松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

facebook.png


HOME > 礼拝説教集 > 20170820

2017年8月20日(日)
説教題「信仰者の逆転の発想」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第6章1~13節

わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。

旧約聖書: コヘレトの言葉7:13~22

本日、私たちに与えられた聖書箇所の最初に、こうあります。「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」(一節)。

この手紙を書いたパウロが非常に強い言葉で語っている内容です。「恵みを無駄にするな」ということです。これは筆によって書かれた手紙ですが、パウロが誰かに口述筆記させたと言われています。この言葉を語る際に、おそらくパウロの口調も強くなったことでしょう。せっかくの恵みが与えられているのに、無駄にするな、その恵みを恵みとしていただきなさい、ということです。

例えば、こういうことを考えていただくとよいと思います。誰かが死んでしまう。特に若くして事故などで死んでしまう。そうすると、周りの残された者たちはこう問うにちがいありません。この死にはいったいどういう意味があるのか。この死を無駄にしないために、どういうことをしたらよいのか。残された者たちはそのように考え、行動をしていきます。残された者の生き方が問われているのです。

パウロがここで考えているのも、同じようなことと言えるでしょう。今日の聖書箇所の直前にはこうあります。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(五・二一)。

キリストが私たちの罪を担い、死んでくださいました。その死によって、私たちの罪が赦された。その恵みをいただいたのです。キリストの死を無駄にしないために、キリストの恵みを無駄にしないために、私たちの生き方が問われているのです。

ある説教者がこのことを解説して、こう言っています。マタイによる福音書に記されているキリストの言葉、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ五・四五)を引用し、こう言います。確かに神は誰にでも太陽の光を注ぎ、雨を降らせてくださる。そのような恵みを与えてくださる。しかしそれを恵みとして受け取らない限りは、恵みにはならない。私たちの恵みを無駄にしない生き方が問われているのです。

そしてパウロは続けてこう言います。「なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(二節)。

鍵括弧が付けられたところは、旧約聖書のイザヤ書からの引用です。イザヤ書は、預言者イザヤが語った言葉が収められていますが、イザヤ書の前提となっている歴史的な出来事は、バビロン捕囚であると言われています。イスラエルの人たちが、自分たちの国を滅ぼされてしまって、異国の地バビロンへ捕囚民となってしまった出来事です。そのバビロン捕囚が起こり、自分たちの故郷へ帰還していく中で語られたのが、このイザヤ書です。

「恵みの時」「救いの日」とはどういう時なのか。バビロン捕囚からの解放の時と考えることができるでしょうし、それ以前の神からいただいた救いの時とも考えることができるでしょうし、もっと先の終末の救い時とも考えることができるでしょう。

しかしパウロはこのイザヤ書の言葉を引用しながらも、本当に言いたいのは、その後のところの言葉です。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(二節)。過去のことでも未来のことでもなく、「今や」「今こそ」ということです。私たちも言える言葉なのでしょうか。どういうことなのでしょうか。

このことを考えるために、今から五百年ほど前の一つの論争を取り上げたいと思います。ドイツの教会を改革したマルティン・ルターが、一五二五年、『奴隷意志論』という論文を書きました。非常に強い印象を与える論文題ですが、人間の意志が奴隷状態にあるということです。

なぜルターがこのような論文を書いたのか。それは、前年の一五二四年、エラスムスという人が『自由意志論』という論文を書いたからです。エラスムスという人は、評価をするのが大変難しい人なのですが、最初はルターの改革に好意的だったと言われています。ところが、だんだんとエラスムスとルターの考えが相いれないものであることが分かってきました。この論争がその最たるものです。

どういうところが相いれないところだったのか。人間の自由意志についてです。人間は自由な意志を持っています。ロボットではありません。もちろんそのことはルターも承知していたことです。この自由意志を、エラスムスはかなり積極的に考えて生きました。人間の自由意志によって、人間は神から救いをいただくことができるし、救いから遠ざかることもできる。そのように自由意志にかなり重きを置いて考えたのです。

しかしルターはそれに反対でした。人間の自由意志が、人間の救いを左右するのではない。そうではなくて、神からいただく恵みによってのみ、ルターはそのように考え、エラスムスに反対する論文を翌年、書いたのです。

ルターの『奴隷意志論』という論文は、かなり長いものです。エラスムスが書いた分量の四倍も書いたと言われています。かなり丁寧な議論をしていますが、ルターが書いたことを、ある研究者が現代風に語り直してくれているものがあります(『説教黙想アレテイア』六七号、四四~四五頁)。それをもとにご紹介したいと思います。

