松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年10月1日(日)
説教題「献身に生きる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第8章1~7節

兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。

旧約聖書: 詩編34

「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。」(一節)。本日、私たちに与えられた聖書箇所は、そのように始まっていきます。今日から第八章に入りました。第七章では、この手紙を書いたパウロとコリント教会の関係が回復した様子が記されています。その直後に、この第八章の内容が置かれているということになります。関係が回復した直後に、パウロは神の恵みの話をしているのです。

「恵み」という言葉は、信仰生活をしている私たちのよく使う言葉だと思います。あんなことがあった、こんなことがあった、そのようにして、神からいただいた恵みの話をすることがあるでしょう。パウロがしているのも、そのような話しの一つです。いったいどのような時に、神の恵みが現れているのか。マケドニアの諸教会の話をパウロはしていくのです。献げることにおける恵み、献金における恵みの話をパウロはしているのです。

私たちの教会においても、どのようなところで恵みが現れているでしょうか。教会では何よりも礼拝をします。今このように礼拝を献げています。礼拝のどの場面において、恵みが現れたと感じるでしょうか。説教を聴いて、神の恵みを感じた時でしょうか。もちろんそうです。イエス・キリストによって罪を赦された、その恵みの言葉を聴くことができます。

説教だけではありません。讃美歌を歌っている時に、神の恵みを覚えることもあるでしょう。祈りをしている時に、神の恵みを感じることもあるでしょう。洗礼を受ける者が与えられた時に、神の恵みと祝福が教会に与えられたと感じるでしょうし、聖餐に与る時、神の恵みを覚えつつ、パンと杯をいただきます。

今、挙げてきたことはすべて神の恵みです。しかしそれだけではなく、今日の聖書箇所に記されていることから言えば、献金において神の恵みが現れると言うのです。私たちもこの後、讃美歌を歌い、今日は聖餐に与り、その後に献金をします。その献金をしたときに、神の恵みが現れる。パウロはそう言うのです。

それにしてもなぜ献金をした時に、神の恵みが現れるのでしょうか。考えてみれば、それは当然なことと言えるでしょう。献金は、私たちが神からいただいたものの中から献げているからです。すべてが神から与えられたもの、その信仰によって私たちは献金を献げています。すべてが神のものであり、その豊かさの中から献げているからです。だからこそ、献金において、神の恵みが現れるのです。

そのようにして、パウロはマケドニア州の諸教会の献金の話を始めていくことになりますが、まずは少々、解説をしなければならないかもしれません。マケドニア州というのは、今でいうトルコから海を渡った先にあるギリシアの辺りのところです。使徒言行録によれば、パウロはフィリピ、テサロニケ、ベレアというところに、教会を建てました。これらの教会に関する話です。

パウロの時代には、マケドニア州というのは、社会的にも経済的にも困窮をしていた地域であるようです。二節にこうあります。「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。」(二節)。人を助ける余裕などなかったはずなのに、惜しまず施していたことが言われています。

続く三節から四節にもこうあります。「わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。」(三~四節)。

このように、マケドニア州の諸教会は献金の活動をしたわけですが、いったい誰に対する、どこの教会に対する献金だったのでしょうか。四節に「聖なる者たちを助けるための」という言葉があります。この「聖なる者たち」とは、いったい誰なのか。聖書学者たちが教えてくれるのは、「聖なる者たち」とは、エルサレム教会の人たちだったということです。

その根拠となる聖書箇所があります。二つを挙げたいと思いますが、一つはローマの信徒への手紙からです。

「しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。」(ローマ一五・二五~二八)。

イスパニアというのは今のスペインのことで、パウロは最終的にそこへ行って伝道をしたいと言うのですが、その前にやらなければならないことがあると言います。それは、マケドニア州とアカイア州の人たちがエルサレム教会に援助しようとしている。その献金を持参してエルサレム教会へ行ってから、ローマへ行き、イスパニアへ行きたいと言っているのです。

もう一つの根拠となる聖書箇所は、コリントの信徒への手紙一です。「聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。そちらに着いたら、あなたがたから承認された人たちに手紙を持たせて、その贈り物を届けにエルサレムに行かせましょう。わたしも行く方がよければ、その人たちはわたしと一緒に行くことになるでしょう。」(Ⅰコリント一六・一~四)。

ここにはマケドニア州という言葉はありませんが、エルサレム教会への献金がなされていたことが記されています。しかも、コリント教会でもエルサレム教会への献金が集められていたことが分かります。

これは二千年前の話です。各地に教会が続々と立てられていった時代の話です。この当時から、教会がそれぞれ独立して歩んでいたわけではありません。互いに支え合って歩んでいた。そのことが献金によって表されているのです。

このことをもう少し深く考えてみたいと思います。マケドニア州の諸教会が、あるいはコリント教会がエルサレム教会を援助しようとしていた、それは単なる援助ではないことを意味しています。

マケドニア州の諸教会もコリント教会も、ギリシアの方にありますから、ギリシア人が多かったと思います。もちろんユダヤ人や様々な人たちもいたでしょうけれども、ユダヤ人から見れば異邦人と呼ばれる人たちが中心の教会でした。それに対して、エルサレム教会は当然ユダヤ人が多かったでしょう。ユダヤ人を中心とする教会です。つまり、マケドニア州の諸教会がエルサレム教会を援助するということは、異邦人がユダヤ人を援助しているということを意味します。

