松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2014年3月30日(日)
説教題「神の壮大な救済史」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: エフェソの信徒への手紙 第1章3〜10節

わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。

旧約聖書: 創世記 第12章1~3節

松本東教会では昨年五月より、使徒言行録から御言葉を聴き続けています。先週は第一九章の最初の箇所にまで至りました。内容としては、使徒パウロの第三回目の伝道旅行に入ったところになります。そこに書かれていた話の舞台は、エフェソというところでありました。他の町に比べると、エフェソにかなり長く滞在することになりました。ユダヤ人の会堂に三か月間、ティラノという人の講堂に二年間、合計で二年三か月です。いろいろな騒動もありましたが、神の言葉が広がっていきました。

このパウロの滞在のときよりも、おそらく後でしょうけれども、今日、お読みいたしましたエフェソの信徒への手紙が書かれました。今日はこの手紙の冒頭の箇所から、御言葉を聴きたいと思っております。特に昨年のクリスマス以降、三か月間、この使徒言行録ばかりから御言葉を聴き続けてまいりました。たまには違う箇所から御言葉を聴くのも、新鮮であると思います。また、ちょうど使徒言行録ではエフェソが話の舞台になります。パウロはその後、どんな内容の手紙をエフェソに宛てて書いたのか。エフェソでパウロがいたときにどのような言葉を語ったのか。そのことを知るためにも、このエフェソの信徒への手紙から御言葉を聴くのも一つの理由です。しかし理由はそれだけではありません。

そのもう一つの理由とは、松本東教会のこどもの教会にかかわることです。こどもの教会では、毎週、九時半から礼拝を行っています。今日は「いっしょ礼拝」と言いまして、第五日曜日は大人の礼拝の前半の部分だけに、こどもたちも出席してもらいましたが、こどもたちは毎週、九時半から礼拝を行っています。礼拝を行うということは、そこで聖書が読まれます。読まれた聖書に基づいて説教が語られます。こどもたちの礼拝でありますから、説教の時間は短いわけでありますが、こどもの教会の教師たちが毎週、こどもたちに御言葉を語っています。

問題となるのは、どの聖書の箇所が読まれるのかということです。選ばなければなりません。そのために、教案というものを用いています。その教案に、普通の学校のようでありますけれどもカリキュラムが載っていて、その日曜日に読まれる聖書箇所も記されています。また該当箇所の聖書研究や説教例も載せられています。

こどもの教会の教師たちは、この教案をもとに説教の準備をして、説教を語るわけですが、二〇一四年度を迎えるにあたり、教師会で教師たちからある意見が出されました。それは、二〇一四年度、多くの聖書物語を聴きたいという要望です。もっとも聖書物語を聴きたいと言っても、こどもの教会ですから、こどもたちに聴いてもらいたいという要望です。そんな意見が出されました。イエスさまがこんな話をされたとか、イエスさまがこんな奇跡を行われたとか、旧約聖書ですと、少年ダビデがたった石一つで敵の勇士のゴリアトをやっつけたとか、そんな聖書の話を聴きたいという意見であると思います。

しかし「聖書物語」とは一体何でしょうか。もちろん今、挙げました個々の物語ももちろん聖書物語であると言えます。けれども、聖書というのは不思議なもので、個々の物語一つ一つを私たちは味わっていきますけれども、それぞれの物語が一つに繋がっているところがあります。バラバラな物語が並べられているのではない。それら個々の物語をきちんと並べると、一つの大きな物語になる。それが聖書の大きな特徴です。

キリストの教会では、聖書を旧約聖書と新約聖書に分けていますけれども、旧約と新約を合わせても、やはり一つの大きな物語になります。世界の創造から始まっている創世記が先頭で、世界が完成するヨハネの黙示録が最後になります。並び方もまた聖書全体の物語を表すようになっているところがあります。神が世界を造られ、人間をお造りになり、その人間を救い、世界を完成させる。大きな救いの物語となるわけです。少し難しい言葉で言うと、救済史と言いますが、本日の説教の説教題も、この言葉を含めた形にいたしました。「神の壮大な救済史」、これが今日の説教題であり、また聖書全体の物語にタイトルをつけるならば、この言葉になると思います。

