松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2014年9月28日(日)
説教題「世の罪を取り除く」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第1章29〜34節

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

旧約聖書: イザヤ書 第53章1~12節

本日の礼拝は逝去者記念礼拝です。私たちの間におられ、一緒に信仰の歩みを共にして来られ、すでに召された方々のことを覚え、礼拝を献げています。また礼拝後に教会墓地に赴き、墓前礼拝を行います。そこで一人の姉妹の納骨式も合わせて行う予定です。

今日の礼拝に合わせて、というわけではありませんが、教会員の皆様に「葬儀への備え」の改訂版を発行しました。この用紙は、ご自分の葬儀に関する希望を生前に書いておくものです。葬儀全体に関する希望や、葬儀の礼拝で読んでもらいたい聖書の箇所や歌って欲しい讃美歌などを、事前に記しておくことができます。

このような用紙を最初に発行したのが、今から三年前の二〇一一年四月のことになります。その前の二〇一〇年より、死について皆で話し合いをしてきました。その中から、自分の葬儀のための備えも予めできるとよいのではないかという意見が出され、この「葬儀への備え」という用紙を発行することになりました。

九月の長老会で、この用紙の中にもう一項目だけ付け加えることが検討され、今回改訂されるに至りました。必ずしも多くの方がすでに提出されているわけではありませんが、若い方も含めて、すでに提出をなさっている方もあります。すでに提出なさった方は、新しい項目だけを書いて提出してくださっても構いません。まだ提出なさっていない方は、これを機会にぜひこの用紙を書くことを考えてみるとよいと思います。

「葬儀への備え」の初版でも改訂版でも、一番広く欄を取っているのが、略歴のところです。自分がどのような歩みをしてきたのか。信仰歴と生活歴とに分けられていますが、その二つを合わせたのが略歴になります。当然のことですが、略歴はご自分が一番よく分かっているわけです。逝去の際に短時間で、牧師とご家族だけで略歴を作成するのは、とても大変な作業になります。葬儀のプログラムに略歴を記載するか、しないかは自由ですが、たとえ略歴を載せなかったとしても、牧師は必ず故人の歩みを家族や教会員に尋ねます。

加藤常昭先生が最近出された本に、『キリストの教会はこのように葬り、このように語る』(教団出版局)という本があります。加藤先生ご自身が葬儀に関することを綴り、また加藤先生がなさった葬儀説教がいくつも収められています。この本のあとがきのところに、加藤先生が葬儀の際に大切になさったことが書かれています。「故人略歴を丁寧に書きます。…書き終えたときには、ほぼ語るべき言葉が与えられておりました」(二六五頁)。

私も牧師として、そのことがよく分かります。葬儀をする際に、ご家族や教会員から故人に関する話を聞いたりして、故人の略歴を知ります。そうすると、自然と聖書の言葉が浮かび上がってくるものです。キリスト者として歩んで来られたその人にとって、ふさわしい言葉が紡ぎ出されるのです。

本日、『おとずれ』二五七号が発行されました。教会設立九〇周年の記念号でもあります。とてもよいものが出来上がりましたので、ぜひ隅々までお読みいただければと思います。記事の中で、七月に召された教会員を偲ぶ文章が載せられています。故人をよく知る方に書いていただきましたが、その文章を読むとなるほどと思わされる。故人の人柄がよく分かる。そして故人がどのような言葉に生かされてきたのかが分かる。故人にとってぴったりの言葉を見出すことができるのです。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所に、洗礼者ヨハネが出て来ています。最近、洗礼者ヨハネの話を聴くことが多い私たちですが、ヨハネを表すのにぴったりな言葉が、今日の聖書箇所に記されています。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(二九節)。この言葉とほぼ同じ言葉を、三六節でも言っています。「見よ、神の小羊だ」(三六節)。洗礼者ヨハネは人々に悔い改めの洗礼を授けていました。悔い改めよ、と人々に奨めていたわけです。そのヨハネの答えがこれでした。神の子羊を見なさいということです。

今日の聖書箇所の二九節のところで、主イエスが登場しています。「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。」(二九節)。しかし今日の聖書箇所は、洗礼者ヨハネが一方的に語っているだけです。誰に対して語っているのかもよく分かりません。

ヨハネによる福音書ではなく、他の三つの福音書には、洗礼者ヨハネが主イエスに対して洗礼を授ける実際の場面が記されています。しかしヨハネによる福音書にはそれがありません。本日、私たちに与えられた聖書の箇所では、すでに洗礼の出来事が終わっているのは明らかです。後から振り返って洗礼者ヨハネが今日の言葉を言っている。「わたしはこの方を知らなかった」と、三一節にも三三節にもあります。

