのところにまで、注ぎこませるものだからである」。恵みが溢れるほどに注がれている。たった二回だけではなく、何度も繰り返されるのです。

この恵みを受けて生きる者こそ、真理に生きる者です。真っ直ぐには生きられない、歪んだ生き方しかできない、そんな私たちです。そんな私たちにとって、どこに真理があるのか。歪んだ自分を隠すようにして、繕うようにして生きている生き方に真理はありません。真理とは何か、そのことを論じはするけれども、ちっともその真理に生きようとはしない、そんな生き方にも真理はありません。

そうではなく、自分が罪人であることを素直に認め、悔い改め、神に赦していただく。神は私たちをイエス・キリストの十字架のゆえに、赦してくださいます。その赦しの恵みの中に生きる。それが真理です。赦された者として私たちが歩む。その生き方が真理を生きるということになるのです。