松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2010年9月26日(日)逝去者記念礼拝
説教題「神の力の及ばないところはない」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: コリントの信徒への手紙一 第15章20節〜22節

 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

旧約聖書: 創世記 第3章17〜19節

 松本東教会の礼拝の中で、私たちは何度か祈りをしています。先ほど私がいたしました祈祷もそうです。礼拝に招かれたことの感謝や、罪の悔い改めの祈り、また私たちの隣人に対する執り成しの祈りをいたしました。また、この説教の後でも祈りをいたします。神の言葉をいただいた、そのメッセージに応えて、祈りをいたします。そして、そののち献金をいたしますが、その後にも祈りをいたします。

 松本東教会では献金感謝の祈りが定められています。多くの教会では、もちろん献金の感謝ことを祈るわけですが、比較的自由に言葉を紡ぎだして祈りをしています。しかしこの教会では、短い祈りの言葉を読み上げて、祈りを献げることにしています。自由に祈ってよいと言われても、どんな言葉で祈ればよいのか困る。また自由に祈った場合に、ついつい祈りが長くなって、余計なことも祈ってしまう場合もある。そんなことから、この祈りの言葉が定められたと伺っております。

 献金感謝には、やはり献金感謝にふさわしい祈りがあるのです。短い言葉でありますが、とてもよい祈りであると私は思っています。他の教会の牧師も、この祈りの言葉にとても感銘を受けたと言われている方もいます。

 このあともこの献金感謝の祈りがなされるわけですけれども、このような言葉で祈ることになります。「主イエス・キリストの父なる神さま。わたしたちは生きるときも死ぬときも、体も魂もすべてあなたのものです。その恵みに感謝して、いま献身のしるしとして献金をおささげいたします。どうぞわたしたちのすべてをきよめて受けいれ、みこころのままにお用いください。わたしたちはあなたのものです。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン」。この祈りの言葉は、私の前任者であります川﨑先生が作られました。きちんと確認したわけではありませんが、川﨑先生がゼロからこの祈りの言葉を考え出したのではありません。この祈りには由来があるのです。

 それがハイデルベルク信仰問答であります。信仰問答とは、問いと答えからなる信仰の言葉を集めたものです。私たちがどんな信仰に生かされているのかを、まとめたものと言ってよいでしょう。宗教改革の時代に、プロテスタント教会は自分たちの信仰をまとめなければなりませんでした。そしてその信仰を自分たちの教会の中で伝えていかなければなりませんでした。そのようにして作成されたのが、ハイデルベルク信仰問答になります。

 この問答の中に、私たちの信仰が表明され、私たちが何を信じているのかが伝えられていくわけであります。問いと答えからなると申し上げましたが、ハイデルベルク信仰問答は問一から始まり、問一二九まであります。問一がこの信仰問答全体の性格を表していることは言うまでもありません。問一とその答えはこのような言葉であります。

 問一 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
答え わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです。

 この問一の答えをお聴きになって、どうお感じになられたでしょうか。私たちの献金感謝の祈りに言葉が似ているところがあったと思います。私たちは生きるときも死ぬときも、体も魂も、私たちの救い主、主イエス・キリストのものであります。

 なぜこのように、ハイデルベルク信仰問答の問一も、私たちの献金感謝の祈りも、「生きるときも死ぬときも」と言い切ることができるのでしょうか。それはもちろん、私たちが復活を信じているからです。私たちの救い主、主イエス・キリストの復活、それから私たち自身の復活、これらの復活を信じているからであります。

 これら二つの復活と言いましても、それぞれが独立しているわけではありません。一方を信じるけれども、他方は信じないということにはならないのです。しかしコリント教会の人々の中には、一方を信じるけれども、他方を信じないという考えに陥っていた人がいたようです。キリストの復活は信じているけれども、私たちの復活、つまり死者の復活は信じない、と考えていた人がいたようです。

 「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。」(Ⅰコリント一五・一二)。このコリントの信徒への手紙を記しました使徒パウロは、このようにコリント教会の人々に書き記しています。キリストは復活したということは宣べ伝えられていて、それを疑うわけではないけれども、自分たちの復活となると、そんな復活などないと考えるのであります。

 使徒パウロはこれらの人々に対して、「初穂」という言葉を使います。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(二〇節)。初穂とは最初の実りのことです。そろそろ実がなるという時期になりますと、今か今かとその最初の実りを待つわけです。そしてある朝に最初の実りを見つけます。ああ、初穂がなった。そうしますと、そのあとに続々と実りが続きます。初穂とはそういうものです。

 その後に続々と続いていく、その印であると言ってもよいでしょう。パウロはこのように、キリストの復活が初穂であり、そのあとに続々と私たちの復活が続いて行くと言うのです。つまり、キリストの復活と私たちの復活に連続性があり、キリストが第一の者、そしてそれ以降に続くのが私たちであると、パウロは言うのであります。

 おや、と思われる方もおられるかもしれません。キリストが復活の初穂、第一の者であると言ったときに、キリストの復活よりも前に、死者の復活が起こっているではないかとお考えになる方もおられるかもしれません。そう思われた方は鋭いと私は思います。たしかに福音書の中には、死者の復活の話もあります。キリストが来られるよりもはるか前の旧約聖書の中にも、死者の復活の話があります。それなのになぜ、キリストが復活の初穂と言えるのでしょうか。

