松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年9月10日(日)
説教題「悲しみから悔い改めへ、悔い改めから救いへ」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第7章5~13a節

マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。ですから、あなたがたに手紙を送ったのは、不義を行った者のためでも、その被害者のためでもなく、わたしたちに対するあなたがたの熱心を、神の御前であなたがたに明らかにするためでした。こういうわけでわたしたちは慰められたのです。

旧約聖書: ネヘミヤ記8:9~12

本日のこの礼拝は、教会設立九三周年の記念の礼拝です。今から九三年前、私たちの教会は、正式な教会として発足しました。もちろん、いきなりその日に正式な教会が生まれたわけではありません。九三年前から遡ること八年になりますが、一九一六年六月四日、「松本聖書研究会」と呼ばれる集会が始まりました。学校の先生たちを中心にする聖書研究会です。

しかしただ聖書を読んでいる、研究しているだけでは済まなくなった。八年後に正式な教会となった。一九二四年九月一三日、「建立式」というものが行われ、正式な教会となりました。その日に最も近い日曜日、九月の第二日曜日になりますが、毎年、記念の礼拝を行っているのです。

九三年前、私たちの教会は「日本基督教会」というグループに属する教会として発足しました。改革派の伝統に立ち、長老制度を採用する教会です。その後、戦時中は松本市内の三教会が合同し、一時的に、日本基督教団に加盟していました。戦争が終わり、三教会の合同が解消され、私たちの教会は単立の教会として歩み始めました。そして二〇〇一年のことになりますが、改革派の伝統を自覚しつつ、日本基督教団に加盟した。現在もその歩みを続けています。

教会の歴史を振り返ると、私たちの教会はかなり特色ある歴史を持っている教会であると言えます。「日本基督教会」の教会に始まり、「単立」の時代を経て、「日本基督教団」に属している。他にはほとんど例がないと言ってもよいかもしれません。

教会設立七十周年を記念して、かつて『七十年史』が発行されました。その『七十年史』の最初のところに、「回顧と展望」という文章があります。『七十年史』が発行される頃、いよいよこれから日本基督教団に加盟しようという時期でした。今までの教会の歴史を振り返って、こういう評価をしています。「この教会の信仰を貫いているのは十字架と復活を信じる贖罪信仰である」。

「贖罪」というのは、罪の贖いということです。罪が赦されることです。何によって赦されるのか。イエス・キリストが私たちの罪を背負って十字架にお架かりになり、復活されたことによって、罪が贖われる。教会の全歴史を貫いて、そのことを信じ続けてきた、その御言葉を聴き続けてきた。いろいろな歩みがあったかもしれないけれども、そのことだけは、絶えず変わらなかったと言うのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所も、まさにその贖罪信仰と深く関わることが記されています。使徒パウロからコリント教会に宛てて書かれた手紙です。この半年間、コリントの信徒への手紙二から御言葉を聴き続けてきました。

説教の中で何度も申し上げてきたことですが、コリント教会の初代牧師パウロと、コリント教会の関係が悪化している状況でした。パウロは「涙の手紙」を書いたとされています。今日の聖書箇所の八節にもこうあります。「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。」(八節)。かなり強い口調で、はっきりとした手紙をパウロが書いたことが分かります。

パウロとしては、そういう手紙を書いたわけですから、その手紙を読んだコリント教会の人たちが、その後どうしたのか。そのことが非常に気になるわけです。気が気ではなかった。五節にこうあります。「マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。」(五節)。

パウロはコリント教会の様子を知るため、テトスという弟子を遣わします。テトスになかなか会えずに、気が気ではなかったパウロでしたが、ついにテトスに会うことができ、コリント教会の様子を知ることができます。六節から七節にかけてこうあります。

「しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。」(六~七節)。

コリント教会の人たちは、パウロの手紙をきちんと読みました。そして悲しみました。しかしそれは単なる悲しみではなかったのです。八節から九節にかけてこうあります。

「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。」(八~九節)。

ここで語られているのは、どういうことでしょうか。二種類の悲しみがあると言われています。「神の御心に適った悲しみ」と「世の悲しみ」です。「神の御心に適った悲しみ」というのは、元の言葉では「神による悲しみ」ということです。神との関わりの中で悲しむ悲しみです。それに対して、「世の悲しみ」というのは、神とのかかわらない形で悲しむ悲しみです。

このことをもとに、悲しみをより深く考えなければなりません。確かにいろいろな悲しみがあります。できれば悲しみを経験したくないと私たちは思います。しかしそういうわけにはいきません。必ず悲しみを経験します。パウロはここで何を言いたいのでしょうか。悲しみがあれば次に喜べる、そんな呑気なことを言いたいのでしょうか。「世の悲しみは死をもたらす」と言っていますが、それ以上の説明はありません。

逆に「神の御心に適った悲しみ」は、一一節前半にあるように、様々なものをもたらしました。「神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。」(一一節)。悲しみから始まり、これらのものがもたらされ、教会が揺れ動きました。そして最終的に、教会が悔い改めたと言うのです。

そこで、今度は悔い改めを考えていきましょう。「悔い改め」という言葉と並んで、今日の聖書箇所では「後悔」という言葉も使われています。八節から九節にかけてこうあります。「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。」(八~九節)。

「悔い改め」と「後悔」。日本語でも言葉が使い分けられているように、元の言葉でも違う言葉が使われています。「後悔」とは何でしょう。元の言葉では、感情の変化を表す言葉であるようです。つまり「後悔していない」というのは、感情が変化していないということです。このことから、ある聖書学者は「気にしない」と訳しています。パウロはコリント教会に涙ながらに手紙を書いて、コリント教会の人たちを悲しませたけれども、それをさほど「気にしない」と言います。

