松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2012年7月1日(日)
説教題「慰めの言葉を語り合おう」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第1章3節〜11節

わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。

旧約聖書: コヘレトの言葉 第4章9〜12節

先週の日曜日の午後のことですが、信州なずなの会の集会が松本筑摩野伝道所を会場にして行われました。松本東教会では昼食後、教会堂の大掃除をしましたので、私たちの教会からは行ける人が少なかったのですが、いくつかの教会から四二名の参加者がありました。

信州なずなの会というのは、規約に「本会はキリスト教の精神の基づき、障がい者と健常者が共に支えあう諸活動を行うことを目的とする」とありますように、障がい者の方々と共に歩む会です。今年で発足してから三一年を迎えました。昨年は三〇周年ということで、松本東教会を会場として、私が開会礼拝の説教をいたしました。というのは、そもそもこの信州なずなの会というのは、私たちの教会を母体にして、発足したからであります。

かつて、私たちの教会のメンバーに島崎光正さんという方がおられました。ご自身が二分脊椎症という障がいを負っておられた方です。この方は詩人として活躍されたことで有名ですが、障がい者のための活動を多くされた方です。信州なずなの会もその一つです。今から三一年前の一九八一年九月二七日、島崎光正さんが「障害者は教会にとってなぜ必要か」という講演題で、講演をなさいました。その講演から「思いやりの会」が発足し、その後「信州なずなの会」となり、今日に至っています。

島崎光正さんの最初の講演題に着目したいと思いますが、この講演題は決して「教会は障害者にとってなぜ必要か」という題ではありません。障がい者の方は何らかの痛みを負っておられるから、特別な慰めが必要で、だから教会が必要なのだ、というわけではないのです。そうではなくて、教会にとって障がい者の方が必要欠くべからざる存在であるということです。もしも教会に障がい者の方がおられないとすれば、それこそ、その教会に何らかの「障害」があって、障がい者の方が来られないということになるのです。

私がこのことに関して、思い起こすことがあります。私が神学校に在学中、最終学年の授業の一コマに「障害者と伝道」というテーマが掲げられた授業がありました。特別講師の先生が来られ、授業が始まりました。授業の冒頭で、その先生が学生たちに質問をしました。「皆さまの教会に障がい者の方はおられますか」。ある学生がこう答えました。「幸いなことにおられません」。そうするとその先生はこう言われました。「幸いとあなたは言いましたが、それは幸いなことではありません。むしろ不幸なことです。障がい者の方を来られなくしているような要因が、あなたの教会にはあるのでしょう」。

この先生の言葉と、島崎光正さんのとの講演題には、通じるものがあると思います。教会に障がい者がおられるのが自然なことなのです。もしもおられないとすれば、本当の教会にはなり切れていない。信州なずなの会の規約にはこうあります。「障がい者も健常者も共に神の家族の一員として、学びあい交わりを共にしながら、お互いの証しを通して励ましあい、信仰を深め、キリストのエクレシア(信仰共同体)を形成する」。

エクレーシアという言葉が出てきました。聖書はもともとギリシア語で書かれました。説教の中で、ときどきギリシア語の言葉を紹介することがありますが、今日の説教でもいくつかのギリシア語の言葉をご紹介します。日本語に翻訳すると、元の言葉のニュアンスがうまく伝わらない場合がありますから、聖書に出てくるいくつかのギリシア語の言葉を、そのニュアンスとともに、覚えてしまうのがよいと思います。

エクレーシアもギリシア語です。聖書の中に、エクレーシアという言葉はたくさん出てきますが、「教会」と訳さます。例えば、今日の聖書箇所ではありませんでしたが、コリントの信徒への手紙二の冒頭のところに「コリントにある神の教会」(一節)という言葉があります。これは「コリントにある神のエクレーシア」という言葉です。信州なずなの会の規約で、エクレーシアという言葉に続いて、括弧にくくられて「信仰共同体」となっていました。こうなっているのは、元の言葉のニュアンスをよく生かした形になっています。

エクレーシアとは、教会の建物を表すのではなく、信仰者たちの集まりです。まさに「信仰共同体」です。エクレーシアの言葉の成り立ちを追求していくと、「呼び集められた者たち」という意味になります。神によって呼び集められた信仰者たちの集まりが教会となるのです。

