松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2016年2月7日(日)
説教題「キリストが我が内に形づくられる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ガラテヤの信徒への手紙 第4章12〜20節

わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。

旧約聖書: 創世記1:26~31

先週の月曜日から水曜日にかけて、説教塾のセミナーが名古屋で行われ、出かけてきました。説教塾は、ご存知の方も多いと思いますが、私が以前から参加しています説教の学びのための集いです。日本全国各地で地域の集会も行われており、私は信州説教塾というところで学んでいます。そのような地域の集会だけでなく、全国的な集いも行われています。先日、名古屋で行われたセミナーもそうであり、泊りがけで、三日間の学びがなされました。私もときどき、このようなセミナーに出かけることがあります。

いつものセミナーは、実際に説教を生み出すことを主眼に置くセミナーなのですが、今回のセミナーでは、竹森満佐一先生という方の説教を学びました。長く吉祥寺教会というところの牧師をされ、私が牧師になるための学びをした東京神学大学でも教え、学長までなさった方です。その説教から学ぶためのセミナーです。

竹森先生のいくつかの説教が、参加者に事前に配布されました。七、八くらいの説教があったと思います。私も事前に目を通しました。いくつもの説教に心を惹かれましたが、特にガラテヤの信徒への手紙の説教に心を惹かれました。今日の聖書箇所をもとにして語られた説教です。

ガラテヤの信徒への手紙について、皆さまはどのくらい馴染があるでしょうか。かつて、この教会でも、ガラテヤの信徒への手紙をもとに、説教が語られたことがあります。そのときのことを覚えておられる方もあるかもしれません。

ガラテヤの信徒への手紙について、いろいろなことが言えるかもしれませんが、多く出てくるのは、律法と福音という言葉です。この手紙を読んでいると、少々、とっつきにくいところがあるかもしれません。しかし手紙全体では、言っていることは非常に単純なことです。私たちが救われたのは、キリストを信じる信仰によってのみ。それが福音です。ガラテヤ教会の人たちも、最初はそのようにして救われたのです。

しかし、ユダヤ的な生活をしなければならない。つまり律法に基づいたユダヤ的な生活をしなければならない。そのように、いつの間にか、キリストの福音から引き離される生活を送るようになってしまったのです。ユダヤ人と同じように、割礼を受けなければならないとか、ユダヤ人と同じように律法遵守をしなければならないとか、キリストの恵みが失われつつあったのです。

こういうことが、今日の聖書箇所の内容にも表れてきています。竹森先生のガラテヤの信徒への手紙の説教に私が心を惹かれたのは、その説教の内容もさることながら、今日の聖書箇所の言葉に、特に心を惹かれたのです。この手紙を書いたパウロは、ガラテヤ教会の創設者です。なぜ創設者が自分の教会の人たちにこんな言葉を言っているのだろうか。もしかすると、今の私たちの中にも同じ思いをしているのではなかろうか。そのようなことを思わされたのです。

今日の聖書箇所の最後のところに、こうあります。「できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。」(二〇節)。パウロは途方に暮れている。どうしたらよいか、もう分からなくなっている。

最初の一二節にもこうあります。「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。」(一二節)。その前の一一節から読んだ方がよいかもしれません。「あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。」(一一節)。パウロがガラテヤ教会のことを思い、心配をしたり、お願いをしたり、最終的には途方に暮れる以外にはない。そのパウロの心がよく表れています。

伝道者というのは、様々な労苦をするものです。いろいろな労苦があるかもしれません。聖書の言葉を神の言葉として伝えようとする。しかしどうもよく伝わらない。そのための学びが説教塾でなされているわけです。伝道者が労苦しているから、説教塾が存在すると言っても過言ではないのです。他にも様々な労苦があるわけです。

しかしこの労苦は、何も伝道者だけではありません。伝道者の「者」の字をとって、伝道の労苦と言っても同じわけです。私たちも皆、伝道の労苦をします。家族や友人を教会に連れてきたいと思う。けれどもうまくいかない。聖書や信仰のことが、どうも誤解されているようなこともある。その誤解を解きたいけれども、うまくいかない。そういう労苦もあるでしょう。教会の業にも、様々な労苦があります。伝道が順調に進展している。そんな教会は珍しいし、順調そうに見える教会でも、様々な労苦を抱えているものです。

まだ洗礼を受けておられない求道者の方々も、ご本人で様々な労苦をされていると思います。聖書が言っていることをもっと知りたいと思うけれども、どうもよく内容が分からなかったり、信じたいと思っても、なかなか信じることができなかったり、洗礼を受けるにも、何らかの障害があったりします。それはそれで、自分自身で伝道の労苦をしているのです。

