松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2017年11月5日(日)
説教題「神が与え、増やし、成長させてくださる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第9章1~10節

聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません。わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。あなたがたの熱意は多くの人々を奮い立たせたのです。わたしが兄弟たちを派遣するのは、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りが、この点で無意味なものにならないためです。また、わたしが言ったとおり用意していてもらいたいためです。そうでないと、マケドニア州の人々がわたしと共に行って、まだ用意のできていないのを見たら、あなたがたはもちろん、わたしたちも、このように確信しているだけに、恥をかくことになりかねないからです。そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました。渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。

旧約聖書: 詩編126

本日からコリントの信徒への手紙第九章に入ります。第九章は第八章の続きです。内容的に、この二つの章で同じことを扱っており、この二つの章だけで独立していると言ってもよいでしょう。最初に出てくる「聖なる者たち」というのは、エルサレム教会の人たちのことです。エルサレム教会への献金の話です。

本日、私たちに与えられた聖書箇所の前半の一節から五節には、献金について、かなり現実的なこと、具体的なことが記されています。アカイア州とマケドニア州という地名が出てきます。ざっくりと言えば、アカイア州はギリシアの南部の地域であり、コリントがアカイア州の中心地になります。マケドニア州はギリシアの北部の地域です。両教会ともエルサレム教会への献金を集め、献げていました。

第八章のところに、マケドニア州の教会が、自分たちは窮乏していたのにもかかわらず、進んで献金を集めてエルサレム教会に献げたという話が記されています。そして今日の第九章のところを読むと、実はその献金は、アカイア州の人たち、つまりコリント教会の人たちが献金を集めていた、そのことを聞いて触発されて、自分たちも献金を献げようということになった、その経緯が書かれています。

そこで、今日の聖書の箇所では、コリント教会の人たちに、マケドニア州の人たちもそのようにしたのだから、今、進行中の献金の業を最後までやり遂げるように、ということが書かれています。特に三節のところには、「無意味にならないように」という言葉があります。四節のところには、「恥をかかないように」という言葉もあります。そのために兄弟を遣わすから、その兄弟たちの手を借りて、献金の手配をきちんとするように、そのようなことが書かれているのです。

なぜこのような、献金についてのかなり現実的なことが、聖書に書かれているのでしょうか。そもそもこのコリントの信徒への手紙二は、聖書に収められるために書かれたようなものではなく、パウロ個人からコリント教会へ宛てた手紙だから、ということが言えるでしょう。しかしこういう現実的な献金の問題に触れながらも、今の教会にとっても私たちにとっても、大事なことが記されているのです。

今日の聖書箇所の前半において、誇りという言葉が二度、使われています。「わたしはあなたがたの熱意を知っているので、アカイア州では去年から準備ができていると言って、マケドニア州の人々にあなたがたのことを誇りました。」(二節)。「わたしが兄弟たちを派遣するのは、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りが、この点で無意味なものにならないためです。」(三節)。

誇り、あるいは誇るという言葉。いったい何を誇るのか、そのことが極めて重要なことになります。人間には誇りがないと駄目だ、というように言われます。けれども、変な誇りを抱いているのも駄目だと言われます。良い場合もあれば、悪い場合もあるということになります。

それではいったい何を誇るべきなのか。三つの誇るものを考えられるでしょう。まずは自分を誇る場合です。要するに自慢です。もちろん聖書はこういう誇りのことは否定しています。

二番目に考えられるのは、神を誇る。あるいはキリストを誇りにするということです。コリント教会に宛てて書かれた第一の手紙で、パウロは「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント一・三一)と書いています。これはもちろんキリスト者として良い意味での誇りです。

そして三番目、他人を誇る場合です。他人と言っても聖書の中で考えられているのは、教会の仲間を誇る、あるいは教会そのものを誇るということです。今日の聖書箇所でもそうですが、肯定的に捉えられている誇りです。

例えば、私が松本東教会のことを誇ることがあります。悪い意味の誇りではなく、良い意味での誇りです。松本東教会はとてもよい教会です。皆が御言葉に真剣に耳を傾けている。私も説教者として成長させていただいた。そのように教会を誇ることがあります。これはパウロが今日の聖書箇所で誇っている誇りと同じです。ところが、こういう誇り方ではなく、このすばらしい教会を私の力で造り上げたのです、そのような形で誇ろうとすれば、これは単なる自慢になってしまいます。

キリスト者はそういう形で誇るのではなく、あくまでもこういう教会にしてくださっている神を誇るのです。今日の一〇節までしかお読みしませんでしたけれども、続く一一節にこうあります。「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。」(一一節)。最終的には神への感謝につながっていく、そういう誇り方をすることができるのです。

献金を感謝として捉えることは、極めて大事なことでありましょう。この後、聖餐を祝い、いつものように献金をします。その際に司式者である私は「献金をいたします」と言っています。「献金をする」、「献金を献げる」、あくまでも私たちが進んで献金をするのです。決して「献金を取られる」という言い方をしませんし、献金をまるで会費か入場料のように「献金を支払う」とも言いません。私たちの自由な意志からするのです。