コリントの信徒への手紙二は、コリント教会を創設した伝道者パウロから、コリントの教会、つまりコリントのエクレーシアに対して宛てられた手紙です。パウロからコリント教会の信徒たちへの手紙です。パウロはコリント教会を創設した後、別の地に赴き、そこでもまた教会を建てましたが、コリント教会のことはいつも気にかけていたようです。何度も手紙を書きました。新約聖書学者たちがいろいろと調べてくれていますが、少なくとも五度は手紙を書いたようです。涙ながらに書いた手紙もあったようです。そのような手紙を書かざるを得なかった理由はいくつもあったと思いますが、一つ確実に言えることは、コリント教会が本当の教会としての体をなしていなかったからであります。

今日の聖書箇所には教会、つまり、エクレーシアという言葉がないと先ほど申し上げましたが、その代わりに、教会とはこのようなところであるということをよく表している表現があります。それは七節のところです。「苦しみを共にしてくれている」「慰めをも共にしている」(七節)という言葉であります。ここで用いられている「共にする」という言葉、これも元のギリシア語の言葉で言うと「コイノーニア」という言葉です。

コイノーニアという言葉は、人々が持つ親密な関係のことを表す言葉です。聖書が書かれる前から、ギリシア語は人々の間で使われていたわけですが、たとえばコイノーニアという言葉はこのように使われていたようです。商売人が「あの人とはコイノーニアがない」と言えば、あの人とは取引がない、というように使われていました。また男女が結婚する場合、「人生のコイノーニアに入る」というように使われていたようです。

このコイノーニアというギリシア語でもよく使われていた言葉が、聖書の中でも用いられました。聖書では、キリスト者同士を結びつける意味に使われています。あるいは、神やキリストと私たちを結びつける意味にも使われています。教会というコイノーニアは、一つのものを共有します。一つのことを共同で行います。そこに親しい交わりが生まれてきます。今日の聖書の箇所にあるように、苦しみや慰めを共有する交わりが教会にはあるのです。

コイノーニアという言葉をどこかで聞いたことがあると思っておられる方も多いでしょう。実は、先週の週報にも書かれていましたし、今週の週報の中にも記されています。今月の七月二二日に加藤常昭先生をお招きします。午後にも懇談会を持ちたいと思っておりますが、テーマは「慰めのコイノーニア」です。加藤先生が今年の初めに『慰めのコイノーニア』という本を書かれました。来週の日曜日の午後にノアの会がありますが、この本の内容をご紹介したいと思っています。

今日の説教も、この本と大いにかかわりがありますが、この本には副題が付けられています。「牧師と信徒が共に学ぶ牧会学」となっています。牧会とは何でしょうか。教会生活をしていると、時々、耳にする言葉ではないかと思います。いろいろな説明をすることができるでしょうけれども、この本にもありますように、「魂への配慮」をすることであります。この本のあとがきのところに、このように書かれています。少し長いですが、そのまま引用したいと思います。

「日本の現状と、そこに遣わされているキリストの教会の使命を思い、改めて教会が慰めの共同体、慰めのコイノーニアとして生きることの大切さを思います。緊急の課題だと思っているのです。私は長く説教学に携わり、二〇数派を超える二四〇名ほどの説教者たちと説教塾を造り、説教の学びに励んでいます。説教と魂への配慮のふたつがキリストの教会の働きの急所です。両者相俟ってこそ、教会は強くなります。キリストの教会にふさわしい力に生かされるようになるのです」。

教会の働きの急所は二つあって、一つは説教で、もう一つが「魂への配慮」、つまり牧会であると述べられています。この「魂への配慮」を学ぶことこそ、来週のノアの会の目的であり、加藤先生をお招きする理由でもあります。もちろんのこと、私たちの松本東教会ではすでに魂への配慮がなされていますが、さらに教会として成長するために、もう一度、学び直したいと思っています。

教会が魂への配慮をするということ、今日の聖書箇所の表現で言えば、「苦しみを共にする」ということであり、「慰めをも共にする」ということであります。この説教の冒頭で、教会には障がい者がおられるのは当然であり、最も自然なことであると申し上げました。当然のことですが、障がい者の方への配慮が必要です。

しかしそれは障がい者に限ったことではないと思います。教会の中には、今日の聖書箇所の表現で言えば、苦しみや苦難があります。教会のコイノーニアに入れば、苦しみがゼロになるというわけではありません。今現在、苦しみの最中にある方もあれば、将来、苦難を経験される方もあります。誰がというわけではありません。誰もがそうなるのです。その苦しんでいる人のところに、苦しみを共にする人がいる。慰めが語られる。それが教会というところであります。

