松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2014年8月31日(日)
説教題「誰によってキリストを知るか」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第1章6〜18節

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

旧約聖書: ダニエル書 第3章8~30節

ヨハネによる福音書からの説教を始めて、今日が三回目になります。一回目と二回目の説教ともに、第一章一~五節より御言葉を聴きました。今日は範囲としては六~一八節となっています。来週は九~一八節、再来週は一四~一八節を予定しています。今日は特に六~八節と一二~一三節を中心にして、御言葉を聴きたいと願っています。

一回目の説教で、ヨハネによる福音書の全体的な話をする機会もやがて訪れるだろうとお話しました。今日はまず、その全体的な話しの中で、ヨハネによる福音書の著者は一体誰だろうかという話から始めたいと思います。

主イエスの十二人の弟子の中に、ヨハネという名前の弟子がいます。「ゼベダイの子、ヤコブとヨハネ」という形でしばしば登場しています。主イエスの一番弟子とも言われるペトロと、「ヤコブとヨハネ」という兄弟の三人は、ある意味では特別な三人でした。十二人の弟子の中でもこの三人だけが特別に選ばれて、主イエスと同行するという話もあります。マタイによる福音書によれば、十字架の前夜のゲツセマネの園での祈りは、この三人だけが主イエスの苦しみ悶えながら祈る姿を目撃しました。もっとも主イエスが祈っておられる間に眠ってしまったので、どこまでその姿を真剣に見たかは別問題ですが、いずれしても特別な三人です。

この福音書には「ヨハネによる福音書」というタイトルが付けられています。それでは主イエスの弟子であったヨハネがこの福音書の著者なのかと言うと、はっきりしないのです。実は「ヨハネによる福音書」というタイトルは、最初から付けられていたわけではありません。だんだんと「ヨハネによる福音書」というタイトルが付けられるようになっていったのです。

二世紀後半に、今のフランスですが、リヨンというところで活躍をした教会のリーダーにエイレナイオスという人がいます。この人が書いた本の中で、この福音書の著者は主イエスの弟子のヨハネなのだと明言しています。それではエイレナイオスが初めて「ヨハネによる福音書」というタイトルを付けたのかというと、そうではなく、すでに二世紀にはこの福音書の著者がヨハネであることが伝統となっていたのだと思います。

しかし今の聖書学の研究からすると、エイレナイオスのように考えることに少し無理が生じてきています。ヨハネ一人が著者であるとは言えない。いや、ヨハネが本当に著者の一人であるのかどうかもはっきりとは言えない。実のところ、誰もが納得するような説得力のある著者を挙げている学者は一人もいません。よく分からないというのが実際のところです。

しかし一つだけはっきりと言えることがあります。ヨハネによる福音書の最後のところをお開きください。第二一章の二四節にこうある。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。」(二一・二四)。「この弟子」とは一体誰でしょうか。この直前の二〇節にこうあります。「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。」(二一・二〇)。

レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」をはじめとする絵画では、主イエスの胸元に寄り添っている人物が描かれますが、それはこの聖書の言葉が根拠です。そしてもう一つの前提は、この福音書の著者がヨハネだということです。だから主イエスの胸元にヨハネが寄り添っている。

絵画のことはともかくとして、二四節のところに「わたしたち」という言葉があります。「わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。」(二一・二四)。聖書学者たちはこういう言葉に着目をします。聖書学者たちがしていることは、本当に地道な作業と言えますが、細かい言葉から事実を少しずつ解明していくのです。なぜここに「わたしたち」という言葉が使われているのか。それは、ヨハネによる福音書をまとめて書き上げた「わたしたち」、それも教会の「わたしたち」がいたからです。

ヨハネによる福音書の成立年代を考えると、これは一番遅くに書かれた福音書であり、九〇年代ではないかと推測されている。主イエスが十字架にお架かりになったのが三〇年頃だとすると、それから六十年以上も経っていることになります。主イエスの直接の弟子が一人で書いたとは思えない。しかしその弟子の証言したこと、あるいは書いたことを、教会の人たちが引き継ぎ、「わたしたち」の文章としてヨハネによる福音書を整えた。それが、最も確からしい説明であると思います。

