松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


HOME > 礼拝説教集 > 20171015

2017年10月15日(日)
説教題「愛のあるところに平等がある」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第8章10~15節

この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」と書いてあるとおりです。

旧約聖書: 出エジプト記16:13~36

『信徒の友』という雑誌があります。この雑誌の後ろのところに、「日毎の糧」というコーナーがあります。その日の聖書の言葉と短い説きあかしが載せられているコーナーですが、それと共に、日本基督教団の教会・伝道所の紹介が、祈祷課題と共に載せられています。今月の一〇月号は長野県、山梨県の教会が取り上げられ、私たちの松本東教会は昨日になりますが、一〇月一四日の日に取り上げられています。

このコーナーに取り上げられるとどうなるのか。全国の教会が、またそこに集う信徒たちが、祈りに覚えてくださいます。昨日、神学校で授業を行い、終わったら一人の学生が近づいて来られ、明日は松本東教会ですね、と声をかけてくださいました。様々なところで祈りに覚えられるのです。

実際にもう何通かのハガキがすでに届いています。祈りに覚えました、というハガキです。ずいぶん遠くからもハガキが来ます。日本基督教団の教会は全部で一七〇〇ほどあります。一年が三六五日ですから、数年に一度、順番が回ってくることになります。以前も同じように松本東教会が取り上げられた時、数十通のハガキが届きました。おそらく今週にもたくさんのハガキが届くことになるでしょう。感謝の返事を用意しなければと考えているところです。

皆さまもぜひこのことを十分に受けとめていただきたいと思います。私たちの教会が祈られ、支えられているのです。教会は二千年前から、一つの教会だけで歩んできたわけではありません。そうではなく、様々な教会との交わりの中に歩んできたのです。今回も多くの教会が、名も知らず顔も知らぬ多くの兄弟姉妹たちが、祈りに覚えてくださったのです。お葉書をくださらなくても、祈ってくださったそれ以上の方々があるでしょう。私たちも支えられ、祈られていることを、よく覚えたいと思います。

本日、私たちに与えられた聖書箇所には、二千年前の教会において、支え合うことが記されています。最初の一〇節のところにはこうあります。「この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。」(一〇節)。

この件とは、献金のことです。コリント教会がエルサレム教会に献金を送ろうとしていました。一一節のところにはこうあります。「だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。」(一一節)。この手紙を書いた使徒パウロは、コリント教会の人たちに、献金を集めることをすでに始めているのだから、最後までそれをやり遂げなさいということを勧めているわけです。

一一節と一二節のところに、「進んで」という言葉があります。「進んで実行しようと思ったとおりに」(一一節)、「進んで行う気持があれば」(一二節)。この「進んで」という言葉は、「熱意」という言葉です。何に対する熱意でしょうか。献金に対する熱意でしょうか。一二節にこうあります。「進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」(一二節)。ここでの熱意は、献金に対する熱意というよりも、神に受け入れられる熱意、神への熱心ということになります。

祈りに覚えてくださり、ハガキを送ってくださったある教会のお葉書の中に、こういう文章が書かれていました。「それぞれの地で主の栄光を現すことができますよう共に伝道に励みましょう」。私たちの教会のために、熱心に祈ってくださったわけですが、その熱心が私たちの教会だけに向けられているわけではありません。むしろ、神のために、私たちもこの地において伝道するし、あなたがたも松本の地で伝道する。そのようにして神の栄光を現そうではないか。これも神への熱心が表されていることだと思います。

そのような神への熱心ということが語られ、一三節のところには「釣り合い」という言葉が出てきます。「他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。」(一三節)。続く一四節にも、もう一度「釣り合い」が出てきます。「あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。」(一四節)。

ここでの「釣り合い」という言葉は、「公平」とか、「平等」と訳してもよい言葉です。聖書の中で「平等」ということが語られている箇所になります。

そこで、平等について、よく考えてみたいと思います。聖書を読まなくとも、信仰がなくとも、世の中で正義の名の下に平等が叫ばれることがあります。確かにどの世界であっても、平等を追い求めるというのは大事なことになるでしょう。

しかしある神学者が、平等に関してこんな考察を行っています。「平等にすべきだ」という主張がなされるところでも、人間の罪が潜んでいる。ある神学者はそう言うのです。どういうことでしょうか。

例えば、ある人が「平等にすべきだ」と言っているとします。その人はどんな思いからそう言っているのか。まったくの純粋な心からそう言っているのか。この神学者はそうではないと言います。自分が損をしたくないから、「平等にすべきだ」と叫んでいる。あるいは、誰かに得をさせたくないから、「行堂にすべきだ」と叫んでいる。つまり「平等にすべきだ」という言葉の裏側には、人間の利己心が潜んでいる。そういう罪が潜んでいる。この神学者はこのように考察するのです。

確かにその通りであるかもしれません。学校の教室で、ある生徒が「ずるい」、「平等にすべきだ」と言っているとします。その生徒は、自分が損をしているか、あるいはクラスメートの誰かが得をしているか、そういう状況があるので、「平等にすべきだ」と叫んでいるわけです。このように、平等という言葉にも、利己的な罪が潜んでいると言えます。

今日の聖書箇所でも、釣り合いをとるように、平等にすべきと言っています。聖書がそう言っているわけです。いったい何を意味しているのでしょうか。そういう利己心を捨て去って、持っているものを分かち合えと言っているのでしょうか。

そこで、どうしても考えなければならないのは、九節の言葉です。先週、私たちに与えられた聖書箇所の言葉になります。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(九節)。