 これはクイズでの話でありますが、昔、こんなクイズがありました。歴史上の人物、誰でもよいのですが、その人物が死なずに、今まで生きていたらどうなりますか?私はこのクイズに対して、歴史が変わると答えたのですが、これはたかだかクイズでありました。その答えは、人口が一人増える、ということでありました。

 なんだ、と思うようなことでありますけれども、聖書の中に記されているキリスト以外の復活を考えるときに、助けになるのではないかと思います。キリスト以外の復活させられた者は、今なお生きているでしょうか?人口が一人増えているでしょうか?そんなことはないのです。キリスト以外の復活させられた者は、やがてまた死んでしまいました。二度目の死を迎えたのであります。その者たちは、今は、死者となっているのであります。

 それではキリストはどうなのかと言いますと、キリストはまことに復活されました。死者の中から復活をした。そして今なお生きておられます。天におられ、生きて働かれ、私たちを導いていてくださいます。ですからこの意味で、キリストは復活の初穂であるのです。最初の実りです。あとの者が、その後に続々と続こうとしている、今がまさにその状態です。

 したがいまして、私たちが希望にしている復活は、あくまでもキリストの復活であります。復活したのちに、再び死んでしまうような復活を希望にしているわけではないのです。まことに復活されたキリストの復活こそを希望にしているのであり、それが私たちの復活の初穂であるのです。

 私が子どもの頃から不思議だったことがあります。それはキリストが復活されたイースターのことです。イースターでは主イエスが復活されたことをお祝いします。イースターおめでとう、教会の人々は互いに挨拶を交わして喜びあっています。復活したことはたしかに嬉しいことではあるかもしれませんが、なぜ、他人のことなのに、みんながこんなに喜んでいるのかと、不思議に思っておりました。しかしキリストが私たちの復活の初穂であると聞いたときに、その喜びが分かりました。キリストの復活が私たちの復活と無関係なものではないのだということ、それも私たちの復活の最初の実りだからであります。

 コリントの教会の中には、キリストが復活の初穂であることをわきまえずに、死者の復活などないと言っていた人がいました。もしかしたら、その者たちは死者の復活があると言うのなら、復活の証拠を見せて欲しいと言っていたかもしれません。復活を信じている私たちも、ときにはそのようなことを言われるかもしれません。証拠を見せろ、その証拠があれば信じてやろう、と言われるかもしれないのです。

 しかし、初穂が成っており、次の実りを待っている状態にある私たちにとって、証拠はキリストしかないのであります。初穂以降の実りを待っている状況ですので、最初の実りであるキリストを見てくださいと言いようがありません。教会はそのことをしっかりとわきまえて、「キリストは甦られた」ということを絶えず宣べ伝えてきました。

 コリントの信徒への手紙の第一五章はその様子がところどころに記されています。まずは一節のところです。「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。」(一節)。さらに続く二節でもこう記されています。「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。」(二節)。

 そして実際のキリストの復活の証言が、パウロによってなされるわけです。キリストが三日目に復活したこと、十二人に現れ、その後、五百人以上もの前に同時に現れたこと、そしてついにはパウロ自身のところにも現れたことが言われます。五百人以上にも現れたとパウロは言いますが、「大部分は今なお生き残っています。」(六節)とパウロは言います。

 なぜそんなことをパウロが言うのかと言いますと、生きている者たちのところへ行って来なさい、そうすれば、「キリストが甦られた」という証言を聴くことができるからであります。ここでも言葉なのであります。そして一一節に至る。「とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。」(一一節)。キリストの復活を、徹頭徹尾、言葉によって宣べ伝えられたということが強調されているのであります。

 このことは、今日の私たちも変わるところはありません。教会というところは「キリストが甦られた」ということを何よりも大切にしています。今でもそのことを言葉でもって証言しています。この説教でも、キリストが甦られたことを宣言します。私たちの救い主、主イエス・キリストは復活の初穂として甦られた、と。

 本日は逝去者記念礼拝として、私たちは礼拝を献げております。すでに地上での歩みを終えて、逝去された方々を覚えての礼拝であります。このあと、私たちは教会の墓地に場所を移して、墓前礼拝を行います。教会墓地への埋葬、納骨も行います。もちろんのこと、私たちは逝去された方々を特別な位置において、祀ったり拝んだりするわけではありません。あくまでも、初穂として復活された主イエスを拝む礼拝なのであります。

 そのことをしっかりとわきまえながら、私たちの周りにおられる、たくさんの逝去者を覚えます。自分の家族の中にも、親しい教会の仲間にも、そのほかのところにも、私たちの周りには多くの逝去者がおられます。それが私たちの現実であります。しかし、ハイデルベルク信仰問答が言いますように、生きるにも死ぬにも、ただ一つの慰めは、私が私自身のものではなく、体も魂も、真実な救い主、主イエス・キリストのものであるということです。復活の初穂なるキリストのものであるということです。

 私たちの周りの逝去者も、そしてこの私自身も、キリストに続く復活の実りなのであります。その実りを、私たちは信じて待っているわけです。

 キリストは死に打ち勝ってくださいました。死の根っこには、アダム以来の私たち人間の罪があります。キリストはその罪をも打ち破ってくださったのです。「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(二二節)、聖書はそのように私たちに告げます。キリストの復活には、そのような重大なことも含まれているのです。私たちにとっての福音、よき知らせのすべてが、「キリストは甦られた」という言葉の中に詰まっているのであります。