著者の話をしてきましたが、主イエスの弟子にヨハネがいる。そして本日、私たちに与えられた聖書箇所にも、もう一人のヨハネが出てくる。しばしば混同されてしまうこともありますが、今日出てくるヨハネは主イエスの弟子ではありません。洗礼者ヨハネと呼ばれている人物です。

この洗礼者ヨハネは、その名前の通り、人々に悔い改めの洗礼を授けていた人です。ヨハネによる福音書に記述はありませんが、主イエスもこのヨハネから洗礼を授けてもらいました。主イエスよりも半年前に生まれ、救い主である主イエスが来られる道備えをした人であると言われています。

新約聖書には四つの福音書がありますが、この洗礼者ヨハネはどの福音書にも最初のところで出て来ている登場人物です。ヨハネによる福音書は他の福音書と違って独特なところがあり、ヨハネの登場の仕方も独特ですが、いずれにしてもきちんと出てくるのです。しかも物語が始まる前の序の部分、第一章一~一八節の部分に、洗礼者ヨハネの名前が記されます。

この序の部分の一~一八節ですが、イエス・キリストと洗礼者ヨハネが絡み合っている形で登場していることが分かります。洗礼者ヨハネが出てくる部分が六~八節と一五節のところになります。この二箇所の部分を飛ばして読んだとしても、すっきりとつながることが分かります。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。…その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(五、九節)。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。…わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」(一四、一六節)。

このようにヨハネの部分だけを取り除くと、非常にすっきりと意味が通じますので、もともと一つのまとまりを持った讃美歌ではないかと言われています。そしてその讃美歌の間に洗礼者ヨハネのことを挿入して、ヨハネによる福音書の序の部分、一~一八節を完成させた。新約聖書学者の多くはそのように言っています。

そうだとすると問題となってくるのは、なぜヨハネによる福音書の著者がそのようなことをしたのかということです。一つの理由として挙げられるのは、洗礼者ヨハネを創始者とする教団にかなりの力があったからという理由が考えられます。実際に、洗礼者ヨハネ自身の意図とは違いますが、ヨハネ自身が神として、もしくは神と等しい者として崇められることがあったようです。ヨハネによる福音書が書かれた頃の教会にも、大きな影響力を持っていた。

例えば、やがて読むことになります第一章三五~三七節にこうあります。「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。」(一・三五~三七)。洗礼者ヨハネの二人の弟子が、このとき主イエスの弟子に鞍替えしていることが分かります。

主イエスも洗礼者ヨハネから洗礼を授けられましたが、かつてはヨハネから洗礼を受け、ヨハネ教団に属していた者が、今や教会のメンバーになっている。こういう者も多かったと思われる。だからヨハネによる福音書の冒頭のところで、ヨハネは教祖ではない、神ではない、神に等しい者ではないということを示す必要がまずあった。そう考えられるのです。これが第一の理由です。

なぜ洗礼者ヨハネのことを最初に取りあげる必要があったのか、第二の理由はこうです。この福音書の著者は、洗礼者ヨハネは教祖でも神でもないことを強調しますが、何もヨハネの全存在を否定しているわけではありません。他の福音書も洗礼者ヨハネを否定的にではなく、肯定的に書いているところがあります。主イエスに道備えをする者として、主イエスのことを証しする者として重視しています。今日の箇所の七節後半にこのようにある通りです。「すべての人が彼によって信じるようになるためである。」(七節)。

ヨハネによる福音書だけでなく聖書全体には、神のことだけが書かれているわけではありません。人間のことも書かれています。時には人間の罪のことが書かれていますが、人間が神に用いられる話も多く書かれています。人間が神のことを証言する、証しをする、そのことが軽視されることはありません。本日、私たちに与えられた聖書の箇所は、イエス・キリストのことが書かれていますが、それだけでなく、証言者であるヨハネのことも書かれている。だからイエス・キリストに洗礼者ヨハネを混ぜ合わせたのです。

