松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年11月19日(日)
説教題「感謝が溢れる教会」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第9章6~15節

つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。

旧約聖書: 詩編107:1~9

私たちの人生に感謝があるかどうか、あるいは感謝できるかどうか、それは極めて大事なことだと思います。感謝しているのか、していないのか、それは私たちの教会生活を左右するし、人生そのものを左右すると言っても過言ではないでしょう。

例えば、私たちは食事の前に、祈りをします。食前の祈りであり、食前感謝の祈りです。二人の人がいたとします。一方の人は、自分で得た収入で、自分で食材を買い、自分で料理し、当然のこととして感謝しないで食べる。しかし他方の人は、事柄としては感謝しないで食べる人と同じように、食材を買い、料理をして食べたとしても、神から与えられた糧として感謝していただく。

この二人では、同じように食べていたとしても、まるで違う食べ方ということになります。どちらの方が幸いでしょうか。感謝があるのかどうか、私たちの人生を左右するようなことなのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、コリントの信徒への手紙二の第九章の最後の箇所になります。第八章と第九章は、ひとつのまとまりを持っている箇所であり、コリント教会がエルサレム教会へ献金を送る話が記されています。

先週は別の箇所から御言葉を聴きましたが、先々週は今日の聖書箇所の前のところから御言葉を聴きました。第九章一~一〇節までです。段落の区切りでもありません。なぜここで区切ったのでしょうか。一節から一五節まで、とても一回では説教を語りきれないというのも理由ですが、なぜ一〇節までで区切ったかです。一〇節までのところにも、いろいろなことが書かれていますが、神が何をしてくださったか、ということが中心になって書かれています。そして一一節以降の箇所が、そういうことをしてくださった神に対する感謝、讃美が中心になってしるされています。

例えば、八節と一〇節のところに、神が何をしてくださったかが記されています。「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」(八節)。コリント教会をあらゆる恵みに満ちあふれさせてくださった。その豊かさの中から、献金を献げているのです。

一〇節にはこうあります。「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。」(一〇節)。これも神がしてくださったことです。種が与えられ、それが増えて、多くの実りが与えられた。神がそうしてくださったのです。

こういうことが書かれた上で、一一節以下の神への感謝、讃美へと話がつながっていきます。一一節から一五節のそれぞれの節において、すべて神への感謝、讃美のことが語られています。順に追っていきたいと思います。

「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。」(一一節)。

「なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。」(一二節)。

「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。」(一三節)。

「更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。」(一四節)。

「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。」(一五節)。

細かな解説はしません。しかしすべての節で、神への感謝や讃美が述べられています。これはとても大事なことです。エルサレム教会は献金を受けました。受けたのですから普通は何と言うでしょうか。送ってもらった人に感謝します、と言うわけです。もちろん、エルサレム教会の人たちもそうしたことでしょう。

しかし聖書にそのことは記されていません。コリント教会の皆様、あなたがたに感謝します、などとは書かれていない。そうではなく、神さま、感謝します、徹底的にそのことだけです。献金をしたコリント教会でも、他の教会でも、こういう献金をすることができ、神さま、感謝します、なのです。

私は牧師として、教会の様々な働きを担っています。そういう働きを担っていると、教会の方々から感謝されることが多くあります。しかも必要以上に感謝されることがあります。皆さまにも同じような経験があると思います。自分としては、ちょっとのことをしただけなのに、相手からやたらと感謝されてしまうことがあると思います。

私がそういう時によく言われる言葉は、「感謝です」という言葉です。あるいは「すみません」とか「申し訳ありません」などとも言われます。先生、お忙しいのに申し訳ない、ありがとうございます、感謝です。そのように言われることがあります。あまりにも言われる場合は、私はこのように申し上げるようにしています。「私への感謝はもう結構ですから、神さまに感謝してください」、と。

ちなみに牧師は、教会から謝儀をいただいています。謝儀という字も、感謝の謝の字を書きます。給与とか給料とは言いません。なぜでしょうか。給与というのは、働きに応じて支払われるものだからです。これだけ働いたのだから、その対価として給与を支払う。それが給与とか給料の考え方です。

しかし牧師の働き方はそうではありません。牧師は基本的に無償で働きます。しかし生活に困らないように、教会は牧師に謝儀を出します。どれだけ働いたのか、その働き量と謝儀の間には相関関係がありません。そのように牧師としては当たり前の働きをしているだけです。だから必要以上に人間である牧師に対しては感謝する必要はないのです。当然のことをしているだけですから。むしろ牧師としては、その感謝が神に献げられる方が、よほど喜ばしいのです。

