松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2017年10月22日(日)
説教題「教会の同労者」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第8章16~24節

あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱かせてくださった神に感謝します。彼はわたしたちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです。わたしたちは一人の兄弟を同伴させます。福音のことで至るところの教会で評判の高い人です。そればかりではありません。彼はわたしたちの同伴者として諸教会から任命されたのです。それは、主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すようにわたしたちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした。わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています。彼らにもう一人わたしたちの兄弟を同伴させます。この人が熱心であることは、わたしたちがいろいろな機会にしばしば実際に認めたところです。今、彼はあなたがたに厚い信頼を寄せ、ますます熱心になっています。テトスについて言えば、彼はわたしの同志であり、あなたがたのために協力する者です。これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています。だから、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せてください。

旧約聖書: 出エジプト記4:10~17

まずは皆さまにこのような問いを考えていただきたいと思います。私たちは今、礼拝をしています。教会は二千年にわたって、このように集まって礼拝をしてきたわけですが、礼拝をするために何が必要でしょうか。もちろんあれこれと必要になることを挙げていったらきりがないかもしれませんが、最低限必要なものを考えてみていただきたいと思います。

こういう問いに答えを出すことは、案外、大事なことになるかもしれません。いろいろなものを削ぎ落としていく。最後まで残されるものがあるわけです。それが最も大事なものということになる。この問いは、何が最も大事なのか、そのことが分かってくるのです。

考えていく際に、例えば、教会の建物が必要かということを考えていくわけです。もちろん、建物も必要と言えば必要でしょう。天気がよく、気候も良いときならば外でも礼拝ができるかもしれませんが、今日みたいな台風の時には建物も必要でしょう。しかし二千年前の教会は、教会としての建物を持っていませんでしたし、私たちの教会でも古い時代は会堂を持ったことがありませんでした。極端な話、建物がなくても礼拝はできます。

印刷機が故障してしまった。週報を印刷することができない。そうなった場合はどうでしょうか。手元に週報があるのが、今の私たちにとっては当たり前になっているかもしれませんが、讃美歌の番号や聖書箇所をその場で司式者が言えば、事足りるでしょう。週報がなくても、礼拝はできます。

最近、新しいオルガンが私たちの教会に与えられましたが、もしもオルガンが壊れてしまった。ヒムプレイヤーというものもありますが、これも壊れてしまった。そうなってしまったら、どうでしょうか。上手に讃美歌を歌えなくなるかもしれませんが、アカペラで讃美をすることはできます。

その他にも、マイクがない、椅子がない、停電になってしまったなど、いろいろな悪条件を考えることができますけれども、最終的に残ったものはいったい何になるのか。それは人です。私たちのプロテスタント教会では説教を重んじますから、説教を語る人が必要です。カトリック教会ではミサを、聖餐式を大事にしますから、聖餐式を行う人が必要ということになるでしょう。しかし私たちにとっては、説教者です。説教者がたった一人で、誰も来ていない礼拝堂で説教を語る。それだけでも礼拝が成り立ちますけれども、説教が語られ、説教が聴かれる、それがすべてが削ぎ落とされた最小単位の礼拝となります。

教会は何よりもこの人が大事なのです。人さえいれば礼拝ができるのです。実際に二千年前の最初期の教会は、使徒と呼ばれる人たち、主イエスによって遣わされた人たちによって、礼拝が始められていきました。今申し上げてきたような、様々な困難があったのです。私たちが当たり前のように読んでいるこの新約聖書もなければ、教会の礼拝堂もない、讃美歌集もない、オルガンもない。しかしそのような中、人が集まって礼拝をしてきたのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所には、献金のことが語られていますが、その献金をめぐる人のことが中心になって語られています。私たちが御言葉を聴き続けているコリントの信徒への手紙二の第八章では、コリント教会からエルサレム教会への献金の話が記されています。コリント教会ですでにこの献金の働きが始められていました。始めたからには最後までやり遂げるように、この手紙を書いた使徒パウロはそう書いていくのです。

