松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2011年1月2日(日)
説教題「生ける神への祈り」

説教者 本城仰太 伝道師 

新約聖書: コリントの信徒への手紙一 第10章1節〜14節

 兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。

旧約聖書: 出エジプト記 第32章1〜6節








レニングラード エルミタージュ美術館蔵(ロシア)
金の子牛の崇拝(The Adoration of the Golden Calf)/ニコラ・プッサン(Nicolas Poussin)

金の子牛の崇拝(The Adoration of the Golden Calf)/ニコラ・プッサン(Nicolas Poussin)
ナショナル・ギャラリー 蔵(National Gallery)
(ロンドン/イギリス)

上記をクリックすると作品のある「wikimedia 」のページにリンクします。

主の年二〇一一年、明けましておめでとうございます。新たに始まりましたこの年、皆さまの祝福をお祈りいたします。

「主の年」という表現を用いました。歴史でよく用いられる表記にA.D.というものやB.C.というものがあります。B.C.は英語でありまして、”Before Christ”、キリスト以前という意味です。それに対してA.D.はラテン語で、”Anno Domini”、日本語にすると「主の年」という意味になります。

クリスマスのときに主イエス・キリストが地上に来られ、私たちはクリスマスのときにそのことを覚えたわけですけれども、このときを境に歴史が区切られました。キリスト以前の時代と、キリスト以後の時代に分けられたのであります。歴史が区切られるくらい、まったく新しいことが始まった。私たちは新しい時代に属しているのです。

新しい時代になってから、二〇一一年が経過しました。主の年二〇一一年の最初の日曜日にあたって、私たちは何も特別なことをする必要はありません。いつもの日曜日と同じく、生ける神としっかり向き合って礼拝をしたいと思います。もちろん元旦礼拝や新年祈祷会をする教会はありますが、それもいつもの礼拝や祈祷会とまったく違うものになってしまうわけではありません。

教会の外に目を向けるならば、一年の最初の時期は日本中、祈る人であふれ返ります。たしかに一年の最初のときは、何もかも新しくなった気分がいたします。昨年のことは忘れて、今年はいい年になるようにと誰もが思います。多くの日本人はそう思って祈りをしているのでしょう。そのこと自体をここで評価したり、否定したりするつもりはありません。

しかし教会は一年の最初だからといって、特別に祈らなければならないわけではありません。むしろ教会に集う人たちは一年中祈りをいたします。教会の礼拝でなされる祈りもありますし、個々人の祈りもあるでしょう。週の半ばには祈りの会をもっています。祈るために、毎週数名の者が集まります。

先週の火曜日には歳末祈祷会を行いました。二〇一〇年が終わるにあたって、神が注いでくださった恵みを覚えて祈りを献げることができました。一年の最初であろうが、その間であろうが、一年の最後であろうが、私たちは祈り続けているのであります。

どうして私たちは絶えず祈り続けているのでしょうか。それは神が生ける神であるからです。神が生きて働いておられ、私たちに恵みを注いでくださいます。神が休むことなく働いておられるのに、私たちが一年に一度の祈りでよいわけはありません。私たちも絶えず神と向き合って、絶えず祈らなければならないでしょう。私たちにとって重要になのは、生ける神と向き合って歩むことであります。

本日、私たちに与えられました新約聖書の箇所も、生ける神としっかり向き合おうということが書かれています。この箇所にはいろいろなことが書かれているかもしれません。偶像のことも書かれています。偶像に寄り頼んで、その結果、倒れてしまった人たちのことも書かれています。しかし偶像ではなくて、生ける神に寄り頼もうというのが、この箇所から聴きとることのできる明確なメッセージです。

この箇所の前半部分は少し解説が必要かもしれません。たくさんの「前例」(六、一一節)が書かれています。どのような前例なのか、すべてを説明する暇はありませんが、その前例の一つが、本日合わせてお読みした旧約聖書の出エジプト記の箇所であります。

イスラエルの民はエジプトの地で奴隷生活を送っておりました。しかしあるとき、モーセという指導者に導かれて、エジプトを脱出し、自分たちの故郷を目指して旅をしました。その旅の途中の出来事が、本日の旧約聖書の箇所であります。

このときシナイ山という山のふもとにイスラエルの人たちは来ておりました。リーダーのモーセはシナイ山に一人で登っています。そこで神さまにお会いしているのです。しかしモーセがなかなか降りて来ない。人々は不安になります。

その不安を払拭するためにでしょうか、金の子牛が造られます。「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」(出エジプト三二・四)、と言って、この金の子牛を拝んでしまいます。その拝み方も、飲んで食べての大騒ぎでありました。このようにして、生ける神を礼拝するのではなく、偶像礼拝が行われたわけです。

この出来事が、本日与えられた新約聖書の箇所に短く触れられています。「彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。」(七節)。この七節に始まり、次の八節でも「彼らの中のある者がしたように…」と始まります。これは九節も同じで、一〇節も「彼らの中には不平を言う者がいたが」と少し表現は違いますが、言っていることは同じであります。つまり、七節から一〇節まで、悪い前例が四つも立て続けに言われているのです。

聖書を読んでいますと、悪いことにたくさん直面をいたします。こんな悪いことをした人がいた、あんな悪い出来事があった、たくさんの悪い前例が出てきます。どうしてこのようなことが記されるのでしょうか。躓いてしまう人も多いと思います。自分にとってためになることを聖書から捜そうと思い、手にとって読んだのに、こんなひどいことが書いてあるなんて。そう思われる方も多いでしょう。

