松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2014年9月21日(日)
説教題「あなたの道はまっすぐですか」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第1章19〜28節

さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

旧約聖書: イザヤ書 第40章3~8節

今の世の中はとても息苦しい世の中です。弱音を吐きたいと思っても、なかなかそれをすることが許されません。いつも強くあることが求められる。特に日本人は「がんばる」という言葉を好んで用います。「がんばる」「がんばれ」「がんばろう」。その言葉ですべてをうまく回そうとしてしまいます。

そんな世の中ではありますが、先日、新聞の記事を読んでいて、とても住みやすい町があるとの紹介が載せられていました。なぜその町が住みやすいと言えるのか。その理由を探りたいと思った人が、実際に町に赴き、いろいろと調査をした。調べてみて分かったことがいくつかあります。一つは、うつ受診率が高いということです。自分の弱さを出すことに抵抗感があまりない。それで受診率が高いということが分かった。

もう一つは、旅館の主人が言っていた言葉にあります。「病、市に出せ」という言葉です。「市」というのは市場のことですが、要するに人前に出せということです。他人に迷惑をかける可能性があったとしても、弱さを人前に出す。やせ我慢をやめる。早めにSOSを出す。そんな雰囲気が町にあるのだそうです。だから住みやすい。このような世の中にあって、弱さを出せることは重要なことなのかもしれません。

新聞の記事を手掛かりにして少し考えましたが、私たちキリスト者も、自分の弱さを知っている者です。弱さを出せる者です。人間は神ではありません。人間がどんなに強くなっても、そこには限界がある。そのことをわきまえ、本当に強い者であることはできない。それを知っているのがキリスト者です。

教会の長い歴史の中で繰り返し行われてきたのが懺悔です。映画の中で、よく懺悔室で懺悔をしている人を見ることがあります。あれはプロテスタント教会ではなく、カトリック教会が考えられているのだと思いますが、懺悔はカトリック教会の一つの特徴です。カトリック教会では懺悔、もっとかしこまって言うと告解という言葉になりますが、サクラメントの一つになります。サクラメントとは、目に見えない救いを目に見える形に表わしたものですが、カトリック教会では七つのサクラメントが定められていて、そのうちの一つが告解、懺悔です。場合によっては年に一回、必ず懺悔室に行って懺悔しなさいということが定められている。

プロテスタント教会では、懺悔よりも悔い改めと言う方が多いと思います。プロテスタント教会では、悔い改めはサクラメントではありません。真のサクラメントは洗礼と聖餐の二つであると定められています。カトリック教会の七つよりもずっと少ないのです。

しかしプロテスタント教会が懺悔、悔い改めを重んじていないかと言うと、そんなことはありません。洗礼と聖餐の中に、悔い改めが含まれていると考える。神に悔い改めて、洗礼を受け、罪の赦しをいただきます。悔い改めをもってパンと杯の聖餐に与る。洗礼と聖餐の二つに共通していることが悔い改めです。悔い改めなくしては、プロテスタント教会の二つのサクラメントは成り立ちません。

礼拝の中でも私が祈りをしていますが、説教前の祈りの中では必ず悔い改めの祈りをしています。一週間の自分の生活を振り返って、本来あるべき自分であることができなかった。心無い言葉を発してしまった。立派に胸を張ることのできない恥ずべき行動をしてしまった。そのような自分の姿を見つめ、神と向き合って、悔い改めの祈りをします。

私たちは別に他人に対して、あるいは教会員に対して、あるいは牧師に対して、自分の弱さをさらけ出す必要はありません。しかし神に対して、自分が弱い者であることを認めること、歪んだ自分になってしまったことを認めること、それが極めて大事になります。「病、市に出せ」ではなく、「病、神に出せ」です。全能ではない自分が、全能者である神と向き合っていることを自覚すること、それが何よりも大事になってきます。他ならぬ神に自分の弱さを出すことです。

本日、私たちに与えられた聖書の箇所に、洗礼者ヨハネが出てきます。ヨハネによる福音の序の部分が第一章一~一八節であり、今日の聖書箇所から本文が始まっていきます。序の部分にも洗礼者ヨハネのことが出てきましたが、今日の箇所でも出てきます。具体的な話しの最初に、洗礼者ヨハネが出てくるのです。