皆さまにもそういう経験がおありでしょうけれども、私も教会の方と苦しみを共にする、慰めを共にすることがあります。まさに「魂への配慮」、牧会をします。たいていの場合、私よりも年上の方から話を伺います。そうすると、私の人生経験によって、いろいろと語るわけにはいきません。もっとも年配の牧師であっても、本当の魂への配慮は人生経験を語ることによって、解決するようなものではないと思いますが。

何はともあれ、まずは話を聞くことから始まります。こちらは口を開かずに、じっと耳を傾けます。時々、短い質問をすることはあります。話の事柄や原因をはっきりとさせるためにです。そのようにして話を聞いていると、私の頭の中に、いろいろと聖書の言葉が浮かんできます。そしてぜひ聖書のこの言葉を聴いて欲しいと思うようになります。最後にその聖書の言葉を「共に」聴きます。そして「共に」祈ります。このことによって、苦しみを共にし、慰めを共にするのです。

「共に」という言葉を強調しましたが、「慰める」というギリシア語の言葉も、「共に」という言葉に大いに関係があります。「慰める」というギリシア語も、覚えていただくとよいと思いますが「パラカレイン」と言います。

以前の説教で、「パラボレー」というギリシア語の言葉をご紹介いたしました。主イエスはしばしば譬え話をお語りになられましたが、「譬える」という言葉が「パラボレー」です。パラボレーというのは合成語で「パラ」と「ボレー」から成ります。「パラ」は傍らにという意味で、「ボレー」は投げるという意味です。本当に伝えたいことのすぐ傍らに、譬え話を投げる。傍らに投げられた譬え話をもとにして、本当に伝えたいことを理解する、これがパラボレーの意味です。

同じように、「慰める」のギリシア語である「パラカレイン」も合成語です。「パラ」というのは、傍らにという意味で変わりはありません。「カレイン」というのは「招く」「呼ぶ」という意味になります。つまり慰めるというのは、ギリシア語の本来の意味からすると、「傍らに招く」「そばに呼ぶ」という意味なのであります。慰めるというのは、私たちの感覚からすると、何らかの慰めの言葉を語ることによって、苦しみの中にある人の心を和らげてあげるような感覚がしますけれども、ギリシア語の元来の意味は少し違うのです。慰めるとは、その人の傍らにいるということです。その人と一緒に座ることから始めるのです。

私たちも誰かを慰めたい、あるいは誰かに慰めてもらいたい場合があります。しかし、どうも慰めが通じない場合が多くあると思います。大きな苦難を前にすると、何もかけてあげる言葉がないという経験をします。あるいは実際に声を掛けてみても、どうも相手の慰めになっていないということもあります。なぜ慰めが通じないのでしょうか。それは、その人の傍らに立つことをしていないからです。

例えば、大きな苦難を味わった人に対して、このように言ったとします。「気落ちしなさんな。今は夜かもしれませんが、必ず朝は来ますよ」、あるいは「松本の凍りつくような冬の寒さも、いつかは春が来て終わりますよ。元気を出してください」。しかしこれらの言葉はなかなか通じません。なぜかと言うと、相手が味わっている苦しみを客観的に見ているだけだからです。一緒に座ることをせずに、外から眺めて、言葉をかけてやっているだけだからです。だから通じないのです。聖書の言う、慰めるとは、そうではないのです。傍らにいることから、慰めが始まっていくのです。

そのようにして慰めることが始まったときに、私たちはやはりこのような問いに直面すると思います。果たして私に相手を慰めることができるだろうか。一緒に座ったはいいけれども、相手の言葉に耳を傾けたはいいけれども、慰めることができるであろうか、そう問わざるを得ないと思います。

そのときに私たちが知るべきなのは、慰めの源がどこにあるかということです。五節にこうあります。「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」(五節)。「キリストの苦しみ」という言葉が出てきました。コイノーニア、つまり教会の交わりには、キリストの苦しみが満ちあふれています。教会の建物の中にいようとも、教会の外であろうとも、苦しみの傍らに慰める人がいれば、そこにはキリストの苦しみが満ちあふれているコイノーニアが生じています。

キリストの苦しみとは、言うまでもありませんが、十字架での苦しみです。キリストは神の独り子です。神がたった一人の子を、私たちのところに遣わしてくださいました。その結果が十字架であったのです。神の独り子が十字架で死んでくださり、苦しみを受けてくださった。その苦しみが満ちあふれているのです。

