松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


HOME > 礼拝説教集 > 20150405

2015年4月5日(日)
説教題「キリストの衣をまとう」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: ガラテヤの信徒への手紙 第3章26〜29節

あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。

旧約聖書: イザヤ書 第61章10~11節

イースターの日を迎えました。先週の一週間は受難週のときを私たちは過ごしました。主イエスのご受難の歩みをたどりながら、木曜日の夜には洗足木曜日聖餐礼拝を、金曜日の朝には受難日祈祷会を行いました。金曜日、土曜日、そして日曜日。三日目に、主イエスが十字架の死からお甦りになった。今日は復活の祝いです。

聖書には主イエスの復活に関して、いろいろな表現がなされています。福音書では、主イエスの復活の出来事をそのまま伝えています。新約聖書の様々な手紙では、出来事がそのまま書かれることもありますし、主イエスの復活の意味を問うているものもあります。その中で、このような表現があります。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(Ⅰコリント一五・二〇)。

復活を実りにたとえています。イエス・キリストの実りが初穂です。最初の実りです。二千年前に初穂が実りました。まだ実りはたった一つかもしれません。しかしその実りを祝う。それがイースターです。

松本でもちょうど桜が咲く頃になりました。つぼみが膨らんで、もうそろそろ咲いた頃でしょうか。咲くときはすべてが同時に咲くというわけではありません。最初にたった一輪の花が咲きます。誰かがそれを見つけます。見つけた人は、この後に続々と花が咲いていき、しばらくすると満開になることを知るのです。

それと同じように、イエス・キリストは復活の初穂です。まだ一つしか実りはありません。しかし私たちも、桜の最初の花を見つけた人と同じく、そのあとの実りが続くことを知っている者です。だから私たちはイースターを祝う。主イエスの復活という他人事を祝うのではなく、そのあとに私たちの復活の実りも続くことを覚え、イースターを祝うのです。

今日のイースターの礼拝において、大変喜ばしいことに、一人の姉妹が洗礼を受けられました。先ほど皆さまがご覧になった通りです。この姉妹もまた、洗礼を受けられて、キリストの後に続く実りの一つに数えられました。洗礼とはその出来事が起こることなのです。

イースターの礼拝に私たちに与えられた聖書箇所は、ガラテヤの信徒への手紙の箇所です。イースターの特別な礼拝でありますので、私たちが御言葉を聴き続けているヨハネによる福音書から今日は少し離れます。説教題を「キリストの衣をまとう」と付けました。二六~二七節にこうあります。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(二六~二七節)。

「着る」という言葉が使われています。聖書の中に何度も繰り返し使われている言葉です。文字通り、衣服を着るという意味でも多く使われています。しかしいくつかの手紙の中に、この言葉がとても大切な意味で使われている箇所があります。本日、私たちに与えられたガラテヤの信徒への手紙もその一つです。洗礼を受けた者はキリストを着ていると言われています。

その他の手紙でも、このような表現があります。「主イエス・キリストを身にまといなさい。」(ローマ一三・一四)。「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」(コロサイ三・一〇)。「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェソ四・二四)。

四月になり、新年度最初の礼拝を迎えています。新たな生活を始められた方もあると思います。新たな学校に進学された方は、今までは私服であったのに、四月から制服を着るようになった人もいます。就職をした関係で、四月から制服を着るようになった方もあるかもしれません。

三月から四月にかけて、わずかひと月です。三月末から今日の四月初めにかけては、わずか数日です。たった数日で、私たちの中身が変わっているわけではありません。しかし制服を着ることによって、中身の問題はともかく、三月と四月の自分は決定的に違うのです。四月以降の歩みも、その制服を着ることによって整えられていくところがあるでしょう。

ガラテヤの信徒への手紙に記されているように、洗礼とはキリストを着ることです。今日の聖書箇所は第三章のところです。ガラテヤの信徒への手紙の中でもちょうど真ん中あたりです。いろいろなことが書かれているかもしれませんが、この手紙を書いた使徒パウロの最も伝えたかったことが、今日のこの聖書箇所のところになります。ここが手紙の頂点なのです。

今日は細かい説明はほとんど抜きにしたいと思います。先ほどの朗読をお聴きになられただけで、今日の聖書箇所の意味はほとんど明らかであると思います。文字通りのことをパウロは書いた。この聖書箇所を頂点にして、前後の箇所ではパウロはいろいろな説明をしているところがあります。今日の説教では説明はほとんどしないと申し上げましたが、一つだけ説明を加えたいと思います。

今日の箇所の直後、第四章一節に「つまり、こういうことです」とパウロは書いています。それ以下のところで説明をしているわけですが、「相続人」であるということに関する説明をしています。説明をするにあたって、子と僕を対比させています。家の子どもと奴隷のことです。

奴隷と言いますと、近代の非人道的な奴隷制度を思い浮かべるかもしれませんが、この聖書箇所でそのことを思い浮かべてもあまり意味はないと思います。当時のローマ帝国の奴隷は、もちろんいろいろな奴隷がいたでしょうけれども、家庭で一緒に生活をしていることが多かったようです。パウロもここでは同じ家の中で生活している家の子どもと奴隷のことを考えている。同じ食卓に連なり、食事をするわけであります。その家の子どもが未成年である場合、「僕となんら変わるところがなく」(四・一)とパウロは言っています。ここでの「僕」は奴隷のことです。成人するまでは、子どもも奴隷も見た目ではまったく変わりません。