聖書を読んでいると、人間がいかに罪深いかがよく分かります。罪人に出会いたいのであれば、聖書を読んでごらんなさいと言うのが一番手っ取り早いかもしれません。そして多くの人は聖書の中に自分の姿を発見します。ああ、この悪いことをしている人は自分のことではないかと思わされる。そういうことも聖書を読んでいると起こります。

しかしそれだけではない。そんな罪人が赦されるということが記されている。これこそが聖書の最大のメッセージです。たしかに私たち人間の罪をごまかすことを聖書はしません。

本日の聖書の言葉、一二節に「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」という言葉がありますが、この言葉を借りて言えば、倒れてしまった人たちがたくさんいる。その倒れてしまった人たちのことを聖書は直視する。私たちの姿もそこに重ね合わせる。しかしそれ以上に、そんな罪人の私たち人間が赦された、私たちも赦された、これこそが聖書の最大のメッセージなのであります。

そのようなメッセージが一三節によく表れています。この言葉は、有名な言葉でしょう。愛唱されている方も多いと思います。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(一三節)。

何気なくテレビをつけておりましたら、「神は耐えられない試練は与えない」というような言葉を耳にしたことがありました。一回だけではなく、何回も耳にしました。もちろん、この聖書の箇所から引用したのでしょう。

私たちは大きいものであれ、小さいものであれ、試練に遭います。現在進行形で試練に遭っている方もおられると思います。あるいは過去に大きな試練を経験された方もおられるでしょう。あるいはその正反対に、自分は人様が経験するような大きな試練にあまり遭ったことがないという方もおられるかもしれません。いずれの場合であっても結構です。大切なのは立っていることです。倒れないように気をつけることであります。

立つためには次の三つの方法があります。自分の足だけでしっかり立つこと、これが一番目です。二番目は自分の足だけでは不十分と考え、神以外の何かの支えにつかまることです。そして三番目は自分だけの足では不十分と考えることは同じですが、神という支えにつかまるという方法です。何にもつかまらないのか、神以外の支えにつかまるのか、神という支えにつかまるのか、いずれかの方法で立たなければなりません。

イスラエルの民がとってしまった方法は一番目と二番目の方法でありました。自分たちだけの力でやっていけると思ったり、金の子牛を造って拝んだりしました。聖書ではこれを偶像礼拝と言います。大きな罪です。その罪の結果でしょうか、イスラエルの民は倒れてしまいました。その悪い前例が本日の箇所にも出てまいりましたし、聖書の至るところにも記されております。

では残る三番目の方法、神という支えにつかまるしかないということになりますが、神という支えだとどうして大丈夫なのでしょうか。その答えがこの箇所の表現で言いますと「神は真実な方です。」(一三節)という表現であります。神がどうして真実な方であると言えるのか。その理由が続いて記されていることであります。「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(一三節後半)。

試練はあるかもしれない、それに直面しなければいけないこともある。しかし神は情け容赦ない方ではなく、真実な方であるので、逃れる道を備えてくださるというのであります。

罪人の私たちにとって、本来は逃れる道などはありませんでした。かつてのイスラエルの民のように、倒れるばかりの存在でありました。しかし真実な神が逃れ道を開いてくださった。聖書の別の箇所がこう告げます。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。」(Ⅱテモテ二・一三)。

この神が開いてくださった何よりの逃れ道は、イエス・キリストが私たちすべての罪を担って十字架にお架かりになり、私たちの罪を赦して下さった、その逃れ道であります。この逃れ道があれば、すべての道が塞がれていても大丈夫です。この道が開かれたことこそ、神が真実な方であることが分かる事実であります。

今日は一年で最初の日曜日であります。神がこの年の歩みを始めることを私たちに許してくださいました。神が真実なお方であることを心に刻みつつ、真実なる神と向き合って、神に祈りを献げつつ、歩んでまいりたいと思います。一年の最初のこのときはもちろん、一年の歩みの途中であろうが、一年の最後であろうが、私たちは祈り続けるのであります。

祈ることはそんなに難しいわけではありません。松本東教会の方も本当によく祈ってくださいます。お体の事情などでなかなか教会に来ることがお出来にならない方も、よく祈ってくださいます。私が電話をいたしますと、「先生、明日は○○がありますね。祈っています」と言われます。

また、祈る内容は想像力を少しだけ働かせていれば、私たちの周りにたくさんあるものです。作家の三浦綾子さんがその本の中で書いていることですが、三浦綾子さんがタクシーに乗ったときはタクシーの運転手のために心の中で祈るそうです。この運転手が事故に遭わないように、家族もいるだろうし、心配しているかもしれない、給料もそんなに高くないだろうし生活も楽ではないかもしれない、などと考えて祈るのだそうです。祈るべきことは、私たちの身近にいつでもどこでもたくさんあるものであります。

祈りは呼吸であるという話を私は聞いたことがあります。呼吸とはどういうものでしょうか。私たちが絶えずしているもの、生きていくために絶対必要なもの、いろいろなことを言えるかもしれません。これらが祈りの本質を表しています。さらに、意識しなくてもしているもの、を加えることもできます。祈りもそうであります。肩に力を入れなければできないものではないのです。生ける神と向き合っていると、「ああ、神さま」という言葉が自然と出てくるものであります。

昨年一年間がそうでありましたように、今年一年もいろいろなことが起こるでしょう。嬉しいことや楽しいことばかりではありません。悲しいことや辛いことも起ります。大きな試練も起こるかもしれません。そのようなときに、私たちのたしかな支えである生ける神さまにしっかりとつかまりたいと思います。呼吸をするように祈りをしつつ、生ける神と向かい合って歩んでまいりたいと思います。真実な神が必ず私たちのために、逃れの道を備えてくださるでしょう。