松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

facebook.png


HOME > 礼拝説教集 > 20141012

2014年10月12日(日)
説教題「キリストは私たちを知っていてくださる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第1章43〜51節

その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

旧約聖書: 創世記 第28章10~22節

本日は神学校日・伝道献身者奨励日です。牧師を養成する神学校の働きを特に覚える日です。私たちの教会では毎年、神学校のために祈り、礼拝の席上献金の全額を神学校にお献げすることにしています。

神学校では神学生たちが、伝道者として遣わされる日のために備えをしています。私の出身神学校では、授業がもちろんあるわけですが、午前中の時間に毎日、礼拝が行われていました。神学校の先生と神学生たちが説教を担当します。その礼拝で多く読まれる聖書の箇所が、主イエスの弟子たちの召命の箇所です。召命とは使命に召されることですが、弟子としての使命に召された箇所が神学生たちに好まれる傾向があると思います。なぜそのような箇所が好まれるのかは容易に想像がつくと思います。主イエスの弟子に召され、主イエスに従ってついて行く。自分の歩みと重ね合わせるからです。

主イエスの十二人の弟子たちは、主イエスの弟子として召されました。聖書に書かれている召命の話は、主イエスの弟子たちだけではありません。旧約聖書にもたくさん出てきます。イスラエルの民を率いるリーダーとして、モーセがその使命に召される。イスラエルの王としてダビデが召される。神から言葉を預かり、それを民に伝える預言者に、イザヤやエレミヤが召される。そんな召命の話がたくさん記されています。

召命を受けた者としては、当然、自分がしかるべくして受けたと思っているわけではありません。そうではなく、なぜ自分なのか、自分はふさわしくないのではないか、別の人の方がよかったのではないかと、皆が思っています。自分が召された不思議を思うのです。例えば、エレミヤを預言者として召した神はこう言われました。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」(エレミヤ一・五)。

自分が神を知り、信じるようになり、自分から預言者としての使命に自発的に生きようと思ったわけではありません。エレミヤは「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」(一・六)と抵抗します。しかし神が自分のことを生まれる前から知っていてくださり、召してくださった。その不思議の前にエレミヤは預言者として立つのです。

これは何も特定の人たちだけの話ではありません。預言者や王だけの話でもない。主イエスの弟子たちだけの話でもない。神学校で学ぶ神学生や牧師だけの話でもない。すべてのキリスト者に言えることです。自分がなぜキリスト者となったのか。なぜキリスト者に召されたのか。神はエレミヤと同じように、私たちにも言ってくださる。その不思議を思う私たちであります。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所には、二人の弟子たちの召命の話が記されています。今日の箇所の一つ前の箇所、先週の箇所になりますが、ここではすでに三人の弟子たちが主イエスの弟子として召されていました。アンデレと無名の弟子、この弟子はおそらくヨハネによる福音書執筆にかかわったヨハネ自身だと思います。そしてもう一人がアンデレの兄弟のペトロです。先週の箇所でまずこの三人が召された。

そして今日の箇所では、フィリポとナタナエルという人物。四人目、五人目の弟子です。ナタナエルという名前は、ヨハネによる福音書にしか出てきません。他の三つの福音書では「バルトロマイ」となっています。「バル」というのは息子という意味ですから、バルトロマイは本名ではなく、ナタナエルが本名ではないかと多くの人は考えています。

今日の話の内容としては、まずフィリポが主イエスと出会い、主イエスを信じる。そこから始まっています。そしてフィリポがナタナエルと出会い、ナタナエルを主イエスのところに連れて行く。ナタナエルはフィリポからそう言われても、半信半疑でした。しかしそれでもフィリポに連れられ、主イエスのところへ行く。今日のこの説教では、ナタナエルに照準を合わせて、御言葉を聴きたいと思っております。

ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(四六節)と言っています。なぜこう言ったのでしょうか。ナタナエルはよく聖書を知っていたからです。旧約聖書のミカ書にこうあります。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」(ミカ五・一)。