四世紀から五世紀にかけて活躍した人に、アウグスティヌスと呼ばれる人がいます。この人はカトリック教会では教会博士の一人に数えられている人です。かなりの学識があった。たくさんの本を書いた。それも今の教会の礎を築くような、大事なことを多くまとめてくれた人です。

そのアウグスティヌスが、ヨハネによる福音書の注解、解説を書いてくれています。日本語にも翻訳がなされています。その注解の最初のところで、アウグスティヌスはこのように書いています。「兄弟たち、ヨハネもまた〔真理を〕あるがままに語ったのではあるまいと、わたしはあえて言う。彼もまた自分にできる限りで語ったのである。なぜなら人が神について語ったのであるが、彼は神から霊感を受けていたとはいえ、人だったからである。…彼は人として霊感を受けたのであるから、存在するもののすべてを語ったのではなく、人にできる限りのことを語ったのである。」(『アウグスティヌス著作集』、教文館、第二三巻、一二頁)。

アウグスティヌスもヨハネによる福音書を書いた人物が、主イエスの弟子のヨハネであったと考えているわけですが、そのヨハネといえども、神の霊感を受けたとはいえ人間であり、人にできる限りの力を用いて語ったにすぎないと言っています。アウグスティヌスが言うように、聖書とは、神が人間をまったく間に通すことなく直接与えたのではなく、人間の証言を通して与えられた神の言葉なのです。

そのことがまさに「すべての人が彼によって信じるようになるためである。」(七節)ということですが、使徒言行録から御言葉を聴いてきた私たちはよくそのことが分かると思います。使徒言行録はペトロやパウロといった使徒たちが、イエス・キリストのことを証言します。そしてその言葉を聴いた人たちの中に信じる者が現れた。信じる者は人を通して神を信じるようになったのです。

八月二三日の土曜日から二四日の日曜日にかけて、一泊二日でこどもの教会の修養会が行われました。小学校高学年から中学生にかけての子どもたちに、洗礼・信仰告白を真剣に考えてもらいたいとの願いが、このような修養会を開催する理由になりました。その開会礼拝のところで、私がプリントを用意してお話をしましたが、そこで私が強調したことがあります。それは、洗礼を受ける、信仰告白をするとは、自分の独自の信仰を表明するのではなく、教会がすでに持っている信仰に同意をすることであるということです。

少し言い方を変えると、「あなたは…を信じますか」と問われ、「はい、信じます」と答えるだけ、「はい」と言えればよいのです。自分の信仰をレポートとして提出して、牧師あるいは長老会がそれを採点して、あなたは合格、というわけではないのです。自分の言葉を用意する必要はない。このことをさらに言い換えると、洗礼・信仰告白をする者は、すでにイエス・キリストを信じている者の証言を聴いて、それを受け入れて信じる。ただ「私は信じます」と言えればよいのです。

このように人間の証言が重要になってくるわけですが、人間を最重視するわけにはいきません。そうであるならば、ヨハネ教団の一部の人たちと同じ過ちを犯すことになってしまいます。一二~一三節にかけてこうあります。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(一二~一三節)。

ここで問題となっているのが、どのように神の子、つまりイエス・キリストを信じる信仰者が生まれるのかということです。一三節のところに、三つの否定形が出てきます。

まずは「血によってではなく」です。かつての口語訳聖書では「血筋」となっていました。家柄とも言えるかもしれません。つまり、両親ともにキリスト者であったとしても、その子が自動的にキリスト者になるわけではないということです。皆様の中に両親の両方ともがキリスト者という方がおられます。しかしそれだけの理由で、キリスト者になったわけではありません。そうではなく両親はキリスト者ではなかったけれども、自分が初めて家族の中でキリスト者になった、そういう方もおられます。

次に「肉の欲によってではなく」という言葉です。男女が結婚をします。子をもうけます。「肉体の意志」とも言えますが、そのような性的なことによって、神の子が生まれるというわけではありません。

