松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年8月27日(日)
説教題「信仰者の闘い」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第6章14~第7章1節

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。だから、あの者どもの中から出て行き、遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。』全能の主はこう仰せられる。」愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。

旧約聖書: レビ記26:3~13

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、一つのまとまりを持っています。まとまりを持っているということは、逆に言うと、その部分だけで独立しているということにもなります。聖書を解説してくれる注解書などを読みますと、今日の聖書箇所は、後から挿入されたものではないか、というようなことまで書かれています。

コリントの信徒への手紙二は、使徒パウロからコリント教会に宛てて書かれた手紙です。私たちも手紙を書く場合がありますが、その時のことを考えていただくとよいと思います。最初から最後まで、流れるように一貫して書くことができる場合は少ないと思います。徒然なるままに、とまではいかなくとも、手紙に書くべき要素をいろいろと考えます。そして後から、ここにこういう内容を挿入したい、そう思って手紙を書きなおすこともあると思います。

パウロもまさにそういうことをしたのだと思います。今日の聖書箇所を抜かして、第六章一三節から第七章二節を続けて読むと、こうなります。「子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。」(六・一三)、「わたしたちに心を開いてください。わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。」(七・二)。

このように読むと、すんなりとつながることが分かります。そのように書いたところに、今日の聖書箇所、まとまりを持った一つの内容を、間に挿入したということになります。

聖書学者によっては、つながりの悪さを指摘する人もいますが、私はそんなことはないと思います。どういうことがこれまでに語られてきたのか。先週の聖書箇所になりますが、第六章一節にはこうあります。「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」(六・一)。

神からいただいた恵みとは、先週の説教でも申し上げましたが、その直前のところにこうある通りです。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(五・二一)。イエス・キリストが罪なきお方であったのに、私たちの罪を背負って十字架にお架かりになってくださった。そのことによって、私たちの罪が赦された、その恵みが語られているのです。

その恵みを無駄にすることのないように。先週の聖書箇所である第六章一~一三節でもそのことが語られてきました。パウロはそれだけで終わらせることはせず、やはりもっと言葉を足したいと思ったのでしょう。キリストの恵みを無駄にしないように、さらに今日の聖書箇所が付け加えられたのです。

今日の聖書箇所の最初のところに、こうあります。「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。」(一四節)。軛という言葉が出てきました。軛とは何でしょうか。どういうものを想像するでしょうか。

私たちが考える軛とは、例えば馬につける軛を考えると思います。その馬に乗るために、馬をコントロールするために、軛が用いられます。しかし聖書が書かれた時代において考えられている軛というのは、二頭の牛をつなぐための軛と考えた方がよいようです。二頭の牛に、力を合わせて畑仕事をさせるためのものです。旧約聖書の申命記にこうあります。「牛とろばとを組み合わせて耕してはならない」(申命記二二・一〇)。牛とろばを同じ軛に組み合わせるとどうなるか、やってみたことはもちろんありませんが、うまくいくことはないのでしょう。

つまり、二頭が軛を負っている。動物の話ではなく、私たち人間がそのように譬えられているのですから、二人が軛を負っていることになります。誰と誰が軛を負っているのでしょうか。マタイによる福音書にこういうキリストのお言葉があります。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(一一・二八~三〇)。

とても有名なキリストのお言葉ですが、「わたしの軛を負い」と言われています。二人が負うわけですから、一人がキリスト、一人が私たちということになります。私たちが負うべきなのは、キリストの軛なのです。

キリスト者は、キリストの軛につながれて、生かされている者です。それが一番、楽な生き方です。楽というよりも、それが最も自然な望ましい生き方なのです。ところが、私たちの生き方がどうも不自由なものになってしまう。不自然なところがあるようになってしまう。なぜそうなってしまうのか。それは、今日の聖書箇所の表現で言えば、キリストの軛ではないものと一緒に、軛を負ってしまうからです。

一四節後半から一六節前半にかけて、こうあります。「正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。」(一四~一六節)。

ここには対立する二つのものが出てきます。「ベリアル」というのは、聖書の中ではここにしか出てこない言葉で、悪魔とかサタンのことが意味されています。正義と不法、光と闇にしてもそうですが、これら二つの対立するものが、同じ軛を負うことができないということが語られています。

信仰者はそういう軛を負わないように、きちんとキリストの軛を負うように、ということをパウロが言っているわけですが、それが信仰者の闘いでもあります。今日の説教の説教題を、「信仰者の闘い」と付けました。もう少し深めて考えてみますと、私たちはいったい何と闘っているのでしょうか。誰と闘っているのでしょうか。いろいろな闘いを考えることができるかもしれません。

例えば、創世記の最初に出てくるアダムとエバのことを考えてみるとよいと思います。神から取って食べるなと命じられた木の実から取って食べてしまいました。神からそれを咎められたとき、アダムはエバのせいにしました。エバは蛇のせいにしました。そしてアダムもエバも、そもそもこんな女を造った神さま、あなたが悪い、そもそもこんな蛇を造った神さま、あなたが悪い、そういうように行ったのです。食べてしまったのは、自分が悪い、神さまごめんなさいではなく、人のせいに、神のせいにしてしまった。そういう人間たちに対して、神は言われます。「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」(四・七)。

アダムとエバがそうだったように、私たち人間は悪いことが起こると、人のせいにしたり、神のせいにしたりします。しかし神が言われるように、そういう時に、罪が私たちのところに迫ってきているのです。私たちは罪を支配しなければならない。罪を支配し、コントロールし、罪を犯さないようにしなければならない。