先週、この箇所を中心に説教をしましたので、今週、同じことを繰り返すことはできません。主イエスは神の子であり、豊かなものをお持ちで、ご自身においては人間になる必要などなかったのに、人となってお生まれになってくださり、私たち人間の罪をすべて背負い、十字架にお架かりになり、持っている豊かなものを与え尽くしてくださり、貧しくなってくださった。それゆえに私たちは罪赦され、豊かになることができました。キリストは貧しく、私たちは豊かになったのです。

さて、この九節に書かれていることに、釣り合いが取れているでしょうか。キリストと私たち人間を比べて、平等と言えるでしょうか。まったく釣り合いが取れていません。不平等です。一番の不利益を被ってくださったのが、キリストなのです。キリストが罪の苦しみを負い、私たちから罪の苦しみが取り除かれたのです。

そんなうまい話があるか、と思います。そんなおいしい話があるか、と思います。キリストの側からすると、何と理不尽なことではないか、こんなひどい話はない、ということになります。しかしキリストは理不尽なことを、ひどいことを、その身に受けてくださった。このことにおいては、まったく釣り合いが取れていないのです。人類史上、最大の不平等なのです。

しかしこの最大の不平等を被ってくださったキリストを信じて受け入れる時、私たちの利己的な叫びは変わってきます。「自分が損をしたくない」、「誰かに得をさせたくない」、そういう思いが吹き飛んでいきます。隣人のことを「進んで」思う思いが生まれ、神への「熱意」が生まれてくるのです。これが、聖書の言う、釣り合いが取れるということです。一番の損を神がしてくださった、そのことがすべての源にあるのです。

ある説教者がこんな言葉を言っています。「信仰を持つ者は、冒険をすることができる」、と。この説教者は、主イエスがお語りになった「タラントンの譬え」を持ち出します。主人が旅に出かける。三人の僕に、五タラントン、二タラントン、一タラントンというお金を預け、その管理をまかせる。預かったお金だけを見れば、不平等であるかもしれません。

五タラントン預かった者は、その五タラントンを元手に商売をし、さらに五タラントンを儲けます。二タラントン預かった者は、その二タラントンを元手に商売をし、さらに二タラントンを儲けます。しかし一タラントン預かった者は、主人が恐ろしかったので、一タラントンを土の中に埋めておきます。

しばらく経って、主人が帰ってきて、成果報告がなされます。五タラントンの僕も、二タラントンの僕も、まったく同じ言葉で主人から誉められます。しかし一タラントン預かった僕は、主人から叱られてしまいます。土の中に埋めて、そのタラントンを生かす歩みをしなかったからです。主人から預かった一タラントンを信頼していなかったのです。

五タラントン預かった者も、二タラントン預かった者も、この説教者の言葉で言えば、冒険をしたことになります。それぞれに与えられたものを減らしてしまう可能性もあったのに、冒険をしたのです。しかし減らすことはありませんでした。この譬え話は減ってしまうような話ではないのです。必ず増える話なのです。一タラントン預かった者は、必ず増えるということを信じられなかった。冒険できなかったのです。

今日の聖書箇所の一一節と一二節のところで、「持っているもの」という言葉があります。パウロはコリント教会の人たちに、今「持っているもの」で、献金をやり遂げなさいと勧めているわけです。ところが、この「持っているもの」という言葉が、一四節のところで、「ゆとり」という言葉に変化します。「あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。」(一四節)。

「ゆとり」とは何でしょうか。元の言葉のニュアンスを生かして言うならば、「余っているもの」ということです。例えば、福音書で主イエスがわずかなパンで、大勢の人たちを食べさせるという奇跡をなさいます。余ったパンを弟子たちが集めてみると、たくさんの籠がいっぱいになりました。そこで使われている「余った」という言葉がこの言葉なのです。

「持っているもの」が「余ったもの」になった。コリント教会の人たちは、自分たちが今「持っているもの」では足りないかもしれない、そう思ったかもしれません。しかしやってみたら「余った」。その余った分が、他の欠乏を補うことになった。必ずそうなるとパウロは言うのです。

神の恵みは必ずそうなります。今日の聖書箇所の最後のところに、こうあります。「「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」と書いてあるとおりです。」(一五節)。

どこに書いてあるのか。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の出エジプト記です。ここには、エジプトの奴隷生活を脱出し、故郷に向けての旅を始めた、その旅の出発点の様子が記されています。エジプトでは奴隷生活でしたが、食料はきちんと与えられて食べることができました。ところがエジプトを脱出して、奴隷生活を抜け出すことができたのはよかったのかもしれませんが、いかんせん食べ物がなく、民が不平・不満を言うのです。せっかく神が救い出してくださったのに、人間の罪が現れてしまうのです。

そんなイスラエルの民に、マナという食料が与えられ、旅が続けられていきます。しかも平等に与えられます。「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」のです。神の恵みが、どんな人にも平等に与えられた、かつての出来事です。

パウロはその話をここで持ち出しました。あなたがたもよく知っているように、神の恵みがかつてそのように現れたではないか。今の教会においてだって、神の恵みが平等に実現するではないか、パウロはそう言っているのです。コリント教会がエルサレム教会に献金を送ろうとしているのも、その表れです。信徒の友を通して、私たちの教会が祈られていることもそうです。そこに釣り合いが取れるようになるのです。

私たちは、キリストが最も大きな不平等を被ってくださった恵みを知っている者たちです。キリストの貧しさから、私たちの豊かさが溢れるようになりました。その豊かさを分かち合うところに、真の平等が実現するのです。