今日、お読みしましたエフェソの信徒への手紙の冒頭部分に、短い言葉で要約された形になっていますが、救済史が表わされています。今日はお読みしませんでしたが、一節から二節にかけてが、手紙の挨拶部分になります。パウロからエフェソ教会へ。エフェソ以外にも近隣地域で広く読まれたようですが、そのような挨拶がまず記されます。そして三節からの箇所ですが、かなり長い讃美が始まっています。昔の讃美歌のフレーズではないかと考える聖書学者もいるくらい、文体も整った形をしています。

特に四節から五節にかけて、このようにあります。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(四~五節)。書かれていることは、とても明解だと思います。旧約聖書の天地創造の前よりも、神のご計画がすでにあった。しかも私たちに対する計画です。イエス・キリストによって私たちを神の子にしようという計画です。

聖書を読んでいると、少し困ってしまうような言葉に出会うことがあります。特にまだ洗礼を受けておられない求道者が、聖書に興味を持って、聖書を開いて読んでみる。そうすると引っかかる聖書箇所が出てくると思います。どんなところが引っかかるのか。特にこの四節、五節などがそうであるかもしれません。私たち人間は小さな存在です。この宇宙に比べて、まして神に比べれば、吹けば飛んでしまうような小さな存在です。それに対して、神が造られた宇宙も大きいですが、神ご自身も大きな存在です。そんな私たち人間に神は目を留めてくださるだろうか。私たち人間というよりも、この私に神は果たして目を留めてくださるのか。神に祈ったとしても、果たして神がこの私などの祈りを聞いていてくださるのか。そんな戸惑いが誰にも生じると思います。私たちの小ささの問題が生じてしまうのです。今日の聖書箇所でも、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して…」(四節)と言われても、本当にそうだろうかと思ってしまうのです。

そんなことを思ってしまう私たちに対して、聖書は明確な一つの答えを持っています。私たちが信じている神は、いつでも小さな者に目を留めてくださるお方である。そのような確信を聖書は告げています。聖書物語はいつでも小さな者が用いられる形式を取っていると言ってもよいほどです。

例を挙げたいと思います。本日、私たちに合わせて与えられた聖書の箇所がまさにそうです。創世記第一二章から、創世記では新たな展開を迎えます。アダムとエバという人類最初の人間が造られ、残念ながら罪を犯し堕落をしてしまいましたが、人間が次第に増えていきます。ますます罪を重ねる歩みを続けてしまいます。人間は救われる必要が生じてしまった。それが聖書の見方です。

人間を救うために、神はどのように行動されたのか。聖書はまず神が一人の人を選んでくださったところから語り始めます。アブラハム、このときはまだアブラムという名前でしたが、アブラハムが選ばれます。創世記第一二章の一~三節を改めてお読みいたします。「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」」(創世記一二・一~三)。

アブラハムはこのときまだ小さな一つの家族でした。しかし子、孫の世代になり、家族が大きくなり、やがて民族になっていきます。そしてそこから国家が生まれていきます。イスラエルが生まれるのです。そのイスラエルも、ほんの一時だけ国家として繁栄した時期もありましたが、そのほとんどは貧弱な時代を過ごさねばなりませんでした。旧約聖書の申命記には、こんな言葉も記されています。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに…」(申命記七・七~八)。

この言葉にも表れているように、聖書はいつでも小さな者がむしろ選ばれ、用いられていることが分かります。最初はアブラハムというたった一人の人物から始まりました。それだけでなく、兄よりもむしろ弟の方が選ばれて用いられるという話もたくさんあります。申命記にも「あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」(申命記七・七)という言葉もあります。松本東教会で御言葉を聴き続けている使徒言行録もそうでありまして、生まれたばかりの教会は、ローマ帝国という大きな存在の中に小さく埋もれるようにして建てられていました。吹けば飛んですぐになくなってしまうような存在でした。小さい者がいつでも用いられてきた。つまり、神がいつでも小さい者に目を留め続けてこられたからです。

