松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

facebook.png


HOME > 礼拝説教集 > 20140824

2014年8月24日(日)
説教題「光と闇」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ヨハネによる福音書 第1章1〜5節

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

旧約聖書: 詩編 第119編105節

教会員の方が逝去されると、葬儀をすることになります。葬儀のやり方はそのときによって多少の違いがありますが、その方が召されてから、二・三日に及ぶ長丁場になります。私が牧師として心掛けていることは、ご家族の方々となるべく初めから終わりまで、一緒に過ごすということであります。

教会員が召され、その連絡が入りますと、まずはなるべく早くご家族のもとへ赴きます。祈りをし、葬儀の打ち合わせをします。その後、たいてい翌日ですが、前夜の祈りをし、納棺、そしてその次の日に出棺、葬儀、火葬が続いていきます。事情の許す限り、なるべくご家族の方々に寄り添うようにしています。

ご家族にとって、おそらく火葬の時が一番厳しい時を迎えることになります。火葬の前に短い祈りの時を持ちます。私が聖書を読み、祈りをしますので、荷物を持っていくことはしません。聖書一冊だけを持って行きます。愛する者の体が火で焼かれて骨になるわけで、ご家族にとって厳しい時間です。収骨までに一時間半ほどの時間がかかります。待っている間にお茶を飲みながら、ご家族の方々と話をします。時には持っている聖書を開いて質問に答えたり、説明をしたりいたします。

あるご家族の方から、葬儀後にお手紙をいただき、そこにこのようなことが書かれていました。「…特にわたし自身が今回救われましたのは、焼き場での時間でした。胸がしめつけられ自分がおかしくなってしまうのではないかとの危惧の時に隣に座って下さり、テーブルに聖書を開けて、私の質問や疑問に真摯にわかりやすくお応え下さり、それに耳を傾けているうちにあのつらい時間を過ごすことができました…」。

このお手紙を読み、葬儀の際に寄り添うことの大切さを改めて実感いたしました。私は牧師として召された方の葬りを担当いたしますが、何か特別な力があるわけではありません。牧師が葬儀をしたからといって、悲しみが吹き飛ぶというわけでもありません。しかし寄り添うことはできる。聖書の話をすることができる。イエス・キリストの話をすることはできる。

このお手紙をくださった方は、愛するご家族の死というまさに闇に包まれているような状況を経験しなければなりませんでした。特に火葬の時がそうでした。そんな闇に閉ざされている中で、一筋の光を見た。自分がおかしくなりそうな状況の中で、光を見、火葬の一時間半を過ごすことができたと言うのであります。

葬儀のことを手掛かりにして、光と闇の話をいたしました。光と闇は対立するものです。正反対なものです。しかし光と闇はいつも同居をしているものであると言った方がよいかもしれません。今、私が経験しているのは光であって闇ではない。そうかと思えば、今、私は闇の真っ只中にいて、少しも光はない。今は光の時間で、今は闇の時間である。そうはっきりと区別することができないと思います。むしろいつも光と闇は同居しているものです。

今日はヨハネによる福音書から御言葉を聴き始めて二回目の説教になります。先週とまったく同じ聖書箇所が私たちに与えられました。第一章の一~五節です。先週は「言」に注目をしました。今日は特に「光」と「闇」、それから「命」にも注目をして、御言葉を聴きたいと思います。節で言いますと特に四節から五節にかけてです。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(四~五節)。

五節の前半のところに、「光は暗闇の中で輝いている」とあります。日本語の言葉からしても明らかですが、これは現在形で記されています。光が今、暗闇の中で輝いている。一節から五節までの区分の中で、現在形が出てくるのはここだけです。他はすべて過去形です。過去形とは言っても、細かく言えばもっと丁寧に未完了形だとか言わなければなりませんが、いずれにしても他はすべて過去に関する形になっています。しかし「光は暗闇の中で輝いている」、これだけは現在形なのです。

光と闇、特にヨハネによる福音書がそうですが、聖書の中でもしばしば対立したものとして出てきます。光と闇だけでなく、聖書の中で対立してものとして、対になって出てくる言葉は案外多いものです。例えば「善と悪」。その他にも例を挙げると、「霊と肉」、「律法と福音」などもそうです。対立する正反対なものとして出てきますが、聖書はそれぞれをまったく切り離して考えることはしていません。

善と悪を例にして考えてみましょう。テレビや映画を観ていると、善い人と悪い人が出てきます。犯罪に関するニュースでは犯罪者は悪い人になり、何か活躍をした人は善い人です。映画の主人公は善い人で、主人公に意地悪をする人は悪い人です。このようにくっきりと善と悪が分かれています。しかし聖書はそう考えません。

パウロが書いた手紙の中に、善と悪という言葉が混在するように使われて、このように出てきます。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。」(ローマ七・一八~二一)。