結局、闘いは自分の問題なのです。自分のうちの罪との闘いです。誰かのせいにしていても、それは解決にならないし、誰かのせいにしようとするところに、罪との闘いの放棄があります。自分は悪くないのだ、悪いのは自分以外の誰かだ、そう思ってしまうところに、闘いは生まれません。いつまでも罪に支配されてしまう状況が続きます。

それではどう闘うのか。キリストの軛を負うことによって、闘うのです。自分一人でではなく、キリストと共に闘うのです。

一六節前半のところに、こうあります。「神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。」(一六節)。「生ける神の神殿」という言葉が出てきました。具体的にこれはどういうことなのでしょうか。

パウロがコリント教会へ宛てた手紙は、実際には複数あるようですが、聖書の中には、コリントの信徒への手紙一と二が収められています。私たちが今、御言葉を聴き続けているのは第二の手紙のほうですが、「生ける神の神殿」に関連することが、第一の手紙の中でも記されています。

まずは、コリントの信徒への手紙一の第三章一六節からのところです。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(Ⅰコリント三・一六~一七)。教会を建てる話が語られている文脈ですが、キリストが土台となり、その上に家が建てられていく。コリント教会のあなたがたがその神殿なのだとパウロは言うのです。

さらに、コリントの信徒への手紙一の第六章のところです。少し長いのですが、第六章一二~二一節を朗読します。

「「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント六・一二~二一)。

ここでは、キリスト者としての倫理が問われています。キリストに罪の赦しをいただいたのだから、何をしても自由なのだ。そのように、はき違えてしまう人がいたようです。しかしパウロは言います。キリストによって代価を支払って買い取られたのがあなたがたの体だから、娼婦と交わるようなことはしてはいけない。自分の体で神の栄光を現しなさい、なぜなら、私たちの体が聖霊の宿る神殿だからだ、パウロはそう言うのです。

コリントの信徒への手紙二に戻りますが、今日の聖書箇所では、パウロは「生きる神の神殿」(一六節)と言った後に、こう言っていきます。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。だから、あの者どもの中から出て行き、遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。』全能の主はこう仰せられる。」(一六~一八節)。

ここに出てくるのは、旧約聖書からの引用です。一箇所だけからの引用ではなく、複数個所を組み合わせて、引用がなされています。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書のレビ記もまた、その一つです。レビ記第二六章一二~一三節にこうあります。「わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしはあなたたちが奴隷にされていたエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしはあなたたちの軛を打ち砕き、あなたたちがまっすぐに立って歩けるようにした。」(レビ記二六・一二~一三)。

特に大事なのは、一三節です。神がエジプトでの奴隷の軛を打ち砕いてくださった、そういう恵みをすでに与えてくださったということです。その恵みを無駄にしない生き方が、レビ記には定められています。レビ記を読みますと、こういうことをしてはいけないとか、こうすべきだとか、戒め・掟と言えるものがたくさんでてきます。

しかし、神からすでに与えられた恵みが大前提です。新約聖書の言葉で言えば、キリストが私たちの罪の軛を打ち砕いてくださった、だから私たちもキリストの恵みを無駄にすることなく、生ける神の神殿として、キリストの軛を負おうではないか、

今日の聖書箇所の最後のところに、こうあります。「愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(七・一)。

今日の聖書箇所をめぐって、説教準備のために、いろいろな説教を読みましたが、竹森満佐一先生がこの箇所の説教の締めくくりとして、このように言われています。「キリスト教の信仰生活は、独自の聖さを持っていました。そのことで、有名であった、と言ってもいいのではないか、と思います。しかし、このところ、その特性が失われてきたように感じられます。ひとつには、余りに物分かりのいいものになって、世間との区別がつきにくくなったのではないでしょうか」。

ドキッとするような、なかなか鋭いことが指摘されています。かつては聖さがあった、しかし今はどうか。竹森先生がこの説教をなさったのは、戦後の昭和の時代です。しかし今もこの指摘を免れることはできていないと思います。なぜこのようになってしまったのか。「余りに物分りのいいものになって、世間との区別がつきにくくなった」と竹森先生は言われます。

竹森先生が何を言われているのか、はっきりとは言われていませんので、私たちの方で考えなければなりませんが、一つはっきり言えるのは、この世とうまく調和するすべを、身に着けすぎてしまったのではないか、ということです。身に着けすぎてしまったことによって、この世の同じ軛を負っても調和が取れてしまっているのではないか、そういう指摘です。

さらに竹森先生は、続けてこう言われます。「さらに、もうひとつは、信仰の中心が何であるかがぼやけてきているように思います。キリストの教えを信じるということの意味が分からなくなったのではないか、と思います。そのために、神を神とすることが弱くなり、そのために、神につける者としての聖さが、なくなってきたのではないか、と思います。救われた者は、自分の救いを全うするために、聖なる生活を、熱心に求めねばなりません」。

竹森先生は、この言葉で説教を終えています。神を神とする、そのことがぼやけてしまったのではないか、そういう指摘です。今日の聖書箇所の最後のところに、「神を畏れ」(七・一)とあります。これは神を恐がることではありません。そうではなくて、神への畏怖です。このような私を本当に救ってくださり、キリストの軛につないでくださり、聖霊の宿る神殿としてくださった。このことをしてくださった神を、まことの神として崇め、讃美し、礼拝する。その姿勢が、まことの意味で私たちを変えていくのです。