伝道について、教会について、信仰について、また具体的な生活について、私たちは様々な労苦をします。パウロがここでしている労苦も、その労苦のうちの一つかもしれません。ガラテヤ教会の人たちも、パウロがこんなに労苦をしたことを忘れていたかもしれませんし、知らなったかもしれません。私たちも自分で様々な労苦をしますが、私たち以上に労苦をしている人がいるということを、忘れるわけにはいきません。

パウロが最初にガラテヤ伝道をしたときに、どんな労苦があったのでしょうか。一三節のところにこうあります。「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。」(一三節)。いろいろなことが含まれていそうな、そんなパウロの言葉です。

実際にパウロがガラテヤ地方を伝道したときのことが、わずかながらですが、使徒言行録に記されています。「さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。」(使徒言行録一六・六~七)。聖霊から禁じられた、イエスの霊がそれを許さなかったとあります。計画通りにはいかなかったのです。そのために、当初は計画になかった「フリギア・ガラテヤ地方」を通ることになった。まったく計画になった地方の伝道を行ったのです。

しかもその伝道がある程度の成果を収めたようです。今日の聖書箇所の一四節にこうあります。「そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。」(一四節)。パウロは病気持ちだったようです。どんな病かはよく分かりません。他のパウロが書いた手紙では、「わたしの身に一つのとげが与えられました」(Ⅱコリント一二・七)と書いています。これもパウロの病のことであると言われています。

病が悪化したのかは分かりませんが、伝道旅行の計画が狂い、たまたま行ったガラテヤ地方で伝道をした。その病気持ちのパウロを、ガラテヤの人たち、まるでイエス・キリストであるかのように受け入れてくれて、教会が生まれたのです。もちろん、様々な労苦があったでしょうけれども、伝道が成功し、パウロもガラテヤ教会の人たちも幸いな思いをすることができたのです。

ところが、一五節以降、雲行きが突然、怪しくなってきます。「あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。」(一五節)。最も大切なものの一つである目を与えるほどに、それほどまでにパウロとガラテヤ教会の人たちは良好な関係だったのに、その幸福がどこかに行ってしまった。一六節では「敵」という言葉さえ使われます。

一七節には「あの者」という言葉もあります。「あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。」(一七節)。パウロがガラテヤ教会を去った後、「あの者」たちがガラテヤ教会の人たちを惑わしました。どうやら、ユダヤ的な生活をしなければ救われないと説いたようです。割礼を受けなさいとか、律法遵守の生活を送れとか、そういうことをしないと救われないぞ、と説いたのです。キリストの福音から引き離されてしまったのです。

このことは、私たちと無関係ではありません。私たちも洗礼を受けてキリスト者になる。自分の行いによって救われるのではなく、キリストが私たちの罪を赦してくださる恵みによってのみ救われる。そのことを信じてキリスト者になったはずでした。ところがいつの間にか、どうも自分はキリスト者らしくない。立派な行いをしようとする。しかしできない。キリスト者失格だと思ってしまう。そうなってしまうと、ガラテヤ教会の人たちと同じ道をたどっていることになります。

そして、一九節にこうあります。「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」(一九節)。キリスト者とは、いったいどういう者なのか、そのことがよくこの聖書箇所に表れていると思います。キリスト者は、キリストがその人の内に形づくられた者であり、産みの苦しみによって生まれた者なのです。

ガラテヤの信徒への手紙第二章二〇節にこうあります。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(二・二〇)。昔から信仰生活をされている方は、文語訳で覚えておられることでしょう。「最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」。

第三章二六~二七節にもこうあります。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(三・二六~二七)。ここではキリストを着ているという表現ですが、洗礼を受けた者はキリストと結ばれ、キリストがその人の内に生きるようになるのです。

しかし今や、そのキリストの形が失われつつあった。パウロはそのことを心配し、労苦し、途方に暮れているのです。もう一度、キリストを形づくる、その労苦をこれからしようと言うのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、創世記です。創世記の最初にある、七日間での天地創造の最後のところを、お読みいたしました。特に第六日目に、人間が創造されます。「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(一・二六~二七)。

創世記の記述によれば、私たち人間は、神に似ている、神にかたどられている、そう記されています。人間は神の似姿であり、かたどって造られた。それが聖書の理解ですが、これはいったい何を意味するのでしょうか。

松本東教会では、ハイデルベルク信仰問答を一年ほど前から学んでいます。この信仰問答は、信仰の急所を短い問答のやり取りで表している大変優れたものです。私たちがすでに学んだところで、神にかたどって造られたことがすでに出てきました。その箇所を引用します。

問六 それでは、神は人をそのように邪悪で歪んだものに創造なさったのですか。
答 いいえ。むしろ神は人を良いものに、また御自分にかたどって、すなわち、まことの義と聖において創造なさいました。それは、人が自らの造り主なる神をただしく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちに神と共に生き、そうして神をほめ歌い、讃美するためでした。