この記述から、救い主がナザレではなく、ベツレヘムから出ることが分かります。聖書を学ぶ者はそのことを知っていた。そして救い主を待っていたわけです。四つの福音書には、マタイとルカにクリスマスの話が記されています。主イエスがどこでお生まれになったのか。マタイでもルカでも、ベツレヘムでお生まれになったことが強調されています。なぜそうなのかと言うと、ミカ書にそんな記述があったからです。育ちはナザレでも、出生はベツレヘムであった。そのことにかなり強いこだわりが見られる。対照的に、マルコによる福音書では、クリスマスの話もありませんし、ベツレヘムでお生まれになったことは触れられていません。

ヨハネによる福音書はどうか。クリスマスの話はありません。しかし第七章にこのように記されています。「「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」」(七・四一~四二)。さらに「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」(七・五二)とも記されています。やはりヨハネによる福音書でも、ミカ書の記述が重んじられていると言えます。ナタナエル自身としても、そうでありました。

今日の聖書箇所の四八節の後半のところに、「いちじくの木の下にいるのを見た」と主イエスがナタナエルに言われています。ナタナエルはなぜいちじくの木の下にいたのでしょうか。理由は聖書に記されていませんので、想像するしかありませんが、諸説ある中で、このような説があります。

パレスチナという地域は、気候としては暑い地域です。いちじくの木は、大きな木で葉っぱがたくさん生えていて、涼しい木陰ができる。先生であるラビが弟子たちをいちじくの木の木陰に集めて、教えを説いたり、聖書を読んだり、祈りをしたりしたのだそうです。ナタナエルもいちじくの木の下で聖書を読んでいた。そんな姿を主イエスに目撃された。そのような姿を主イエスはご覧になり、ナタナエルのことを「まことのイスラエル人だ」(四七節)と言われているわけです。

この四七節の箇所で、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」(四七節)と主イエスは言われています。ナタナエルのことを高く評価している言葉です。しかも「偽りがない」とまで言われる。

そこで私たちは立ち止まって考えなければならなくなります。偽りがないとはどういうことか。ナタナエルに偽りがないと主イエスは言われるけれども、偽りのない人間などいるのだろうか。自分はどうか。自分には偽りがある。真実に生きられないところがある。どうしても偽りから自由にはなれない。私もナタナエルのように言ってもらえるだろうか。いろいろなことを私たちは考えるわけです。

この偽りという言葉は、新約聖書の中で何回か出てきます。ナタナエルと対照的に、使徒言行録に魔術師エリマという人物が出てきます。この人のことがどう書かれているのかと言うと、「あらゆる偽りに…満ちた者」(使徒言行録一三・九)と書かれています。同じ偽りという言葉です。

新約聖書のギリシア語事典でこの言葉を調べてみますと、こうあります。「これは、人をまことの義人として顕彰する、旧約との関連(詩編三二編、他)からのみ理解し得る表現法である」(『ギリシア語新約聖書釈義辞典』Ⅰ)。そこで、この手引きに従って、旧約聖書の詩編第三二編を開いてみましょう。最初のところにこうあります。

「いかに幸いなことでしょう、背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう、主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。わたしは黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしの力は、夏の日照りにあって衰え果てました。わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。わたしは言いました、「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを、赦してくださいました。」(詩編三二・一~五)。

二節のところで、「心に欺きのない人は」とあります。偽りがないということです。ただし心が清く純粋無垢なのかというと、そうではない。むしろ自分には「背き」があり、「罪」があり、「咎」があることをよく知っている。偽りがないとは、それらのことがまったくないことではなく、それらのことを神に偽って隠さないということです。ギリシア語の「偽り」という言葉ですが、「策略」や「計略」とも訳せる言葉です。自分を偽るための策略や計略を用いるということです。自分を少しでもよく見せるために、策略や計略を用いて偽るという意味に理解することができます。