光と闇についても同じことが言えます。五節前半の「光は暗闇の中で輝いている」もそうです。光と闇が同居しています。やがて読むことになりますヨハネによる福音書第一二章三五~三六節にもこうあります。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(一二・三五~三六)。

ヨハネによる福音書では、光のことは、四節のところから早々と出てきます。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(四節)。光は単なる光ではなく、闇の中にいる「人間を照らす光」であると言われています。人間を照らす光とは何でしょうか。その光に照らされたらどうなるのでしょうか。

そのことの一つの理解が、本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の詩編第一一九編一〇五節です。聖書の中でも非常に有名な言葉で、愛唱されている方も多いでしょう。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」(詩編一一九・一〇五)。

この詩編第一一九編は非常に長い詩編です。一七六節まであります。この詩編はアルファベットの歌になっていて、ヘブライ語ではアルファベットが全部で二二あります。それぞれのアルファベット毎に八つの節が割り当てられていて、二二に八を掛けると一七六になるのです。一〇五節の冒頭に「(ヌン)」とありますが、これは一〇五節から一一二節の頭文頭がすべて「ヌン」というアルファベットで始まるということです。日本にもいろは歌というものがありますが、この詩編も同じようなもので、少し遊び心が入った詩編の歌と言えます。

少し想像していただけると分かりますが、このようなアルファベットによる歌は、少々無理が生じることがあります。頭文字が決まっているのですから、必ずそれに合わせた言葉で始めなければならない。しかしそうでありながら、この詩編第一一九編に一貫していることがあります。それは律法、神から与えられた生きるガイドラインに対する親しみ、愛情です。例えば九七節、これは「メム」というアルファベットで始まるわけですが、こうあります。「わたしはあなたの律法を、どれほど愛していることでしょう。わたしは絶え間なくそれに心を砕いています。」(詩編一一九・九七)。

律法を愛し、親しんでいることが分かりますが、私たちに与えられた一〇五節も同じです。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」(詩編一一九・一〇五)。この詩編の言葉は、神から与えられた言葉を光であると理解しています。自分の歩みを照らす灯なのです。人間を照らす光とは、まずこのように理解することができます。

ヨハネによる福音書に戻りたいと思いますが、暗闇の中にいる人間を照らす光がやってくることが語られています。このことをめぐって、聖書のことを解説してくれる注解書を読んでいたら、その注解を書いた人がカール・バルトという人の言葉を紹介していました。

カール・バルトという人は、二〇世紀の偉大な神学者ですが、数々の心に残るような言葉を残しています。バルトが時々言ったのは、「不可能の可能性」という言葉です。本来ならば不可能だけれども、可能になったもの。この注解者はバルトのその言葉をここで紹介するのです。

「不可能の可能性」というのはどういうことでしょうか。例えば、礼拝で神の言葉である説教が語られます。語っている語り手は牧師でありますが人間です。神の言葉を語るなど、そもそも人間には不可能なこと。そうだけれども神が可能にしてくださった。人間としてのその可能性を探る。「不可能の可能性」です。

バルトの言葉を紹介した注解者が、ここで特に言いたかったのが、暗闇の中にいる人間が自分で自分を照らし出すことが不可能であるということです。そのために泥沼にはまった人間の譬え話をします。これもバルトが時々語った譬え話ですが、こんな譬えです。ある人間が泥沼にはまってしまう。そこからなんとか抜け出そうとして、もがく。しかしもがけばもがくほど、ますます泥沼にはまってしまう。自分からは抜け出せない。泥沼から抜け出す唯一の方法は、救い出すことができる人に引っ張ってもらって救ってもらうことだけです。けれども人間はそれをせずに、自分で自分の髪をつかみ、自力で救われようとしている。不可能なことに挑んで、しかしそれができずにもがき苦しんでいる。人間の苦しみはそこにあると言っても過言ではありません。

けれどもその不可能なことに可能性が開かれたとバルトは言います。確かに人間には不可能、だが神には可能。暗闇の中で駄目だと思っていた。もがき苦しんでいた。そこへ光が現れた。人間を照らしてくれた。ヨハネによる福音書第一章四節を、そのように理解することができます。

人間を照らす光が一体どこから来るのか。光の源、起源ははっきりしています。第一章一節から四節の言葉を論理的にたどって行けば明らかです。

「初めに言があった。」(一節)と始まります。そして三節、「万物は言によって成った。」(三節)とあります。万物の起源が言であることが分かります。さらに四節前半、「言の内に命があった。」(四節)とあります。命の起源も言です。そして四節後半、「命は人間を照らす光であった。」(四節)。光の起源は命です。つまり、言、これはイエス・キリストのことですが、初めからあった言によって光が生じたことが分かります。

ところが闇はどうでしょうか。闇が出てくるのは五節です。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(五節)。五節のところで突然、「暗闇」という言葉ですが、闇が出てきます。闇の起源を論理的にたどろうとしても、突然出てくるのですから、無理です。闇に関する説明はなされていないことが分かります。

