松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年9月17日(日)
説教題「喜びの伝播」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第7章13b~16節

この慰めに加えて、テトスの喜ぶさまを見て、わたしたちはいっそう喜びました。彼の心があなたがた一同のお陰で元気づけられたからです。わたしはあなたがたのことをテトスに少し誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。それどころか、わたしたちはあなたがたにすべて真実を語ったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています。わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。

旧約聖書: 詩編133

今日の説教の説教題を、「喜びの伝播」と付けました。伝播とは、伝わっていくこと、拡がっていくことを意味します。喜びがそのように伝わり、拡がっていく。聖書に記されている喜びとは、そういう喜びのことです。私たちは自分一人の個人的な喜びを求めるかもしれませんが、聖書はむしろ私たちの喜び、みんなの喜びを記しているのです。

喜びという言葉に関して、有名な聖書の言葉があります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ五・一六~一八)。愛唱されている方も多いと思います。

テサロニケの信徒への手紙一は、コリントの信徒への手紙二を書いた使徒パウロが書いた手紙でもあります。おそらく新約聖書の書簡の中で、最も古いものと言われています。心に残る言葉が語られています。しかし他方で、「いつも喜べ」ということが言われています。いつも喜べるのか、と思ってしまうようなところもあると思います。

しかし、よくよくここでの言葉遣いに注意をしながら、読んでみたいと思います。何気ない言葉遣いかもしれませんが、案外、大事なことが分かってきます。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。喜び、祈り、感謝、三つのことが語られています。

しかしその直後、「これこそ」と続いていきます。英語で言うと、thisということです。これらtheseではないのです。つまり、喜びということを考えた時に、祈りと感謝を同時に考えなければならない。三つでワンセットということが分かります。

さらに分かることがあります。三つのことを語った後、「これこそ」と語った後、パウロは何と言っているのか。「神があなたがたに望んでおられることです」と言っています。神が「あなたに」望んでおられるではありません。「あなたがた」、つまりここではテサロニケ教会の人たちのことです。教会の「あなたがた」が喜ぶように、祈るように、感謝するように、そのようにパウロは言っているのです。個人的な喜びではなく、教会の喜びです。

これは文脈から考えても、もっともなことです。テサロニケの信徒への手紙の直前の箇所を読みますと、こうあります。

「兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。」(Ⅰテサロニケ五・一六~一八)。

教会の現実がよく表されていると思います。このところを読みますと、決して一人の問題ではないことがよく分かります。教会の問題です。パウロが喜びなさいと言っているとき、パウロの頭の中には、個人の喜びがあるのではなく、教会の喜びがあるのは明らかだと思います。

本日、私たちに与えられたコリントの信徒への手紙二の箇所も、教会の喜びを語っている箇所です。先週の聖書箇所のところまでで、パウロが苦しんでいた、悩んでいた、嘆いていた、そんなパウロの様子が記されていました。しかしパウロはそれらを乗り越えて、喜びへと至りました。個人的な喜びではありません。教会の喜びを喜んだのです。

今日の聖書箇所では、喜び・喜ぶという言葉が何度か使われています。喜びが広がっている様子がよく分かります。「この慰めに加えて、テトスの喜ぶさまを見て、わたしたちはいっそう喜びました。彼の心があなたがた一同のお陰で元気づけられたからです。」(一三節)。「わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます。」(一六節)。

まずはテトスが喜びました。テトスはパウロの弟子です。パウロは一大決心をして、涙ながらにコリント教会に手紙を書きました。その手紙を読んで、コリント教会の人たちは自分たちの罪を悟り、悔い改めました。しかし手紙を送った直後は、そのようなコリント教会の様子が分からなかったわけです。コリント教会の人たちは自分の手紙を読んでどう思ったか。パウロは気になって仕方がなかった。そこでテトスをコリント教会へ遣わしたのです。コリント教会の人たちはそのテトスをきちんと受け入れたのです。テトスが喜ぶさまを見て、コリント教会の人たちも一緒に喜んだことでしょう。

そしてテトスがパウロのところに戻って来て、報告をします。コリント教会の人たちが、パウロの涙の手紙を読んで、見事に悔い改めた。そのようなよき知らせを伝えます。パウロたちもそれを聞いて喜んだ。心から喜んだ様子がよく分かります。このようにして、皆がこの時、喜んだのです。まさに教会の喜びです。