洗礼者ヨハネとは、人々に洗礼を授け、主イエスにも洗礼を授けた人ですが、この人が授けた洗礼は「悔い改めの洗礼」と言われています。今日の箇所の二三節にこうあります。「ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」」(二三節)。

ここでの言葉は、旧約聖書イザヤ書から引用された言葉です。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。」(イザヤ四〇・三~四)。荒れ地に広い道を通せと言われています。荒れ地には、谷があり、山があり、丘があります。その山あり谷ありが平らになれと言われている。険しい道も狭い道も、通りやすい道になることが言われています。

このときイスラエルの民は、自分たちの国を失っている時代でありました。強大な国に滅ぼされてしまった。国の主だった人たちは遠い異国の地に連れて来られた。なぜこのようなことになったのか。イスラエルの人たちは神に背いてしまい、神から裁かれてしまったからだと受け止めた。もう駄目なのか。絶望に近い思いを抱いていたところ、イザヤの預言の言葉が聴こえてくる。駄目ではない。必ず道が敷かれる。あなたがたがイスラエルに帰る救いの道が必ず敷かれることになる。この箇所で言っているのはそういうことです。

洗礼者ヨハネは、イスラエルの人たちにとってはよく知られているイザヤ書の言葉で、自分を紹介しました。私は声だ。道をまっすぐにせよ。悔い改めよ。まもなく救い主がやって来られる。だからそのための道を備えよ。洗礼者ヨハネはそうことを言い、人々に悔い改めの洗礼を授けていました。

ヨハネによる福音書では、洗礼者ヨハネがどのような悔い改めを、具体的に求めたのかははっきりとしません。しかし他の福音書では、ヨハネがどんなことを言っていたのかが具体的に記されています。ルカによる福音書にこうあります。

「そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。」(ルカ三・一〇~一四)。

群衆に対して、徴税人に対して、兵士に対して、それぞれの言葉は具体的です。洗礼者ヨハネは、一人一人に対して悔い改めを求めたのです。

当時の社会も、今の私たちと同じように、息苦しい社会でありました。強大なローマ帝国に支配されている。自分たちの思い通りにはなかなか事は運びません。理想的な社会もまた築くことができない。今の私たちも同じです。どこか息苦しい社会になっている。弱さをなかなか人前にさらけ出すことができない。いつも強くあることが求められる。一度、脱落するとなかなかそこから這い上がれない。だから脱落しないようにいつも張り詰めていなければならない。

そうなってくると、多くの人たちは求めます。誰か救い主が現れて、社会を変えてくれ、と。最近はあまりそうではないかもしれませんが、二、三年前は、魅力的に見える政治家や、経済界の優れた経営者が脚光を浴びることがありました。閉塞感漂うこの世の中を、自分が変わるのではなく、誰か一人の救い主によって劇的に変えて欲しいと多くの人は願った。しかし現実は何も変わりませんでした。

洗礼者ヨハネが、当時の社会の人たちにまず言ったことは、あなたがた一人ひとりの問題として、悔い改めよということです。当時も今と変わらず、救い主、メシアを求める風潮がありました。先ほどお読みしたルカによる福音書の続きに、「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。」(ルカ三・一五)と書かれています。

ヨハネによる福音書では、これほどはっきりとは書かれていませんが、洗礼者ヨハネが二〇節のところで、「わたしはメシアではない」と答えています。「あなたは、どなたですか」(一九節)と問いただされ、「わたしはメシアではない」というのは突拍子もない返事だと思われるかもしれませんが、人々の間にメシアを望む期待があったのです。もしかしたらこの人がそうかもしれない。だからヨハネは明確にNOと言ったのです。

洗礼者ヨハネは主イエスよりも半年ほど前に生まれ、主イエスが来られる道備えをした人であると言われています。洗礼者ヨハネはたしかにこれからメシアが来られるということを言いました。しかしただそれだけを言ったのではなく、一人ひとりに悔い改めを求めた。救い主の到来のための備えを、道をまっすぐにすることを求めたのです。