そして三三節の後半にこうある。「しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。」(三三節)。洗礼者ヨハネはたくさんの人たちに洗礼を授けていました。そんな中、ある人に洗礼を授けた。それが主イエスだったわけですが、霊が鳩のように降ってきた。それを見て、ああ、この方が神の子だと分かったと言うのです。かつては知らなかったが、今やその方のことを知っている。そしてその方のことを、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と言っているのです。

二九節と三六節に、「神の子羊」という言葉がありますが、おそらくヨハネは何度も繰り返しそのように言ったのだと思います。主イエスを指さして、いつもそう言っていた。洗礼者ヨハネを表すのにぴったりな言葉、それが「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」という言葉だったのです。

神の子羊というのは、聖書の中でも有名な言葉になっていますが、音楽の世界でも有名な言葉になっています。カトリック教会のミサ曲に「アニュス・デイ」という曲があります。これはラテン語で「神の子羊」という意味です。カトリック教会ではかなり早くから、この歌を歌われていました。その後、バッハやモーツァルトやベートーヴェンも、この「アニュス・デイ」という曲を作りました。

讃美歌二一の八六番にも「世の罪除く」という讃美歌があります。作詞、マルティン・ルターとありますが、改革者のルターが初めてこの曲の作詞をしたのではなく、ずっと昔からあったカトリック教会のミサ曲から歌詞をそのまま取ったのだと思います。この讃美歌は日本語でこのように歌います。一番、「世の罪除く、神の子羊、あわれみたまえ」。二番も一番とまったく同じです。二番、「世の罪除く、神の子羊、あわれみたまえ」。

最後の三番になると、少しだけ歌詞が変わります。三番、「世の罪除く、神の子羊、平和をたまえ」。非常に単純な曲です。ミサのとき、聖餐に与るときに、この讃美歌を歌うことが多かった。聖餐の間、ずっと一番や二番の歌詞を繰り返し歌う。そして聖餐が終わる頃に、三番を歌う。そのように繰り返し、「神の子羊」と歌っていたのです。

この歌詞にありますように、なぜ主イエスのことを「神の子羊」と言うのでしょうか。旧約聖書の中に、そのことが分かるいくつか記述があります。

第一に、出エジプト記です。第一二章二一~二三節にこうあります。「モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。」(出エジプト一二・二一~二三)。

このときまで、イスラエルの人たちはエジプトで奴隷生活を送っていました。そんな中、神が次々とエジプトに災いを起こされる。しかしここで書かれているように、羊の血を門の柱のところに塗っていた家だけは、災いが通り過ぎて行きました。イスラエルの人たちはそうしていましたので、災いが通り過ぎた。こんな災いが起こってはたまらない、そう考えたエジプト人たちはイスラエルの人たちを追い出します。こうして奴隷から解放されて、故郷に向けて旅を開始することができるようになった。そのときの災いが過ぎ越したことを覚えて、過越祭という祝いがその後、行われるようになりました。つまり、羊の犠牲によって民が救われたことになります。

第二に、レビ記です。第四章には、罪の赦しを得るための儀式のことが書かれています。二七~二九節にこのようにあります。「一般の人のだれかが過って罪を犯し、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、犯した罪に気づいたときは、献げ物として無傷の雌山羊を引いて行き、献げ物の頭に手を置き、焼き尽くす献げ物を屠る場所で贖罪の献げ物を屠る。」(レビ四・二七~二九)。ここでは「雌山羊」となっていますが、三二節に羊が出てくる。「羊を贖罪の献げ物とする場合は、無傷の雌羊を引いて行く。」(レビ四・三二)。

そして罪の赦しのための儀式を祭司にしてもらいます。三五節後半にこうある。「祭司がこうして彼の犯した罪を贖う儀式を行うと、彼の罪は赦される。」(レビ四・三五)。動物の犠牲とは残酷だと思われるかもしれません。しかし貨幣が発達していない当時は、動物が財産でした。自分が罪を犯したら、自己責任で財産を献げ、罪を赦してもらう。罪の赦しを得るために必要だったのが羊などの財産の犠牲だったのです。

人間はずっとこのようなことを繰り返してきました。罪を犯す。罪の赦しを得る。しかしまた罪を犯す。その連続です。一旦は罪の赦しをいただいて、救われたと思ったとしても、また罪を犯し、救われなければならない状況に追い込まれてしまう。本当に救われたということを実感できず、一体どこに本当の救いがあるのか、救いを求め続けてきたのです。

そんな中、第三に取りあげたい旧約聖書の箇所が、本日、私たちに合わせて与えられたイザヤ書の箇所です。イザヤ書第五三章に「主の僕」の歌があります。「主の僕」が苦難と死を受ける、そんな歌です。四節から七節にかけてこのようにあります。