しかしこのようにして与えられた喜びが、悲しみから始まっていたことを忘れるわけにはいきません。先週の聖書箇所になりますが、同じ第七章の一〇節にこうあります。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」(一〇節)。

パウロはコリント教会の初代牧師でしたが、教会を離れた後は、パウロとコリント教会の人たちとの間に、溝が入ってしまいました。関係が悪化してしまったのです。コリント教会の人たちが、ある者にそそのかされて、パウロが最初に語った福音から逸れてしまったからです。パウロは様々なことを思ったでしょう。怒り、嘆き、悲しんだと思います。そして涙の手紙を書きました。その手紙が功を奏し、コリント教会の人たちが悔い改め、最初の信仰に立ち返り、パウロとも再び心を通わせて、喜ぶことができるようになった。ずいぶんといろいろなことがあった上で、喜びへと至ったのです。

先ほどのテサロニケの信徒への手紙一にも、「気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。」(Ⅰテサロニケ五・一四)という言葉がありました。コリント教会とある意味では同じだと思います。様々なことを通り抜けて、喜びへと至った。教会の私たちの喜びとはそういう喜びです。

聖書が語る喜びは、ほとんどがそうである、いやすべてがそうであると言っても過言ではないでしょう。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書は、詩編第一三三編です。この詩編第一三三編も有名な詩編で、特に一節の言葉がそうです。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(詩編一三三・一)。「兄弟」というのは、「兄弟姉妹」と言った方がよいでしょうが、肉親の兄弟姉妹のことではなく、信仰において一つにされている信仰の民の兄弟姉妹のことです。

詩編第一三三編の最初のところに、小さな文字で表題が付けられています。「都に上る歌」。都とはエルサレムの都のことで、イスラエルの人たちが礼拝にやって来る、その巡礼歌のことです。詩編の第一二〇編から「都に上る歌」が始まり、第一三四編まで続いていきます。「都に上る歌」という一連のシリーズ、巡礼歌が収められているのです。

巡礼歌の最初の方を見ますと、例えば一二一編ですが、これからエルサレムの都に出発しようとしている、そういう歌があります。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。」(詩編一二一・一~三)。

「山々」を仰ぎ見て、信仰深い思いになっているというわけではありません。これから巡礼の旅に出発する。これからあの山を越えなければならない。獣や追いはぎに襲われるかもしれない。どうか旅が守られるように、神にそのように祈り、巡礼の旅を出発するのです。

続く詩編第一二二編では、「主の家に行こう、と人々が言ったとき、わたしはうれしかった。」(詩編一二二・一)と始まります。まだこの段階では、エルサレムの都に着いていないと言えるでしょう。ところが続く二節では、「エルサレムよ、あなたの城門の中に、わたしたちの足は立っている。」(詩編一二二・二)と続きます。長い旅の末に、無事にようやく到着したのでしょうか。到着した喜びを語っているのです。

このような巡礼歌が続いていき、今日の詩編第一三三編です。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(詩編一三三・一)。礼拝をしているのだと思います。一緒に座っている人たちがいます。一緒に旅をしてきた家族や仲間でしょうか。もちろんそれも考えられますが、見ず知らずの人も一緒に座って礼拝をしていたことでしょう。しかし同じ信仰の仲間です。共に座っている、その喜びを語っているのです。

巡礼歌の最初の方にあったように、ずっと旅をしてきたのです。そしてようやく到着をして、礼拝の喜びに与っていたのです。出発の頃は、恐れや不安に駆られたこともあったでしょう。旅が途中でうまく進まないこともあったのでしょう。しかしそれらを通り越して、喜びが与えられた。しかも一人だけの喜びではない喜びが与えられたのです。

コリントの信徒への手紙二に戻りますが、今日の聖書箇所の中にも、喜びばかりを語っているのではなく、「恐れ」という言葉も使われています。一五節にこうあります。「テトスは、あなたがた一同が従順で、どんなに恐れおののいて歓迎してくれたかを思い起こして、ますますあなたがたに心を寄せています。」(一五節)。テトスがコリント教会の人たちから受けた歓迎のことです。「恐れおののいて」歓迎を受けたと記されています。どういうことでしょうか。

パウロは別の手紙の中でも、恐れとおののきという言葉を使っています。「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」(フィリピ二・一二)。