九節に「死の宣告」という言葉があります。コリント教会の創設者であったパウロは、コリントとは別の場所で、苦難を受けていました。八節には「生きる望みさえ失って」いたことが記されています。そんなパウロも、苦しみの中から慰められて、立ち直ることができました。パウロは「死者を復活させてくださる神を頼りにするように」(九節)なったと言っています。パウロは苦難の中にあって、「自分を頼りにする」(九節)ことをやめて、神を頼りにすることによって、慰めを得たと言うのです。

ここで注目したのは、パウロが「わたしたち」と言っていることです。「わたしたち」が苦難を被り、「わたしたち」がひどく圧迫され、「わたしたち」が生きる望みを失い、「わたしたち」が死の宣告を受けました。そんな「わたしたち」に対し、神が死の危険から救ってくださり、「わたしたち」が神に希望をかけることができるようにしてくださいました。決してパウロ一人の話ではないのです。伝道の仲間がいたのです。お互いに傍らに立ち合い、互いが語り合う苦しみの言葉に耳を傾けたのでしょう。

パウロたちがそのように傍らに立ち合っていたときに、自分たちの目の前に見えてきたのが、死者を復活させてくださる神だったのです。十字架にお架かりになって苦しまれたキリストだったのです。傍らに立ち合って、パウロたちの目の先に見えたのが、神でありキリストであったのです。

私たちもパウロたちと同じです。慰めるとき、慰められるとき、私たちは傍らに立ち合います。共に同じ方向に目を向けるのです。共に神を見つめるのです。キリストの十字架を仰ぐのです。私たちの慰めの源泉はここにあります。神が独り子であるキリストを遣わしてくださった。神の独り子という代価が、すでに私たちのために払われている。私たちは神の独り子の命と引き換えに、神のものとされたキリスト者であることを、共に思い起こすのです。苦しみのコイノーニア、慰めのコイノーニアとは、このような交わりなのであります。

今日の聖書箇所の最初のところの三節は、神への讃美です。手紙の冒頭には挨拶がありますが、今日の箇所で慰めを語るにあたって、パウロはまず神を讃美することから始めています。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。」(三節)。

この三節の言葉は、教会の礼拝の中で用いられていた讃美の言葉ではないかと言われています。パウロたちも苦難の中から慰めを受けたとき、父なる神の前に立ち、また主イエスの前に立ち、この讃美を歌ったのではないかと思います。神がキリストを遣わしてくださり、キリストの十字架での苦しみによって、私たちに慰めを与えてくださった。それほどまでに神が私たちを愛してくださったことを覚えて、讃美をするのであります。

パウロはこのようにして立ち直りました。そして今や、コリント教会の人たちを慰める者へと召されているのです。パウロは苦難の中に置かれました。なぜパウロは苦難を経験しなければならなかったのか。それは自分のためでもあります。自分が苦難という試練を受け、その試練によって自分が成長するためでもありました。

しかしパウロが受けた苦難は、決してパウロ一人だけのためのものではありませんでした。他者のためでもあったのです。四節にこのように記されています。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」(四節)。パウロはキリストの十字架による慰めを受けました。そして今や慰めを受けた者として、あらゆる苦難の中にある他者を、慰めることができる者となったのです。

苦しみのコイノーニア、慰めのコイノーニアには、このような交わりが生じるのです。六節で言われているように、パウロが経験した苦しみと慰めによって、同じ苦しみに耐えることができるようになるのです。「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。」(六節)。

教会はキリストの体です。キリスト者はキリストの体の部分になります。一つの部分が苦しめば、体全体が苦しみます。一つの部分が慰められれば、体全体が慰められます。一人の人が苦しめば、その傍らに必ず立つものがいます。一緒にキリストの十字架を仰ぎ見ます。父なる神を讃美します。そして苦しんでいた者が立ち直れば、それはみんなの慰めになるのであります。

主イエスはあるとき「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」(マタイ五・四)と言われました。ここで主イエスが用いられている言葉も「パラカレイン」という言葉です。なぜ悲しむ人々が幸いなのか。なぜこの逆説が成り立つのか。それは、教会で悲しむ者があれば、必ずその者の傍らに立つ者がいるからであります。ここに、苦しみのコイノーニア、慰めのコイノーニアが生じるのであります。