「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」(イザヤ五三・四~七)。

病、痛み、背き、咎、罪という言葉が出てきます。それらすべてをこの子羊が負い、そのことによって「私たち」が赦されたと言うのです。

洗礼者ヨハネが、イザヤ書のこの箇所を念頭にして、主イエスのことを「神の子羊」と言ったのか、それとも出エジプト記やレビ記のことも含めていたのか、それはよく分かりません。しかしこの子羊が私たちの罪を代わりに負うことによって、私たちが赦される。そのことを表すために、「世の罪を取り除く神の子羊」と言ったのです。

ヨハネは「取り除く」という言葉を使いました。私たちにもよく分かると思います。自分に罪がくっついていることは、私たちがいつも実感していることだからです。動物の犠牲を献げ続けたイスラエルの人たちのように、何度も過ちや失敗を犯してしまう私たちです。自分で償おうとして、償ったと思っても、また償わなければならない私たちです。この罪をどのように取り除けばよいか。自分で取り除けるか。自己責任で何とかなるか。そんなことを試みながらも、何も解決していないのが私たち人間の現実です。

「取り除く」という言葉は、幅広い意味のある言葉で、ニュアンスとしては運ぶようなイメージのある言葉です。こっちからあっちへと運んでいく。洗礼者ヨハネが言っている罪の取り除き方は、罪をこっちからあっちへと運んでいくやり方です。私たちの罪が、この子羊の方へと運ばれる。そして子羊が犠牲となる。その結果、私たちが罪なき者として、健やかになると言うのです。

九月二〇日の土曜日に、南信分区の信徒大会が行われました。今年は賀来周一先生という方をお招きして、講演を伺いました。この先生は、かつてルーテル学院神学大学で教えておられた先生です。現在は、キリスト教カウンセリングセンターの理事長をされています。「今日の時代における牧会の意味と働きを考える」という題で、講演を伺いました。

いろいろなことを学びましたが、賀来先生が言われていたことを一つご紹介いたします。WHO(世界保健機関)が、WHO憲章の中で、健康の定義をこのようにしています。「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも(physical)、精神的にも(mental)、そして社会的にも(social)、すべてが満たされた状態にあることをいいます。」(日本WHO協会訳)。

一九九八年に新しい健康の定義が打ち出されました。翌年にWHOの総会に提出され、審議がなされていますが、緊急の議題ではないということで採択はまだされていないようです。この新しい健康の定義の中で、今までの定義と大きく変わった点が一つあります。今までは健康であるための要素として、三つのものが挙げられていました。肉体的(physical)、精神的(mental)、そして社会的(social)の三つです。

新しい定義では、これら三つに加え、スピリチュアル(spiritual)という語が加えられて四つになった。このスピリチュアルという言葉を、どのような日本語に訳すのかが大変難しい。精神的と訳してしまう人もいますが、それはもうすでに過去の三つのうちの一つとして(mental)入っています。霊的とか、霊性とか、あるいはもっと分かりやすく霊的生活と訳す人もいます。しかしそれでも分かりにくい。講演をしてくださった賀来先生が分かりやすく、こう言ってくださいました。スピリチュアルとは、余命あと三か月と言われてもニコニコしていることができることだ、と。

このWHOの新しい健康の定義は、私たちに大事なことを教えてくれると思います。今までの健康の定義、肉体的、精神的、社会的、これらだけでは本当の意味で駄目だったということです。たとえ体が、心が、社会的にも安定していたとしても、例えば生きる目的を失っていたとすれば、それは健全とは言えない。スピリチュアルが必要だということです。まるでこの新しい健康定義の原案がキリスト者によって作られたのではないかと思えるほどです。余命三ヶ月でも、私は大丈夫、安心と言うことができる。

そのためには、私たちの罪が取り除かれることがどうしても必要です。誰もが、罪という病の根っこを持っています。この根を抜かなければならない。自分で取り除くことができればよいのですが、それができない。だからいつまでも安心することができない。しかし神の子羊が取り除いてくださるなら話は別です。そのこと信じるならば、私たちは安心することができます。

あらゆる問題の本当の解決がここにあります。これがなくして、このスピリチュアルなくして、本当の健康はありません。逆に、WHOの健康定義に反するようですが、体が病んでいたとしても、心に痛みを抱えていたとしても、社会的に何らかの問題を抱えていたとしても、このスピリチュアルさえあれば、健やかでいることができる。

私たちにとってのスピリチュアルは、イエス・キリストによる罪の赦しです。WHOではそこまでの定義をすることができません。しかし教会の私たちならその定義ができる。神に悔い改める。そして必ず赦していただける。その安心が、その健やかさが私たちにあるのです。