三番目に「人の欲によってでもなく」とあります。一番目と二番目に引き続き、また同じような表現が出てきています。同じことを言っていると考えることもできます。そうではなく、New English Translationという英語の翻訳の聖書では、この箇所を少し別の理解として考えています。この翻訳だとこの箇所は ’a husband’s decision’ となっています。「夫の意志によってでもなく」ということです。

人という言葉は英語ではmanですが、これを夫として考える。昔のことですから、当時は夫が家の中では権力を持っていたところがあります。夫が妻に対して、子どもに対して、あなたは神の子になりなさいと命令をする。現代では妻が夫に対してということも考えるわけですが、いずれにしても誰か人間が他の人間を命令することによって、神の子が生まれるのではないと考えるのです。

こういう三つの否定形を経て、最後に「神によって生まれたのである」(一三節)と続きます。「生まれた」という言葉が用いられています。元のギリシア語の言葉は、ギノマイという言葉なのですが、実はこの一三節に至るまで、何度も使われてきた言葉です。ギノマイは、生じる、成る、造られるという意味です。

日本語に翻訳された言葉が違うので分かりづらいのですが、例えば三節の言葉がそうです。「万物は言によって成った」(三節)。「成る」という言葉がギノマイです。六節にもあります。「神から遣わされた一人の人がいた」(六節)。「いた」とありますが、これがギノマイです。正確に訳すならば「神から遣わされた一人の人が造られた」とでも言った方がよいでしょうか。そして一二節にもギノマイがあります。「その名を信じる人びとには神の子となる資格を与えた」。「神の子となる」ではなく「神の子として造られる」と訳してもよいのです。つまり、これらの箇所で言われているのは、万物も、洗礼者ヨハネも、そしてイエス・キリストを信じる信仰者たちも、皆が神によって「造られた」ということです。

皆様の中に、神を信じる信仰を持ちたいのだけれども、なかなか信じられない。そのことで悩んでおられる方があるかもしれません。あるいは少しずつ信じ始めているけれども、確かに信じたいと思われている方もあるかもしれません。私も牧師として、信じるためにはどうすればよいですか、と質問を受けることがあります。実を言うと、その質問が一番困る質問であると言っても過言ではありません。私がアドヴァイスすることはできるかもしれませんが、信じるための特効薬などないからです。信仰は神から与えられるものだからです。

先週の木曜日のオリーブの会でも、信仰についてがテーマでした。信じるだけで救われるのか、というテーマです。このことをめぐって、すでに洗礼を受けた者も、まだ受けていない者も、皆で話し合いました。いろいろな話し合いがなされましたけれども、一つ皆で同意をしたことがあります。信仰を持った者が自分の過去を振り返って考えてみる。過去のある時に、神を信じて洗礼を受けたわけですが、なぜ神を信じるようになったのか、なぜ洗礼を受けたのか、自分では説明がつかないということ。そのことを皆で同意をしました。

私たちが信じた信仰の内容は、「イエス・キリストが十字架にお架かりになり、三日目に復活され、私たちの罪が赦されて、今も生きて働いておられる」ということです。なぜそのことを信じるに至ったのでしょうか。自分では説明することができません。しかしたった一つ言えることは、神が私に信仰を与えてくださったということ。自分の力や知恵で信じるようになったのではなく、神が信じるようにしてくださった。それがオリーブの会で私たちが同意をした、もう一つのことであります。

本日、私たちに与えられた聖書箇所でそのことを言うと、「神によって生まれた」(一三節)ということです。ギノマイという言葉を生かすならば、「神によって造られた」。信仰を与えられた私たちは神の子として新たに生まれ変わり、造られた者なのです。ヨハネによる福音書が書かれた時代だけではありません。洗礼者ヨハネと同じように、キリストのことを伝える者が神によって造られる。その言葉を聴いて信じて洗礼を受けて、神の子となる者が造られる。それがヨハネによる福音書が書かれた頃の教会であり、今の教会でもあるのです。