神にかたどって、あるいは神の似姿ということから、私たちは文字通り、神と姿や形が似ているのかと思ってしまいますが、そうではありません。ハイデルベルク信仰問答がここで言っているように、神とのただしい関係に生きることができるということです。神を知る、神を愛する、神を讃美する、神と共に幸いのうちに生きる。つまり、鏡のように、神を写し出すことができる。ああ、この人は神に生かされている、神によって生きている、そうでならば、神にかたどって造られたのであり、似姿なのです。

キリストの形もこれと同じです。パウロがガラテヤ伝道をした。洗礼を受けた。キリストの形が生み出された。私たちも同じです。キリストが内に生まれた者となったのです。ガラテヤ教会の信徒たちも、キリストを写し出す者になった。しかしその形が失われようとしていたのです。

私が伝道者になる前のことですが、私がある集会に出たときのことです。プロテスタント、カトリックを問わず、幅広い教会から参加者が集まっていました。カトリック教会のある聖職者がこのように発言しました。自分が教会の病人を訪問するときには、自分はキリストになるのだ。キリストそのものになるのだ。そういう心構えで訪問をしているという話をされました。そうすると、おそらくプロテスタント教会の牧師だと思いますが、キリストになるとはいったい何事だ。私たちとキリストとは違うではないか。カトリックの聖職者のその発言に噛みついたのです。

その発言をきっかけにして、しばらく短い時間で、論争がなされました。カトリックとプロテスタントの考え方の違いを表しているとも言えるかもしれません。しかしプロテスタントの出発点となった改革者ルターもまた、「小さなキリスト」ということを言っています。私たちキリスト者は、皆、小さなキリストなのだと言ったのです。

もちろん、ルターは私たち人間とキリストは違う。それも決定的に違う。そのことは百も承知でした。その意味では、カトリックの聖職者の理解とも違う理解をルターはしていたのだと思います。ルターは、特に若き時代、自分の罪に苦しんだ人でもあります。修道院に入り、これ以上はないキリスト者らしい生活をしながらも、自分の罪に苦しんだのです。神に認められるような、立派なよい行いなどできないことに苦しんだのです。ルターも若いころは、ガラテヤ教会の人たちと同じ過ちに陥りそうになりました。ガラテヤ教会の人たちも、割礼を受けなければならないとか、律法を遵守しなければならないとか、立派な行いによる救いに陥ってしまいました。

ルターもそこに陥りそうになりましたが、そうはならなかった。立派な行いなど自分にはできない。その意味では、キリストと自分は決定的に違う。しかし、そんな立派な行いなどできない自分も、キリストの赦しの恵みの中に生かされている。ルターは聖書を熱心に読み、そのことを見いだしたのです。もしキリストがおられなければ、自分は生きて行かれない。自分はキリストによって生かされている。その意味での「小さなキリスト」ということを、ルターは言ったのです。

パウロも実際そうでした。病を抱えていたり、途方に暮れるようなことがあったり、欠けがあったり、自分のことを「罪人の中で最たる者」とさえ言っています。神や人に対して、申し訳ないという思いで生きていたところがあります。それでも、キリストに生かされているという信仰に生きた。パウロも「小さなキリスト」だったのです。ルターやパウロと同じように、私たちも「小さなキリスト」です。

竹森先生の説教の最後のところで、二〇節の「途方に暮れている」という言葉が出てきます。「私はあなたがたのことで途方にくれている。どうしていいか分からん。何だか、聖書の中に、こんな途方にくれたなんていうようなことが言われているというのは、おかしいように思う人があるかもしれません。…途方にくれているということで、今日のお話しを終わるわけにはいかないかもしれません。しかし、それは途方にくれていると書いてあるんだから、それで結構」。

それで結構だ、と。なぜ結構なのか。竹森先生はこう言います。自分の力については途方に暮れている。絶望しているとさえ言います。パウロは手を変え、品を変え、語調までも変えて何とかガラテヤ教会の人たちを導こうとします。しかし途方に暮れる。人間の力ではできっこない。しかしキリストが生まれるということは、神がなさることです。それをわきまえていれば、私たち人間が途方に暮れるというのは、むしろ当たり前のことかもしれません。

竹森先生は最後の最後でこう言います。「自分なんか途方にくれたってあたりまえのことだ、という自信が、その背後にあるということは誰でも読むことができるでしょう。自信というよりも、信仰がその背後にある。信仰者の生活の不思議さを思う。そして、何をほんとうに目指さなきゃならないかということを深く思わせられるのであります」。

私たちも、一方では自分の力に途方に暮れながらも、他方では私たちの内にキリストを形づくってくださる神の力を信じたいと思います。途方に暮れたところで、神が小さなキリストを私の内に、私たちの内に形づくってくださる。そのことを喜べるのです。