人間は誰もが真実に生きられない。詩編第三二編の詩人のように、神に対しても隣人に対しても「背き」、「罪」、「咎」があります。これらがあるということが、直ちに偽りになるというわけではありません。むしろ真の偽りとは、これらがあるにもかかわらず、ないかのように策略や計略を用いて偽ることです。偽善という言葉がありますが、まさにそのことです。偽り者の自分を偽って隠すこと、これが真の偽りです。少しでもよい自分を演じる。これはとても苦しいことであり、そのように生きるときに、偽って生きる生き方になってしまうのです。

ナタナエルはそうではなかった。主イエスは偽りがないと言われます。ナタナエルという名前には、神が与えるという意味があります。ヘブライ語でナタンというのが与えるという意味、エルというのは人名でも地名でもよく出てきますが、神という意味です。詩編第三二編の詩人は、「背きを赦され、罪を覆っていただいた」(詩編三二・一)、「あなたはわたしの罪と過ちを、赦してくださいました」(三二・五)ということをよく知っていました。神から与えられている。これは神から与えられたのではなく自分で獲得したもの、そのようには偽らない。ナタナエルという名前には、そんな意味が込められています。

ナタナエルはこのように自分自身を偽らない者でありました。罪は罪であるとはっきり認める。分からないことは分からないとはっきり言う。信じられないことは信じられないとはっきり言う。最初は半信半疑でした。しかし救い主を求めていた。そして主イエスと出会い、「いちじくの木の下にいるのを見た」(四八節)と言われ、信じた。信じたときには偽らないで、信じたとはっきり言ったのです。

ナタナエルは自分がこの救い主を知ることができたと喜んだわけではありません。むしろ、この方から自分が知られている。そのことで信じたわけです。なぜ自分を知っているのか、そのことに驚いたのです。

もう数か月前になりますが、六月に東京神学大学より芳賀力先生をお招きし、説教を語っていただき、礼拝後にいくつかの質問にお答えいただき、懇談のときを持ちました。そのときのテープ起こしをしてくださる方があり、本日、皆様のメールボックスに配布いたしました。懇談会でのやり取りが記されていますので、ぜひお読みいただければと思います。

その中で、科学と信仰に関する質問が出され、芳賀先生からお答えをいただきました。お答えの中で、芳賀先生がレイチェル・カーソンという生物学者が書いた『センス・オブ・ワンダー』という本のタイトルの言葉を紹介してくださいました。ワンダーという言葉は、多様な日本語に訳すことができます。驚き、不思議、あるいは奇跡とも訳すことができます。おや、どういうことかしら、そんなときにもワンダーという言葉を使います。「センス・オブ・ワンダー」というのは「驚き・不思議の感覚」とでも訳したらよいでしょうか。

科学は、目に見えるものや、観測できる現象から考察することから始める分野です。そしてそれを応用していく。この分野の中でいろいろなことを調べたり考えたりするわけですが、最後には驚き・不思議が残ります。観測をしていて、確かにある法則通りにそうなることは分かる。しかしなぜそうなるのか、なぜこのような法則がそもそも存在するのか。最後は「センス・オブ・ワンダー」にならざるを得ない。

偶然、たまたまそうなっていると考える人もいるかもしれません。しかしそうだとこのようになってしまいます。この世界が偶然によって造られた。人間も偶然に発生した。そうなると、私もたまたま存在している存在に過ぎません。たまたま生まれ、たまたま死んでいく存在です。特に自分が存在している積極的な理由もなくなってしまいます。

聖書が私たちに告げているのは、偶然ではないということです。不思議な書です。偶然ではなく、神の必然によって、意志によって、世界も人間も造られたということです。聖書を読んでいますと、自分の思っていることとは違う、不思議なことが書かれている。そしてその不思議は決して不思議ではなく、神がそのようになさったことが書かれている。そのことにしばしば驚かされる私たちです。

一番の不思議・驚きは、大いなる存在である神が、小さな存在であるこの私を救ってくださることだと思います。詩編第八篇の詩人も、その驚きをこのように表わしています。「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。」(詩編八・四~五)。

世界を造られた神がおられる。その神が自分に目を留めてくださる。不思議・驚き以外の何ものでもありません。ナタナエルの驚きもそうでした。なぜ私を知っているのか。私たちも同じです。なぜ私を知っているのか。なぜ私をキリスト者として召してくださったのか。なぜ私が教会にいるのか。その不思議に驚かされる私たちです。