ユダヤ人と異邦人、両者は私たちが想像する以上に、犬猿の仲というところがありました。一緒にやっていくことなど不可能だと考えられていました。けれども、教会では、衝突などいろいろなことはありながらも、一緒にやっていったのです。ガラテヤの信徒への手紙にこうあります。

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ三・二六~二八)。教会はユダヤ人・ギリシア人問題を乗り越えてきたのです。

現代の教会でも、差別の問題が取り上げられて論じられることがあります。ユダヤ人とギリシア人はお互いに差別し合っていたようなところがあるわけです。今日の差別の問題に、私たちはどう取り組んでいけばよいでしょうか。世の中では、「差別はよくない」とまず言われます。確かにその通りです。

しかしキリストの教会では、そのスローガンだけが語られてきたわけではありません。ただ今お読みしたガラテヤの信徒への手紙にあったように、キリストにおいては男も女も、ユダヤ人もギリシア人もない、と言ってきたのです。何によって私たちが一致しているのか。キリストによる一致ではないか。そのようにして、絶対に和解することができなかった両者が、教会において和解し、共に歩んできた。そのようにして違いを乗り越えてきたのです。

今日の聖書箇所でパウロが語っているこの献金にも、その恵みが現れていると言えます。「神の恵みについて知らせましょう」(一節)とパウロは言っています。「恵み」という言葉が使われていますが、今日の聖書箇所で「慈善の業」という言葉が何度か出てきます。四節と六節と七節に三回にわたって出てくる言葉ですが、実は「慈善の業」と訳されているのは、「恵み」と同じ言葉なのです。文脈に応じて日本語では訳し分けているわけですが、「恵み」と「慈善の業」は同じなのです。

神の恵みがいったいどこに現れているか。教会の慈善の業において現れているのです。献金において現れているのです。六節にこうあります。「わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。」(六節)。マケドニア州の諸教会でなされたように、あなたがたコリント教会もこの慈善の業を、恵みの業をやり遂げよとパウロは勧めているのです。

献金において、神の恵みが現れているために、何よりも大事なことがあります。それは、すべてのものを神からいただいていることを覚えることです。七節にこうあります。「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。」(七節)。

「豊か」という言葉が使われています。果たして自分は豊かなのか、私たちはそのように考えます。ともすると私たちは、あれがないとか、人と比べてこれがないとか、そういうことばかりを考えてしまうかもしれません。

私たちの教会のルーツにもなりますが、スイスのジュネーブの教会を改革したカルヴァンという人が、このような考察を行っています。私たち人間は、起こってもいないことなのに、起こり得る危険をあれこれと考えすぎるところがある。その点については、人間はあまりにも用意周到に計算しすぎるとカルヴァンは言います。そこで何が生まれるのか。貪欲が生まれます。自分の必要以上に貪る、自分のものにしようとするのです。そこで何が起こっているのか。神を信頼していない、神からいただいたものを、いただいたものとして受け取っていない。そのことが起こるとカルヴァンは言うのです。

しかし神に信頼する人はそうではありません。すべてを神からいただいている、その考えに立つのです。マケドニア州の諸教会もそうでした。コリント教会もパウロがここで指摘をしているようにそうでした。あらゆることで、神によって豊かにしていただいている、それが大前提です。

この七節の言葉というのは、私たちがキリスト者として歩んでいくことにおいて、とても重要な言葉だと思います。この言葉によって、私たちの人生が変わると言っても過言ではありません。コリント教会に宛てて書いた別の手紙で、パウロがこう言っている通りです。「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており…」(Ⅰコリント四・七~八)。

とても痛烈な言葉です。しかしとても大事なことを言っている言葉でもあります。私たちの持っているものをどのように受けとめるのか、そのことが問われています。日々の生活に必要なあらゆるものを、神からいただいている。一緒に生きる者たちを隣人として、神からいただいている。信仰生活をするための教会を、神からいただいている。そして何よりも私たちの救い主であるイエス・キリストを、神からいただいている。それらすべてを神からいただいたものとして、私たちは受け取るのです。そして神からいただいたその豊かさの中から、私たちが喜んで献げる。そこに、神の恵みが現れるのです。

この後、聖餐に与った後、献金をします。松本東教会では、献金感謝の祈りをこのようにしています。「主イエス・キリストの父なる神さま。わたしたちは生きるときも死ぬときも、体も魂もすべてあなたのものです。その恵みに感謝して、いま献身のしるしとして献金をおささげいたします。どうぞわたしたちのすべてをきよめて受けいれ、みこころのままにお用いください。わたしたちはあなたのものです。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン」。

「献身のしるし」という言葉があります。献金の祈りの際には、必ずと言ってよいほど、使われる言葉です。単にお金を献げているのではない。私たち自身をまるごと献げているということです。今日の聖書箇所の五節にこうあります。「また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので…」(五節)。

私たちのまるごとすべてを献げること、それがすなわち「献身」です。すべてを神からいただいた、そのように受けとめた時、私たちの献げ方も変わってくることでしょう。私たちのすべてを献げているのです。この献身に生きることが、本当の豊かさであり、神の恵みの現れなのです。