このことはヨハネによる福音書に限った話ではありません。先週、私たちに合わせて与えられた旧約聖書、創世記の冒頭の箇所もそうです。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」(創世記一・一~三)。「天地」も「光」も神の言葉によって造られたことが分かりますが、どういうわけか二節のところに「闇」が出てくる。なぜ闇があるのか、どこから出てきたのか、まったく語られていません。

聖書全体でも実はこれらと同じで、なぜ闇が存在するのか、はっきりとした説明はありません。神がおられるのに、どうして悪が存在するのか、その説明もありません。闇の起源も悪の起源も不明です。聖書にはっきりとした記述がないために、多くの人がこのことで悩んできました。

なぜ聖書はそのことに沈黙しているのだろうか、ということを考えていったときに、次のようなことが分かると思います。闇とは何か、悪はどこから来たのか、それを考えてみて、もしも答えが分かったとしても、私たちには闇や悪を解決する術がありません。例えば、私たちが病気になったときを考える。病院に行き、医者にかかります。私たちが求めているのは病を治してもらうことです。いくら医者から病の詳細な説明をしてもらったところで、病を治してもらわなくては意味がありません。これと同じで、闇や悪を説明することが仮にできたとしても、それを克服できるかはまったくの別問題です。

聖書は確かに闇や悪の起源を教えてくれません。しかし聖書が教えてくれるのは、闇や悪が解決した、ということです。今日の聖書箇所の一箇所だけが現在形で、他はすべて過去形であると申し上げましたが、もう闇や悪が過去のものとなった。イエス・キリストによって退けられた。聖書は闇や悪の起源を説明することはありませんが、闇や悪が克服されたということを最も強調して伝えているのです。

そのことがよく分かる箇所が、五節後半のところです。「暗闇は光を理解しなかった。」(五節)。新共同訳聖書では「理解する」というように訳されています。これとほぼ同じ訳をしているのが、昔の文語訳です。「暗黒は之を悟らざりき」。

これに対して、かつての口語訳聖書では「やみはこれに勝たなかった」と訳しています。「理解する」ではなく「勝つ」と訳しているのです。これと同じ翻訳をしているのが、新改訳聖書「やみはこれに打ち勝たなかった」、あるいはフランシスコ会訳聖書「闇は光に打ち勝たなかった」という翻訳です。

「理解する」なのか、それとも「勝つ」なのか。元の言葉では「つかむ」「把握する」「手の中に収める」という意味のある言葉です。例えば何かのコツをつかむことを考える。子どもは生まれてからまずは親に食べさせてもらいますが、だんだんと自分で食事をするようになります。スプーンですくって食べようとする。しかし最初はうまくすくえませんし、すくったとしてもすぐにスプーンからこぼれ落ちてしまいます。しかしだんだんとコツをつかむ。把握する。つまり理解するようになります。つかむという意味から転じて、「理解する」と訳すことができます。

もう一つの翻訳は、「勝つ」という翻訳ですが、「勝利を手中に収める」などと言います。何かのスポーツで相手に勝つためには、相手を把握し、自分の手の中に収めなければなりません。そういう意味から考えると、「勝つ」というように訳することもできるのです。聖書の翻訳が二つに分かれているのを、このように考えることができます。

そこで、五節後半を私なりに理解すると、こうなります。新共同訳聖書では「暗闇は光を理解しなかった」とありますが、元の言葉のニュアンスを生かすならば、「闇は光を手の内に収めることができなかった」となります。転じて「闇は光をすっぽりと覆うことができなかった」となり、さらに転じて「闇は光を消すことができなかった」となります。これが聖書の最も言いたいことです。闇の起源は確かに分かりません。しかし闇は結局のところ、光をしのぐことができなかった。光が勝ったのです。

先週と今週にわたって、第一章一節から五節から御言葉を聴いてきました。イエスというお方をどのように表わすのか。この箇所では「言」「命」「光」という言葉で表しています。イエスというお方を譬えると、「言」「命」「光」になる…、そうではありません。まさにこの方こそ、「言」「命」「光」そのもののお方。この箇所はそう言っているのです。

この方は私たちのところに来られた方です。私たちの生かされているこの世界は、一見すると闇が支配しているのではないか、そう思えるような世界です。明るい将来を夢見ることができないのではないか、そんなことも思ってしまいます。この世界はアンハッピーエンドで終わるのではないか、そんなことも思ってしまいます。いくらでも闇の支配が色濃い例を挙げることができます。

しかし聖書が言っているのはそのことではありません。確かに闇がある。しかし闇は絶対的な力を持たない。イエス・キリストによる勝利がすでにあった。たとえ私たちが死のただ中にいても、命の光を見ることができます。闇の起源が分からなくても、闇がすでに過ぎ去っていることが分かります。泥沼にはまってもがいていても、救ってくださるお方がいます。そのお方こそ、まことの「言」であり、「命」であり、「光」であるお方、イエス・キリストなのです。