松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年10月8日(日)
説教題「貧しきキリスト、富める人間」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第8章8~9節

わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。

旧約聖書: イザヤ書53:1~12

本日、私たちに与えられた聖書箇所に、「愛の純粋さ」という言葉があります。八節のところです。「わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。」(八節)。ここでの「愛の純粋さ」というのは、真実な愛ということです。真実の愛、純粋な愛とは、一体どのような愛なのでしょうか。

コリントの信徒への手紙二の第八章には、献金のことが記されています。先週、私たちに与えられた聖書箇所は、第八章の一節から七節まででした。先週の聖書箇所を振り返りますと、マケドニアの諸教会からエルサレム教会へ献金がなされた話が記されていました。コリント教会でも献金が集められ、エルサレム教会へ献金が送られようとしている状況でした。この手紙を書いたパウロは、それを最後までやり遂げなさいと勧めます。この献金をなすという行為が、純粋な愛であるかどうか、そこが問われているということになります。

これはコリント教会だけの話では済みません。私たちの問題でもあります。献金ももちろんそうですが、それ以外の自分たちの業が問われているのです。その業が愛のわざになっているかどうか。純粋な愛なのか。私たちはなかなかそうは思えません。愛のわざを行っているようであっても、結局、自分の利益も含めてやっているのではないか。徹底的に自分を献げ尽していないのではないか。偽りがどうしても入り込んでいるのではないか。純粋な愛とは言えない状況を、どうしても認めざるを得ないかもしれません。

そんな私たちに対して、今日の聖書箇所は、純粋な愛とはどのような愛か。そしてその純粋な愛に生きるためにはどうすればよいか、そのことを教えてくれるのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、八節と九節から成る短い箇所です。松本東教会では、最近、コリントの信徒への手紙二から御言葉を連続して聴き続けています。連続して聴き続ける際に、重要となってくるのは、どこで区切るかということです。たいていは段落ごとに区切ればだいたいの場合においてよいのですが、段落の途中でも、どうしても立ち止まらざるを得ないところもあります。今日の箇所などまさにそうで、九節までで立ち止まって、じっくり御言葉を味わいたいと思います。たくさんの宝がここにあるからです。

「愛の純粋さ」という八節の言葉に続き、九節があります。九節の真ん中あたりに「すなわち」という言葉があります。実は九節の冒頭にも、理由を表す言葉「なぜなら」という言葉があります。つまり、八節から九節にかけて、文章の意味としては切れることなく、ずっとつながっているのです。

「愛の純粋さ」という言葉に始まり、それではその愛はどこから来るのか。九節前半の「主イエス・キリストの恵み」から来るのであり、その恵みとは「すなわち」主イエスが私たちのために貧しくなってくださって、その代わりに私たちが豊かになることができたから。そういう文脈としてつながっていくのです。

つまり、私たちの愛が純粋なのか、本物なのかどうか、それはキリストの恵みから出てきているのか、キリストが貧しくなられた代わりに私たちが豊かにされた、そこから出てきているのかどうか、そのことによって分かってくるのです。純粋な愛とは神から出たものであり、純粋ではない愛とは神から出ていないということになります。

そこで、次に考えなければならないのは、ここでの貧しさ、あるいは豊かさについてです。人間同士が比較しての単純なこの世の貧しさ、豊かさではないことは明らかです。それではどのようなことなのでしょうか。

先ほど、讃美歌一二一番を歌いました。この讃美歌は日本人によって作られた讃美歌です。主イエスのご生涯のことが歌われている讃美歌ですが、讃美歌の歌詞に、貧しいという言葉が出てきます。一番のところです。「まぶねのなかに、うぶごえあげ、木工(たくみ)の家に人となりて、貧しきうれい、生くるなやみ、つぶさになめし、この人を見よ」。

主イエスの境遇が貧しかったのかとも思えますが、「生くるなやみ、つぶさになめし」という言葉もあります。人間として生きるあらゆる悩みを味わってくださった、ということです。二番ではこう歌います。「食するひまも、うちわすれて、しいたげられし、ひとをたずね、友なきものの、友となりて、こころくだきし、この人を見よ」。

さらには三番ではこうです。「すべてのものを、あたえしすえ、死のほかなにも、むくいられで、十字架のうえに、あげられつつ、敵をゆるしし、この人を見よ」。ここには十字架も出てきます。何もかも与え尽くして、十字架の死を死んでくださったキリストのお姿が歌われています。

この讃美歌の歌詞を手掛かりにして考えていますが、この歌詞全体に表れているように、キリストは与え尽くしてくださった。豊かに持っていたものもすべて与え尽くしてくださった。そういう貧しさのことが語られているのです。

今日の聖書箇所と大いに関連があると、どの新約聖書学者たちも口を揃えて言いますのが、フィリピの信徒への手紙第二章に記されている「キリスト賛歌」です。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ二・六~一一)。