献金を集め終わると、係りの方が前に献金を持ってきて祈りをします。「祈祷」と書かれていますが、献金感謝の祈りです。何に感謝するのでしょうか。献金をしてくださった皆さま、感謝します、ということでは決してありません。私たちが献金することができ、神さま感謝です、という祈りをしているのです。

教会に受洗者や信仰告白者、あるいは転入会者が与えられますと、その方としばらく学びをして、その時に備えます。いろいろな学びをしますが、必ず献金の学びをします。毎年、「献金のしおり」というものを教会員の皆様にも配っていますが、その資料をもとに、学びをするのです。この「献金のしおり」には、今日の聖書箇所の一部も引用されていますし、場合によっては今日の聖書箇所を一緒に読むこともあります。

献金を献げる際の心は、どうあるべきか。すべてのものが神によって与えられているという心が大事です。八節にこうあります。「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」(八節)。その感謝の心を、献金として献げるのです。

献金の心として、とりわけ大事になるのが、五節と六節の言葉です。実はこの五節と六節の中に、聖書の元の言葉では、「祝福」という言葉が四度、用いられています。日本語訳では一回もそれが現れていません。まず五節の「贈り物」という言葉、「惜しまず差し出されたもの」という言葉、これらは実は「祝福」です。六節の「惜しまず豊か」というのも、その後の「豊か」というのも実は「祝福」なのです。

これらを「祝福」に置き換えて読むと、こうなります。「そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した『祝福』の用意をしてもらうことが必要だと思いました。渋りながらではなく、『祝福された』ものとして用意してもらうためです。つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、『祝福のうち』に蒔く人は、『祝福』も豊かなのです」。

聖書で使われている「祝福」という言葉は、幅広い意味を持つ言葉で、確かに「贈り物」というようにも訳すことはできます。だからこの翻訳は完全な間違いとは言えませんが、「祝福」という言葉なのだとわきまえておくことは大事なことです。聖書学者たちや説教者たちも皆、このことを強調しています。

つまり、献金イコール祝福ということです。この場合は、コリント教会からエルサレム教会への献金です。献金を送るということは、相手を祝福するということでもあるのです。もちろん人間が祝福するというよりも、神さまがあなたがたエルサレム教会を祝福してくださるように、その心が献金にはあるということです。私たちも同じです。

この献金の心の正反対の心が、惜しむ心です。献金なんかしたら、自分が損をするのではないか。そういう心だと、考えているのは自分のことばかりです。相手への祝福などは何も考えていないことになります。

この「祝福」という言葉が出てくる五節と六節に、七節が続きます。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(七節)。

特に私たちにとって大事なのが、「こうしようと心に決めたとおりにしなさい」という言葉でしょう。なぜなら、私たちは人からどう思われるか、とても気になるからです。献金一つとってもそうです。あの人はいったいどのくらい献金しているのだろうか、平均の献金額はいくらなのだろうか、そういうことを気にし始めたら、きりがなくなります。あるいは、さあ献げよう、そう心に思っても、すぐに自分の損得に捕らわれてしまうこともあります。

そういう私たちにとって、「自分の心に決めた通りにしなさい」です。すべてを神からいただき、感謝を持って、そして祝福を願って献げるのです。その心の通りに、ぶれることなく献げるのです。

主イエスは山上の説教において、「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイ六・三)と言われました。この言葉は、「施しをするときは」(六・三)という状況下での言葉です。施しイコール献金と考えることも許されるでしょう。右手で献金をしようとしている。その同じ人の左手にさえ、献金をしていることを知らせるな。つまり、自分自身の中で決して自分のしている行為を誇ってはならない、ということです。かえって人目のつかないところで行いなさい、と主イエスは言われます。隠れたところにおられる天の父なる神がご覧になっておられるから、必ず報いてくださるから、と言われるのです。

だからこそ、「自分の心に決めたとおりにしなさい」なのです。「喜んで与える人を神は愛してくださるからです」と続く通りです。

九節の鍵括弧が付けられた箇所は、旧約聖書の詩編第一一二編九節からの引用です。似たような言葉が、旧約聖書にいくつかあります。例えば、箴言第一一章二四節にこうあります。「散らしてなお、加えられる人もあり、締めすぎて欠乏する者もある」。かつての口語訳の方が、分かりやすいかもしれません。「施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある」。

一方では、施しなどで自分の持っている物を散らしたにもかかわらず、富を増やしている人がいる。しかし他方では、本来ならば与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなっている者がいる、ということです。

なぜそのような矛盾とも言えるようなことが起こるのでしょうか。それは、神の力を信じるかどうかに、かかっているからです。一〇節にこうあります。「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。」(一〇節)。

献金は神に献げられるものです。その神が、私たちに種を与えてくださいます。ここでの種は単数形です。一粒の種です。しかしわずか一粒の種でも、これを増やしてくださいます。実を結ぶまで成長させてくださいます。ここでの実は複数形です。一粒の種だったかもしれませんが、多くの実を結ぶ結果になるのです。

これが神の祝福です。教会はこの祝福を信じている者の集いです。そして祝福が溢れるところです。私たちの教会がこれからも祝福の溢れる歩みをなすことができますように。