フィリピ教会の人たちに、恐れおののくようにパウロが言っていることになりますが、これは決してパウロに対して恐れおののけ、と言っているわけではありません。救いを達成するためですから、神に対する畏れおののきです。この直前のところで、キリストが十字架に至るまで父なる神に従順であったことが語られます。私たちもキリストと同じように、神に従順であれ、ということです。

また、多くの聖書学者が指摘をしていることですが、パウロが「恐れおののき」ということを書いたとき、おそらくパウロの頭の中には、詩編第二編一一節の言葉があったのではないか、と言われています。「畏れ敬って、主に仕え、おののきつつ、喜び踊れ」(詩編二・一一)。神に対する畏れとおののきです。しかしその中にも、喜びがあったということがはっきりと語られています。

コリント教会の人たちの「恐れおののて歓迎してくれた」というのも、まさに詩編第二編一一節が表していることと同じだろうと思います。恐れおののきは神に対するものです。信仰の道を踏み外してしまった。その恐れおののきもあるでしょう。さらには、こんな私たちだけれども、悔い改めの道を拓いてくださった。その恐れおののきもあるでしょう。しかし心から喜んで、テトスを歓迎した。教会を挙げて喜んだのです。

今年は私たちのプロテスタント教会が生まれてから五百年にあたる記念の年です。今から五百年前のマルティン・ルターという人が、改革の引き金を引いたと言われています。

最近、私がルターの文献をいくつか読んでいる中、分かったことでありますが、ルターという人は、かなり繊細な人だったようです。ある研究者は、ルターは今で言う鬱病を患っていたのではないかと言っています。非常に繊細であり、特に自分の罪に関しては敏感であったようです。修道士になります。

しかしそういう生活をしていても、自分の罪がきちんと赦されたという確信を持てない。ルターはこういうように考えることもあったようです。罪を犯したならば懺悔をしなければならない。自分が自覚的に気付いた罪ならば、きちんと懺悔して罪の赦しをいただけるかもしれないけれども、無自覚の内に犯した罪はどうなってしまうのか、懺悔していないのだから、赦されないまま残るのではないか。こういうことをとことん突き詰めて考え、苦悩の中に置かれていたようです。

やがてルターは司祭になります。司祭になるということは、聖餐式の司式をすることになります。まだプロテスタント教会が生まれていませんから、カトリック教会の司祭として、聖餐式の司式をします。カトリック教会では、聖餐のパンが本当にキリストの体に変わると考えるわけです。ルターが初めて司式をし、パンを手に取った時、自分は本当にキリストの体を手にしている、何とも言えないような恐れに取りつかれた。恐怖としか言いようのない感情だったようです。

そういうルターでしたが、聖書を深く読んでいく中で、目が開かれ、確信を得るのです。救いや罪の赦しは自分で勝ち取るものではない。救いも、罪の赦しも、神を信じる信仰でさえも、神から与えられるもの。一方的な恵みとして与えられるもの。ルターはそのように目が開かれ、教会の改革運動を始めていくことになります。そしてそれは、悪い意味での恐れから、良い意味での恐れに変わった瞬間でもありました。

ルターはその後も、相変わらず悩み、苦しみながら、教会の改革運動を続けていきました。投げ出そうとしたことも、何度もあったようです。しかしそれでも続けていきました。神への恐れおののきの中に、深い喜びが与えられていたからでしょう。

私が教会の牧師として与えられる喜びとは何か。いろいろな喜びがもちろんありますが、最大の喜びは受洗者が与えられること、信仰告白をする者が与えられることです。最初にご本人から、「洗礼を受けたい」「信仰告白をしたい」、そのように申し出があります。私は喜びます。しかし単純な喜びではありません。深い畏れを感じます。なぜこの人の口から、そのような言葉が出るのだろうか。神が働いてくださったとしか言いようがない。その畏れです。

今年度も残り半年になりました。受洗者や信仰告白者が与えられるように、ぜひ皆さんも祈っていただきたいと思います。そしてその喜びは、決して私だけの喜びではありません。教会全体の、教会を挙げての喜びです。そして教会を挙げての深い畏れでもあります。本当にこの教会に神が働いてくださったのですから。

私たちは、同じ神を信じ、同じ主イエスに救われ、同じ聖霊に導かれる者たちです。人間的な親しさからではなく、そのことで兄弟姉妹となるのです。教会は二千年前のその出発点から、共に集って礼拝をしてきました。決して個人主義になったのではありません。教会の喜びを共に喜び、歩んできたのです。神に導かれながら、「教会の私たち」の歩みをなしてまいりたいと思います。