私たちが神に対する感謝を表すことは、このように極めて大事なことです。神が私たちになしてくださったことが、たくさんあるからです。その感謝によって、私たちの人生が変わっていきます。

本日、私たちに与えられた聖書箇所で、神への感謝が表されている中で、とても大事な言葉があります。それは「キリストの福音」という言葉です。「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。」(一三節)。

何気なく「キリストの福音」という言葉が使われています。これはいったいどういう意味があるのでしょうか。この手紙を書いた使徒パウロが、自分の書いた手紙の中でしばしば使っている言葉でもあります。このコリントの信徒への手紙二の中でも、何度か出てきます。「わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが」(二・一二)。

「わたしたちは、あなたがたのところまでは行かなかったかのように、限度を超えようとしているのではありません。実際、わたしたちはキリストの福音を携えてだれよりも先にあなたがたのもとを訪れたのです。」(一〇・一四)。

使徒パウロが伝道をする際に、一番大事にしていたことが「キリストの福音」です。「トロアス」(二・一二)にいった時も、「あなたがた〔コリント〕のもとを訪れた」(一〇・一四)時も、パウロは「キリストの福音」を携えて、これを伝えたのです。福音とは「よき知らせ」です。キリストによる「よき知らせ」です。私たちを罪から救ってくださった「よき知らせ」です。パウロはあまり大荷物など持って、伝道旅行はしなかったでしょう。この「よき知らせ」だけを携えて、伝道旅行をしたのです。

このことをもう少し深めて考えてみたいと思います。私は以前、ある方から相談を受けた際に、こういうアドヴァイスをしたことがあります。様々な問題を抱えておられた方です。自分の罪、人を愛せないとか、そのような罪の問題がありました。家族や隣人との間の問題もありました。一通りそのようなお話を聞いた後で、私はその方に尋ねました。祈っていますか、と。あまり祈っていない、どう祈ったらよいのか分からないとのことでしたので、このように申し上げました。

旧約聖書の詩編、ここには一五〇の祈りが載せられていますが、詩編を毎日一編ずつでよいから、声に出して読んでください。意味や言葉が分からなくても、とにかく声に出して読んでくださいと。そして読み終わったら、短くてもよいから、自分の言葉で祈ってくださいと。その祈りの中に、必ず感謝を一つ入れて祈ってください、と申し上げました。

どんな感謝でも構わないのです。このようにお祈りをすることができ、神さま感謝です、でも構わない。今日も命があって生きることができ、神さま感謝です、でも構わない。いろいろな問題は抱えているけれども、一応、健康な体が与えられていて、神さま感謝です、でも構わない。日曜日に教会に行けたら、神さま感謝です、それでももちろん構わないわけです。

何でもよいのです。このように毎日、毎日、感謝を見出していく。実際に感謝すべきことがたくさん出てきます。それを一つ一つ見いだしていくのです。一日たった五分の時間かもしれません。しかしこのたったの五分で、私たちの人生が変わるとさえ、冗談ではなく私は確信しています。

そしてそのように感謝を見出していくと、最も深いところにある感謝を見出すことができるようになります。キリストが私たちの罪のために、十字架にお架かりになって死んでくださったこと、その感謝の心が整えられていきます。キリストによって、私たちが赦され、愛され、受け入れられていることが分かるのです。その深みにまで到達することができるのです。それが「キリストの福音」であり、「キリストの福音」が、私たちのあらゆる感謝の源なのです。

コリントの信徒への手紙二から、御言葉を聴き続けています。今日の聖書箇所をもって、一連の第八章と第九章の話を閉じることになります。コリント教会からエルサレム教会への献金の話です。献金の話がずっと書かれてきましたが、いったいどこへ落ち着いて話が閉じられるのか。神への感謝でこの話が閉じられていったのです。まことに適切なことであり、大事なことだと思います。

この後、私たちも献金をします。献金の際には祈祷をします。どの教会の礼拝にいったとしても、献金の後には必ず祈祷があると言ってもよいと思います。祈祷は祈祷でも、献金感謝の祈祷です。神さま、すべてのものが私たちに与えられて、感謝です。神さま、このように献金をすることができ、感謝です。私たちは生きるにも死ぬにも、あなたのものです、神さま感謝です。そのように感謝の祈りをするのです。

私たちの歩みは、必ず感謝で終わる歩みです。感謝で終わればすべてよし、とさえ言えます。神が私たちの人生を、そして教会を、感謝で溢れるように整えてくださるのです。