本当はすごく気にしたはずなのに、なぜ気にしないと言えるのか。コリント教会の人たちが悔い改めたからです。悔い改めは、後悔とは違い、単なる感情の変化ではありません。ちょっと反省して心を入れ替えますという程度のことではないのです。全存在を入れ替えるほどです。コリント教会の人たちが悔い改めたので、手紙の悲しみなどは気にならなくなったということです。

悔い改めという言葉は、聖書でとても重要な言葉です。向きを変えることです。向きを変えずに心をちょっと改める程度のことではないのです。向きを変えるというのは、百八十度、方向を変えることです。回れ右をしたに過ぎないということではなく、私たちの存在そのものが変わるような、劇的な変化がそこに現れるのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、ネヘミヤ記です。ネヘミヤ記は、旧約聖書の中で、あまり馴染みがないかもしれません。イスラエルの歴史の中で、バビロン捕囚というものが起こます。国が滅ぼされ、多くの人が捕囚民として外国に連れて行かれます。エルサレムの都は廃墟になります。バビロン捕囚後、廃墟となったエルサレム都が再建されます。困難の中、神殿が再建され、城壁が再建されます。その時のことが記されているのが、エズラ記であり、ネヘミヤ記なのです。

今日は第八章のところを朗読しました。城壁が再建され、その祝いの礼拝がなされます。律法が朗読されます。八節にこうあります。「彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。」(ネヘミヤ八・八)。

続く九節にはこうあります。「総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。」(ネヘミヤ八・九)。

なぜ民は泣いていたのでしょうか。なぜ悲しんでいたのでしょうか。それは、自分たちが罪を犯してきたことを、よく理解したからです。バビロン捕囚を経験した。自分たちの罪のゆえに、神の裁きが臨んだ。その罪を思い、悲しみの涙を流していたのです。

しかし神の導きによって、神殿も城壁も再建することができました。悲しみましたが、悔い改め、神の方へと向き直りました。そしてこの時、喜びへと至っている。悲しみ、悔い改め、喜びの順番です。

コリント教会でも同じことが起こりました。コリントの信徒への手紙二に戻りますが、一一節後半にこうあります。「例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。」(一一節)。

「例の事件」とあります。いったい何のことでしょうか。詳細は不明です。聖書学者がいろいろと推測して教えてくれますが、一人の人だったようです。その人が教会員をそそのかし、初代牧師のパウロからも、パウロが最初に宣べ伝えていた福音からも、教会員を逸らさせるという事件があったようです。

しかしパウロは、もうその事件については詮索しません。「ですから、あなたがたに手紙を送ったのは、不義を行った者のためでも、その被害者のためでもなく、わたしたちに対するあなたがたの熱心を、神の御前であなたがたに明らかにするためでした。」(一二節)。ある説教者がこう言っている通りです。「個人的な罪にあまりにも心を向けるならば、それは有害にもなり得る」。

今日の聖書箇所は、第七章五節から一三節前半のところまでですが、私たちが用いている新共同訳聖書では、二節のところから小見出しが付けられています。いつも申し上げていることですが、小見出しは元の聖書にはなかったものですので、さほど気にする必要のないものですが、この部分の小見出しには「教会の悔い改めを喜ぶ」とあります。

「教会」です。この箇所には、一言も「教会」という言葉はありません。しかしその通り、「教会の悔い改め」なのです。一人の人がコリント教会を荒らしたのかもしれませんが、一人の人に悔い改めよ、と言われているのではありません。教会全体が悔い改めたのです。

コリントの信徒への手紙一とコリントの信徒への手紙二を読みますと、コリント教会に様々な問題が生じていたことが分かります。信じられないような問題まで起こっていました。ひどい教会だ、という印象を受けるかもしれません。しかしそのコリント教会が、ここでは見事に悔い改めている。教会を挙げて悔い改めている。私たちもそのことをよく覚えたいと思います。

教会設立九三周年を祝う礼拝を、今日は守っています。これから数年後の百周年に向けて、私たちの教会はどのような歩みをなしていくのでしょうか。特に今年度から来年度にかけて、私たちの教会は牧師交代の時期を過ごすことになります。教会として、人間の思いが、人間の罪が最も出やすい時期であると言ってもよいかもしれません。

牧師である私もまたそうです。私が辞任するまでに、あれもこれもなさなければという思いになります。こういうことを教会に残しておかなければという思いにもなります。先のことを覚えて少し不安になったりもします。そういうところで何が起こっているか。神を信頼するのではなく、人間の力で何とかしようとするのです。それは皆さまも同じことでしょう。神を信頼するよりも、人間の思いが出てしまうことも少なからずあるでしょう。

コリント教会もそうでした。しかし「神の御心に適った悲しみ」を悲しみ、一一節後半にあったような様々な思いがわき出ましたが、最後には悔い改めることができました。私たちの教会でも、今はまだ様々な思いがわき出ている段階かもしれません。しかし時が来たら、必ず悔い改めていただきたいと思います。まったく向きを変えて、神の方に向き直る。最後の一三節前半にあるように、神が慰めを与えてくださいます。「こういうわけでわたしたちは慰められたのです。」(一三節)。

教会設立九三年のこの年も、私たちは神に悔い改めて、罪赦されて、「贖罪信仰」に生きることができるのです。今までの教会がずっとそのように歩んでくることができたように、これからも私たちはその信仰に生かされるのです。