洗礼者ヨハネは「わたしはメシアではない」(二〇節)と答えつつ、自分が誰であるかを徐々に明らかにしていっています。今日の聖書箇所の中で、ヨハネのところにやって来た者たちがどのような人たちであったのかが、はっきりと書かれています。まずは一九節、「さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき」とあります。そして二四節、「遣わされた人たちはファリサイ派に属していた」とあります。

一九節の祭司やレビ人というのは、エルサレム神殿で礼拝を司る人たちです。二四節のファリサイ派は厳格の律法の規定によって生きる人たちです。一方が神殿での礼拝を重んじる人たちであり、他方が神殿の礼拝よりも日々の生活を重んじる人たちでありました。お互い相容れないところがあり、仲が悪い者たち同士でありました。それなのに、このときは結託して洗礼者ヨハネのところにやって来た。ヨハネが自分たちにとって邪魔な存在であることは共通していたからです。敵をやっつけるまでは、いろいろなことはとりあえず棚に上げておいて、手を組んでいたと考えることができます。

そう考えますと、「あなたは、どなたですか」(一九節)という翻訳の仕方は、少し丁寧すぎるかもしれません。実際はかなり荒っぽい声で、「お前は誰だ」と言ったのだと思われます。ヨハネに対する尋問がなされたのです。今日の聖書箇所で、多くの裁判用語が用いられていることが指摘されています。「証し」(一九節)、「質問」(一九節)、「公言」(二〇節)などがそうです。「お前は誰だ」と問いただされているのです。

「お前は誰だ」「あなたは誰か」、この問いに対して、私たちならばどう答えるでしょうか。ある牧師が、認知症を患う教会員の訪問に悩んでいました。悩んでいたのは牧師だけではありません。家族もそうです。家族が訪問をする。しかし誰だか分からない。「あなたは誰」と言われてしまう。

例えば、夫が認知症を患っている場合、訪問した妻に対して、「お前は誰だ」と言う。その場合、自分がその人の夫であることが分からなくなっていることになります。子どもが訪問する。やはり「お前は誰だ」と言われてしまう。その場合も、自分がその人の父親であることが分からなくなっていることになります。私たち人間は、誰かとの関わりの中で自分が分かると言えそうです。もしも自分一人だけが世界に存在していたとすれば、自分が誰なのかを定めてくれる人がいなくなります。

それに対して、神は違います。神は全能者です。絶対者です。神はご自分のことをこう言われます。「わたしはある。わたしはあるという者だ。」(出エジプト三・一四)。英語では ’I am’ です。神はそれだけで完結することができる。神は他に何もなくても、何も存在していなくても、「わたしはある」と言うことができる。

対する私たち人間は違います。’I am’ だけでは済まない。他の言葉を付け加えて自分を表さないと、自分が誰だか分かりません。「私は神に造られた者である」、「私は両親から生まれた者である」、「私はこういう名前を付けられた者である」、「私はこの人の親である」、「私はこの組織に属している者である」。このように人との関係でしか誰だか分からないのです。

信仰を持つ者は、人との関係だけでなく、神との関係の中で自分を規定します。洗礼者ヨハネもそうでした。「お前は誰だ」と問われ、私は声だ、神からこのように言いなさいと命じられた者だと答える。さらに、私は後から来られる方の道備えをしている者だ、その方の履物のひもを解く資格もない者だと答える。

「あなたは誰か」、信仰を持つ者である私たちはどう答えることができるでしょうか。たしかに人それぞれ、いろいろな答え方があるでしょう。しかし私たちキリスト者に共通している答えがあります。それは、「私はキリスト者です」という答えです。

認知症を患っている方も、自分では自分が誰だか分からなくなったとしても、周りの者たち、教会の者たちが教えてあげればよいのです。あなたはキリスト者だ、と。あなたはイエス・キリストに救われた者、罪を赦された者。たとえどのような状態になろうとも、どんなに弱さを覚えたとしても、人間との関係が切れたとしても、それだけは変わることがないのです。

神と私たち人間との間の道はまっすぐになりました。その間で主イエスが執り成しをしてくださっています。神との間の道を、しっかりと結んでくださいます。その道が、私が誰であるか、その確かさを支えているのです。