小さい者たちが時間をかけて少しずつ用いられていく。それが神のやり方です。私たち人間の目からすれば、とても時間がかかるのです。アブラハムが選ばれて、イスラエルになるまでに一体どのくらいの期間が必要だったでしょう。いろいろな出来事を経験しました。ときには国家として滅亡したり、捕囚の民として他国へ連れて行かれたり、領土を失うことも多くありました。風前の灯ながらも、それでも奇跡的に存続をし続けてきました。

そのイスラエルから、イエス・キリストという救い主がお生まれになります。七節にこうあります。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(七節)。御子とはイエス・キリストのこと、血によって贖われとは十字架で流された血によって贖われた、つまり罪を赦されたということです。私たちの目からすれば、本当に長い時間が経ちました。人類が罪を犯し始めてから、アブラハムが選ばれてから、いったいどれほどの時間が経過したでしょうか。しかし神はいくらでも時間のあるお方です。一〇節にこうあります。「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」(一〇節)。神がお決めになった救いの時がやってきました。イエス・キリストが来られ、十字架にお架かりになり、私たちの罪が赦された。私たちにそのことが分かる時が、時が満ちるに及んでやって来たのです。

この説教の冒頭から、エフェソの信徒への第一章三節以下は、短く簡潔に記された聖書物語であると申し上げてきました。三節の天地創造に始まり、一〇節の救いの業が完成へと至る物語です。罪によって、神との関係も人間同士の関係も崩れ、バラバラになってしまいましたが、イエス・キリストによって一つにまとめられる物語です。これが救いの物語であり、「神の壮大な救済史」であり、聖書物語なのです。

聖書物語の一つの大きな醍醐味があります。それは、いつの間にか、その中に引き込まれるという醍醐味です。私たちが聖書を読んでいると、そこに自分のことが書かれている思いがする。まるで登場人物が自分自身ではないかと思うときがあります。また、私たちが聖書を読んでいると、今も昔も人間はまったく変わっていない。これからも変わらない。そんな思いをすることがあります。今の自分を当てはめて聖書物語を読むことができる。それが一つの大きな醍醐味です。

そのことを表すかのように、エフェソの信徒への手紙第一章三節から一〇節に簡潔にまとめられている聖書物語には、「わたしたち」という言葉が多用されています。至るところに「わたしたち」が埋め込まれていると言ってもよい。そんな箇所です。

礼拝において説教を語る説教者である私も「わたしたち」という言葉をよく使います。例えば、「わたしたちは、イエス・キリストによって救われています」と言ったり、「神はわたしたちのことを愛しておられます」と言ったりします。もしかすると、聴いておられる方の中には、ちょっと待ってくれと思われている方があるかもしれません。自分は信じて洗礼を受けてキリスト者になっているわけでもないし、そうは思わない。強引に「わたしたち」なんて言わないでくれと、心のうちで思われているかもしれません。しかしそれでもやはり「わたしたち」なのです。

今、聴いておられる方の中に、「わたしたち」の中に自分が入っていないと思われている方も大丈夫です。八節から九節をご覧ください。「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。」(八~九節)。知恵と理解が与えられる、神の秘められた計画を知らされる、そんな表現が用いられています。その知恵と理解が与えられて、計画を知らされて、後はそれを信じるかどうかの問題です。信じて自分が変わっていく用意があるかどうか。今までは観客席の後ろの方から見ていただけかもしれません。しかし聖書物語に引き込まれ、自分も舞台の上に上がっていく。物語の中に入って行く。そうなれば、もう立派な「わたしたち」の一員なのであります。

そのことを表すように、今日の聖書箇所ではありませんが、パウロの祈りが続いていくことになります。一七~一九節にこうあります。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(一七~一九節)。

パウロは一生懸命、神の言葉を伝えました。伝道をしました。それでもここに書かれていることをわきまえていたのです。神が知恵と理解、秘められた計画を知らせ、心の目を開かせてくださらなければ、信仰を持つことができないことを。私たちも聖書物語を聴き、味わい、またそれを語ります。一人でも多くの「わたしたち」が聖書物語に入れられていくのです。