しかしそれでも決定的な違いがある、パウロはそう言います。子であれば相続人であるところが違うのです。子は父のものを相続することができる。父から無償で、子であるという理由だけで、父のものをもらうことができる。しかし奴隷はそうではない。「子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」(四・七)とあるように、パウロはこの箇所の最後のところでそう結論づけているのです。つまり、洗礼を受けてキリストを着ているものは、キリストのものであり、奴隷ではなく神の子とされているのであり、神からの祝福の相続人になっているのだとパウロは言うのです。

この説教の後に讃美歌第二編の一九五番を歌います。「キリストにはかえられません」という讃美歌です。メロディーも歌詞も、とても美しい讃美歌です。

この歌詞の作詞をした人が、讃美歌の印刷されているページの左上のところに記されています。レア・ミラーという女性の方です。この人の母親は熱心な信仰者でした。父親はアルコール依存症だったようです。母と娘で父親のために熱心に祈った。祈っただけではなくて、父親を見捨てずに様々なことをしたのでしょう。父親は立ち直った。その頃、娘のレア・ミラーがこの歌詞の元になる言葉を作り出しました。

この讃美歌を作曲した人は、ページの右上のところに書かれています。ビバリー・シェーという人です。この人の母親は美しい言葉が好きで、それをよく集めていたそうです。心惹かれる文章や詩の言葉に出会ったときにそれを書き留め、ピアノの譜面台あたりにいつも置いていたのです。

息子のシェーが二十歳であった一九二九年に、シェーの母親が、レア・ミラーが作った言葉を譜面台に置きました。ミラーの言葉を美しいと思い、何気なくいつものように譜面台のところに置いたのでしょう。ある日曜日の朝のことでした。譜面台でその美しい言葉をシェーが見つけます。すぐに、本当にすぐに、その歌詞を整えて作曲をして、その日の日曜日の礼拝で早速その讃美歌を歌ったのだそうです。シェーの父親は牧師だったので、そういうことができたのでしょう。そのようにしてこの美しい讃美歌は生まれました。

この讃美歌は、シェーが若干二十歳のときに作った讃美歌です。私たちは喜んでこの讃美歌を歌うところがありますが、たとえ私たちが何年生きようとも、この歌詞通りに生きることの難しさも覚えるところがあるかもしれません。

しかしシェーのその後の歩みはどうだったのでしょうか。保険会社に勤める傍ら、音楽の賜物が与えられていましたので、音楽による伝道活動もしていたようです。しかしあくまでも副次的な働きでした。そのようなときに、たまたま受けることになったCBCというアメリカ四大放送会社のオーディションに合格します。それは音楽家としての将来を約束されたに等しいことでした。

しかし彼はその道を断りました。なぜ断ったのか。それはよく分かりません。その後、音楽を通しての伝道活動に専念するようになります。彼がそのように神に導かれたとしか言いようがないかもしれません。二十歳のときに「キリストにはかえられません」という讃美歌を作ったシェーですが、本当にその通りに歩んだ人と言えます。二番の歌詞には「キリストにはかえられません、有名な人になることも」と歌いますが、その後のシェー本人のことを歌ったのではないかと思われるほどです。

二八節のところにこうあります。「そこではもはや」。洗礼を受け、キリストを着ている、「そこではもはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(二八節)。

「有名な人になる」、それだけではありません。私たちは今までいろいろなことにとらわれて生きてきました。パウロの表現では「ユダヤ人」「ギリシア人」「奴隷」「字自由な身分の者」「男」「女」が出てきています。

しかも第四章八節のところでは、「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。」(四・八)とあります。「神々」となり得るものとして、いろいろなものを当てはめることができます。お金であったり地位であったり、自分のこれまでの経験や考えであったり、それらが神々になり、奴隷として仕えてきたとパウロははっきり言います。しかし洗礼を受け、キリストを着ているあなたがたは自由だとパウロは言うのです。

ビバリー・シェーにしても、オーディションの合格を活かしそのまま有名な音楽家になっていたとしても、名もあまり知られない音楽の賜物を生かした伝道者であっても、それはどちらでもよいことです。一番大切なことではありません。パウロ流に言えば、「有名な音楽家も、音楽による伝道者もなく…」ということになります。もっと大切なことがある。それは、あなたがたはキリストを着ているのであり、キリストにおいて一つであるということです。

本日、洗礼を受けられた姉妹も、様々なことを抱えている中で洗礼を受けられました。それらのことは、確かにこれからも問題になるかもしれません。しかしもはや一番のことではない。私たちを真に悩ますものにはなり得ない。今日から、生けるキリストを着る歩みが始まっているからです。ここに集っている私たちも、老いも若きもいます。いろいろな人生があります。そのようなことがある中で、すべてを超えて、キリストを着ている。そのことにおいて一つなのです。

私たちはやがて地上の生涯を終え、死のときを迎えます。ユダヤ人、ギリシア人とあるように、私たちもいろいろなものを抱えて生かされてきました。死に際して、それらのことは根本的な意味は持たなくなります。誰もが等しく死を迎えるからです。しかし復活のキリストを着ている者は、その衣だけは死に際しても取り上げられることはありません。キリストは復活の初穂です。そのあとに続く実りが私たちなのです。

洗礼を受けられた姉妹は、今日からキリスト者としてのスタートを切りました。キリスト者としての歩みが生涯にわたって、いや死を越えてまでも守られますように。まだ洗礼を受けておられない方々もここにおられます。乗り越えなければならない様々なことが、「神々」としてご自分の前に立ちはだかっていると思います。しかしそれらを超えるキリストの衣を一日も早く着ることができますように。

すでに洗礼を受けられた多くの方々もおられます。老いも若きも、信仰の長い短いも、人生経験が豊かであっても浅くあっても、それらはキリストの前では無関係です。キリストを着ていることをもう一度受け止め直して、新たな年度の歩みに導かれていただきたいと思います。