二千年前の教会の讃美歌だったのではないか、と言われている言葉です。二千年前の教会の人たちは、どんな思いでこの讃美歌を歌っていたのでしょうか。キリストは神であった。神として、豊かなものをたくさんお持ちだったでしょう。しかしキリストは神と等しい者であることに固執せず、人となってくださった。「自分を無にして」とあります。与え尽くしてくださったのです。自分の豊かさを与え尽くしてくださったのです。

この貧しくなられ、与え尽くしてくださったキリストによって、私たちは豊かになったのです。パウロが今日の聖書箇所で書いていることです。パウロはそのことを詳しくここで説明はしていません。その事実を言っているのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書イザヤ書第五三章にも、同じことが表されています。「主の僕」なる人が出てきます。この人は、多くの人の罪を背負い、死んで命を取られたことが記されています。しかしそのことによって、多くの人の罪が赦される結果になったというのです。イエス・キリストがお生まれになる数百年も前に書かれた言葉です。

イザヤ書第五三章の終わりにこうあります。「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」(イザヤ五三・一一~一二)。

罪を赦していただける、それは何と大きな恵みでしょうか。キリストが貧しくなられることによって、徹底的に私たちに与え尽くしてくださったことによって、私たちは罪の赦しの宝をいただいたのです。これが「主イエス・キリストの恵み」(八節)です。本来ならば私たちが貧しかったのです。キリストが豊かだったのです。でも、その逆にしていただいたのです。

同じ話を少し別角度からお話ししたいと思いますが、先週、教会に来られたことのない方と、お話をする機会がありました。キリスト教教育について伺いたいという問い合わせがあり、電話ではじっくりとお話しすることができないので、教会に来ていただいてお話をしました。キリスト教教育のみならず、聖書のこと、神のこと、イエス・キリストのこと、人間のこと、罪のこと、信仰のこと、いろいろな話しをしました。

そのお話しの中で、私が特に強調して申し上げたことがあります。キリスト教教育の大きな特徴は何か。どんなところに表れるか。それは、教育者が子ども肯定することだ、否定することではなく肯定することだと申し上げました。

なぜなら、神が人間を肯定してくださることが根本にある。自分では自分のことを嫌になって否定したり、他人からも否定されるようなことがあるかもしれない。そんな私たちだが、神が私たちを肯定してくださる。罪を赦し、私たちの存在そのものを肯定してくださる。神がそのように私たちを受け入れてくださる。その土台のもと、キリスト教教育においても子どもを肯定することが基本になると申し上げました。

本来ならば、私たちは貧しかったのです。否定されるべきところがたくさんあったのです。しかし、キリストが貧しくなられてまで、本当ならば貧しかった私たちを豊かにしてくださった、これも神が私たちを肯定してくださったことです。このように「主イエス・キリストの恵み」を知り、「愛の純粋さ」が生まれてくるのです。

今日の聖書箇所の中で、パウロがコリント教会の愛の貧しさを嘆いているというわけではありません。献金がいまだ道半ばのコリント教会であったかもしれません。しかしパウロは言うのです。あなたがたの慈善の業である献金は、キリストの恵みから出ているはずではないか。コリント教会の人たちも忘れかけていたことかもしれません。しかしそのことに気付いてもらうために、パウロはこの手紙を書いているのです。コリント教会のこの献金の業も、純粋な愛であるのです。

私たちにとっても、このことは大事なことです。自分の愛が純粋な愛かどうか、そのことであれこれ悩む私たちかもしれません。しかしそのことであれこれ悩むよりも、キリストの恵みをすでにいただいていることを思い起こす、そのことに気付くことの方がはるかに大事です。神からすべてをいただき、神にすべてをお返ししている。私たちに出入りするものすべてが、神からいただき、神にお返しをしているものなのです。そのことに気付かされたとき、私たちの人生がどれほど豊かになるでしょうか。

先週の木曜日、オリーブの会が行われました。聖書や信仰の初歩的なことを学ぶことができる、とても楽しい会です。皆で話をしている時に、種蒔きの譬えの話になりました。種を蒔く。良い土地に落ちた実は三十倍、六十倍、百倍もの実を結ぶ、そういう譬え話です。

この譬え話で語られている実りとは一体何か、そのような疑問が出ました。聖書の中には、案外、実りの話が多いものです。例えば主イエスがヨハネによる福音書第一五章でお語りになったように、父なる神が農夫で、主イエスがぶどうの木であり、私たちがその枝で、主イエスにつながっているならば、豊かな実を結ぶと言われています。

これらの実りとは何でしょうか。誰がその実りを楽しむのでしょうか。ぶどうの木の譬えでは、父なる神が農夫ですから、その実りは父なる神に献げられるのでしょう。種蒔きの譬えも、その後のところを読んでいきますと、収穫の刈り入れがあることが記されています。その実りが神に献げられていきます。

自分で自分だけの実りを楽しむのではなく、神から種をいただき、その実りを神に献げていくのです。私たちに出入りするものは、すべて神からいただいたものであり、すべて神にお返しするものです。そのように生きる生き方が、神に造られた者として、キリストの豊かさをいただいた者として、最も幸いで、最も豊かな生き方になるのです。