不思議がっているナタナエルや私たちに対して、主イエスは言われます。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(五一節)。ここでの主イエスの言葉は、ナタナエル一人に対してではなく、「あなたがた」となっていることが分かります。私たちを含めての言葉です。

「はっきり言っておく」と主イエスは言われます。元のギリシア語の言葉は、「アーメン、アーメン」という言葉です。アーメンとは、「本当に、その通り、まことに」という意味ですから、文語訳聖書のように「まことに誠に汝らに告ぐ」と言った方がよいかもしれません。アーメンという言葉は何度も聖書に出てきますが、ヨハネによる福音書では、二十回以上も「アーメン、アーメン」と重ねた形で、主イエスが大事なことを私たちに告げてくださいます。

「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りする」と言われます。これから起こる出来事として、主イエスはこのようにお語りになるわけですが、ヨハネによる福音書をいくら読んでも、このような記述は見当たりません。

天が開いたという聖書箇所は、ヨハネによる福音書以外では、何箇所か記されています。聖書学者たちはいろいろな可能性を考える。例えば洗礼者ヨハネから主イエスが洗礼を授けられた時、天が開いて神の霊が鳩のように降ったという記述が、他の三つの福音書にはあります。あるいは、使徒言行録の中で、ステファノが殉教する時に、天が開いて主イエスが神の右に立っておられるのが見えたとステファノは言います。同じ使徒言行録の中で、ペトロは天が開けて籠が降りてくるという幻を見ています。

ではヨハネによる福音書では何のことを言っているのか。ここで言われていることは、案外、単純なことなのかもしれません。本日、私たちに合わせて旧約聖書、創世記第二八章の箇所が与えられました。双子の兄弟の弟ヤコブの話です。兄エサウと喧嘩をします。喧嘩とは言っても、生易しいものではなく、命を取られそうになるほどの喧嘩であり、ヤコブは家を出なければなりませんでした。

そんな中、ある場所で野宿をしていたら夢を見た。「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」(創世記二八・一二)という夢です。そして神がヤコブに祝福の約束を与えてくださいます。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(二八・一五)。

夢から覚めたヤコブはこう言います。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」(二八・一七)。そしてこの場所を「ベテル」(神の家)と名付けます。

主イエスも旧約聖書のこの箇所を踏まえて、このように言われたのだと思います。あなたがたもヤコブと同じものを見る。天と地が隔てられることなく、つながることを目撃すると言われる。ただしそれが起こるのは、ベテルという特定の場所ではありません。主イエスのお言葉通り、「人の子の上に昇り降りする」のです。「人の子」とは主イエスご自身のことです。主イエスのところで、天と地が結ばれる。

ヨハネによる福音書の後半部分になりますが、主イエスはこう言われる。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(一四・六)。主イエスが天地の結び目、神と私たちとの結び目となってくださるのです。

ヨハネによる福音書はこのようにして始まりました。どの福音書でもそうですが、弟子たちの召命の話は最初の方に書かれます。弟子になることがゴールではない。出発点に立つのです。私たちも同じです。自分たちに重ね合わせるとすればどうか。神を信じ、洗礼を受け、キリスト者として出発する。主イエスの弟子になるとは、まさにそのことです。これから出発する。これから成長する。主イエスから「あなたがたはこれから見る、分かる」、そう言われてスタートラインに立つのです。

その弟子としての歩みは、自分を偽らない歩みになります。自分の罪を自分で覆い隠すのではなく、はっきりと自分の罪を認めて、神に赦していただく。神は赦してくださいます。主イエス・キリストが私たちの罪を赦す救い主として、私たちの罪を代わりに背負い、十字架にお架かりになってくださったからです。それも不思議です。なぜ自分のために十字架にお架かりになってくださったのか。そのことに驚かされる私たちです。私たちキリスト者の歩みは、発見の連続であり、成長の連続であり、驚きの連続であるのです。