今日の聖書箇所に、この献金をめぐって、テトスという人物と、二人の無名の人たちが出てきます。テトスのことは、このコリントの信徒への手紙二で、すでに何度も出てきている人物です。パウロとコリント教会との間の関係がぎくしゃくしていました。そこでパウロはテトスをコリント教会へ遣わします。そしてテトスの働きによって、良好な関係を取り戻すことができた。そのための要となった人物です。この献金にも深くかかわっていました。

そして無名の人たちのことですが、まずそのうちの一人が、一八~一九節のところで触れられています。「わたしたちは一人の兄弟を同伴させます。福音のことで至るところの教会で評判の高い人です。そればかりではありません。彼はわたしたちの同伴者として諸教会から任命されたのです。それは、主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すようにわたしたちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした。」(一八~一九節)。

ここで強調されていることは、この人が評判高い人だということだけではなく、諸教会から任命されたということです。聖書学者によっては、会計の役割を担っていたのではないかとも考えられています。真偽は分かりませんが、いずれにしても、コリント教会とエルサレム教会の二つの教会だけの話ではなく、この献金が広がりをみせていたということです。

もう一人の無名の人は、二二節のところに記されています。「彼らにもう一人わたしたちの兄弟を同伴させます。この人が熱心であることは、わたしたちがいろいろな機会にしばしば実際に認めたところです。今、彼はあなたがたに厚い信頼を寄せ、ますます熱心になっています。」(二二節)。

パウロたちがこの人のことを公認していたことが記されています。最初の人のように、諸教会から任命されたとは二二節には書かれていませんが、続く二三節を見ると「彼らは諸教会の使者」と書かれていますので、この人もまた諸教会から任命されていたことが分かります。

この無名の二人がいったい誰なのか。聖書学者の間では様々な推測もありますが、パウロが名前を挙げて書いていない以上、詮索しても無意味だと思います。それよりも強調して書かれているのが、この三人の間で、いや、パウロたちやコリント教会の間で、皆の思いが一致していたということです。

今日の聖書箇所では、「同伴」という言葉が何度か出てきます。まずは一八節です。「わたしたちは一人の兄弟を同伴させます。福音のことで至るところの教会で評判の高い人です。」(一八節)。続く一九節には「同伴者」という言葉が出てきます。「そればかりではありません。彼はわたしたちの同伴者として諸教会から任命されたのです。それは、主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すようにわたしたちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした。」(一九節)。

この一八~一九節では、最初の無名な人のことを言っているわけですが、二二節ではもう一人の無名な人のことを「同伴させます」と言っています。「彼らにもう一人わたしたちの兄弟を同伴させます。この人が熱心であることは、わたしたちがいろいろな機会にしばしば実際に認めたところです。今、彼はあなたがたに厚い信頼を寄せ、ますます熱心になっています。」(二二節)。

この二人は、テトスの単なる同伴者ではありません。二三節に同伴者と非常に似ている二つの言葉が出てきます。「テトスについて言えば、彼はわたしの同志であり、あなたがたのために協力する者です。これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています。」(二三節)。

「同志」というのは、共にするという意味のある言葉です。志を共にするという意味合いで日本語訳がなされています。「協力する者」というのは、同じ業を行うという意味のある言葉です。今日の説教の説教題にあるように「同労者」と訳してもよいでしょう。

「同伴者」、「同志」、「協力する者」。今日の聖書箇所にはそのような言葉が使われていることになります。パウロがまずテトスのことをそのように言う。自分と同じ心を持ち、自分と同じ働きをなしている。そして無名の二人の人物にもそれが広がっていき、コリント教会の人たちもパウロたちに加わっていく。そういう広がりが見られるのです。

さらに今日の聖書箇所の言葉で大事なのが「熱意」、「熱心」という言葉です。これらの言葉は、聖書の中でもいろいろな箇所で使われていますが、今日の聖書箇所の前後も含めて、このコリントの信徒への手紙二でよく用いられている言葉です。五ケ所で出てきます。

「あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱かせてくださった神に感謝します。」(一六節)。「彼はわたしたちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです。」(一七節)。「そればかりではありません。彼はわたしたちの同伴者として諸教会から任命されたのです。それは、主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すようにわたしたちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした。」(一九節)。「彼らにもう一人わたしたちの兄弟を同伴させます。この人が熱心であることは、わたしたちがいろいろな機会にしばしば実際に認めたところです。今、彼はあなたがたに厚い信頼を寄せ、ますます熱心になっています。」(二二節)。

何に対して熱心になるのか。それはおそらく私たちにとっても、とても大事なことになるでしょう。私たちの生き方にかかわってくるからです。パウロは以前、教会を迫害することに熱心になっていました。しかし今や、その熱心が変えられた。神への本物の熱意になったのです。その意味で、一九節に書かれている「主御自身の栄光」ということがとても大事でしょう。

そして、そもそも私たちが抱いている熱心の源が神であることが、一六節のところに記されています。「あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱かせてくださった神に感謝します。」(一六節)。少し回りくどい表現だが、この熱心を抱かせてくださったのは神だ、その神に感謝するということを言っているのです。そもそもの熱心の源は神なのです。

その神から与えられた同じ熱心が、広がっていく所、それが教会です。今日の聖書箇所では「同伴者」、「同志」、「協力する者」という様々な言葉によって表されています。今日の説教の説教題、「教会の同労者」と表している通りです。

私たちが教会に属している限り、決して孤独を味わうことはありません。人間が孤独だと感じる時は、どのような時でしょうか。一人ぼっちでいる時でしょうか。確かに周りに誰もいない、それはそれで孤独を感じるかもしれません。しかし一人でいる時でも、孤独を感じない時もあります。物理的に誰かが周りにいなかったとしても、自分には心を同じくする人がいると分かっている時には、孤独は感じないものです。

逆に言うと、物理的に大勢の人が周りにいたとしても、心を同じくすることができないときに、孤独を感じるものです。たとえ多くの人が物理的にそばにいても、誰一人として自分のことを理解してくれない、そういう場合はかえって孤独を感じると思います。社会に埋没しているような自分、それは孤独でしょう。

教会は決して孤独にはならない所です。人を孤独にさせない所です。今日、礼拝に集っている私たちが一つ問われていることは、教会に来ることができない方々を孤独にさせないということです。教会に普段来られない方々のところ、しばしば訪れた時に言われることがあります。あるいはお手紙などで言われることがあります。自分には祈りが欠かせない、と。かえって教会に来られない方々の方が、「熱心」に教会を覚え、祈っていてくださる、そのことを実感します。来られない方々も、「教会の同労者」であり、「祈りの同労者」であり、「信仰の同労者」なのです。教会に来ることができる私たちも、来られない方々以上に、そのことを覚え、孤独にさせないことを覚えなければなりません。

神は私たちの教会生活、信仰生活に必ず同労者を与えてくださいます。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、出エジプト記の第四章です。モーセが神からの使命を受け、エジプトでの奴隷生活からイスラエルの民を導き出すリーダーになろうとしています。モーセは抵抗します。第三章から様々な形で、神からの使命に抵抗するのです。自分が行ったところで何になるか、こんな自分に何ができるか、イスラエルの民からも信頼されないだろう、王であるファラオも説得することができないだろう。そもそも私は口下手で弁が立たないし。そういう形で断固、神に抵抗していくのです。

しかし何によってモーセの抵抗が止んだか。それが助け手のアロンという人が与えられることによってだったのです。モーセの「同労者」です。モーセに何らかの物が与えられたのではなく、与えられたのは「人」であり、「同労者」です。

モーセにアロンが与えられたように、私たちにも教会生活、信仰生活の同労者が与えられます。同じ神を信じ、同じ主イエス・キリストに救われ、同じ聖霊に導かれ、同じ教会に属している。志を同じくし、共に祈ることができる「同労者」が与えられているのです。