まずは、エラスムスの考えですが、人間は自動車の運転手です。車が神から与えられています。ガソリンも与えられています。車検代も払う必要がありません。高速代も無料です。そのように無償でたくさんの恵みをいただいています。しかし、道路交通法という規則があります。その規則に則って、運転をしなければなりません。運転手の意志が問われています。運転手の自由意志によって、道路交通法を順守し、天国という目的地に着かなければなりません。これがエラスムスの考え方です。

これに対して、ルターの考え方はこうです。車に乗っていることでは同じですが、人間は運転手ではないのです。運転をしているのは誰なのかというと、なんとサタンなのです。行先は、天国ではなく、もちろん滅びに向かって車は進んでいます。確かに人間は自由意志を持っているかもしれませんが、ハンドルを握っているのがサタンである以上、どう転んでも滅びに向かってしまう。だからこの論文のタイトルが『奴隷意志論』となりました。

しかしここからがキリストの恵みになります。キリストがサタンを運転席から追い出してくださいました。そして運転席に腰を下ろし、ハンドルを握ってくださいます。運転手の交代が起こった。私たち人間はその車に同乗しているものです。そのありのままを私たちが受け入れること、それがキリストを信じて洗礼を受けることであり、ドライバーのキリストを信頼し、讃美歌を歌いながらドライブをしていく。行先は確実に天国になります。今はまだ途中であり、山あり谷ありかもしれません。しかし救いが確実な中でもドライブになるのです。

これが『奴隷意志論』の中でルターが主張したことであり、そして今日の聖書箇所でパウロが言っていることでもあります。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(二節)。まだ恵みの時が来ていないではないか、まだ救いの日に至っていないではないか、というのではないのです。ドライブ中であるかもしれませんが、しかしもうすでに救いが確実な中でのドライブです。「今や」「今こそ」と言えるのです。

そういう状況の中、車の同乗者としてのパウロの姿勢が、続く三節から四節にかけて記されています。「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。」(三~四節)。

「罪の機会」という言葉があります。とても興味深い言葉です。私たちが用いている新共同訳聖書は、少し意訳をしているところがあります。他の日本語のほとんどの翻訳の聖書は「躓き」と訳されています。つまり、躓きを与えないように、ということです。

ある人がこの言葉を解説して、このようい言っています。この言葉は、もともとは「打ち当たる」という言葉だったようです。そこから派生した言葉であり、「ぶつかることで相手を倒してしまうこと」という意味があるそうです。「ぶつかる」そして「倒れる」、その二つの動作が表されています。

この二つの動作ということが、罪の本質をよく表していると思います。罪というものは、いきなり生じるわけではないのです。何らかの原因となる出来事があり、実際の罪が生じてしまう。「罪の機会」という日本語の表現で言うならば、まずは罪の機会を与えてしまうような罪のチャンスがあり、そのチャンスをものにして、実際の罪が生じてしまうことです。

四節のところから、まさに「罪の機会」の出来事が記されています。「大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても」(四~五節)。これらはどういうことでしょうか。明らかに私たち人間にとって悪いことです。しかしこれらがいきなり罪になるというわけではありません。むしろ、こういうことにさらされた時に、罪にチャンスを与えてしまい、罪が生じてしまうのです。

例えば、何らかの苦難にさらされたとします。なぜこのような苦難を味わわなければならないのか、神を恨めしく思い、神から離れてしまい、自分が罪を犯すことがあるでしょう。そして自分だけでなく、人にも悪く当たってしまう、そういう実際の罪が生じてしまうのです。苦難が罪の機会となり、実際の罪を生じてしまうのです。

しかしパウロはこのように様々な「罪の機会」を語っていきながら、自分に与えられているものを思い起こして語っていきます。「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。」(六~七節)。

全部で八つのものが出てきます。最初の四つ、「純真、知識、寛容、親切」というのは、人間の自由意志によって何とかなると思ってしまうところもあるかもしれません。しかし、ある説教者が、これらのうちの真ん中のものが大事であると言っています。八つですから、厳密には真ん中とはならないのですが、後半の最初に「聖霊」とあります。そして「聖霊」に続いて「偽りのない愛、真理の言葉、神の力」と続いていきます。これらのものは決して、私たちの自由意志によっては生まれ得ないものです。前半の四つのものも同様です。

これらの恵みをいただいて、山あり谷ありの中をキリストに導かれてドライブをしていくことになります。「栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」(八~一〇節)。

私事になりますが、私が神学校を卒業する時に、神学校の教授たちからメッセージの寄せ書きをいただきました。その中の一つのメッセージが、こういうものでした。「悪評を受けても好評を博しても、ただキリストの僕として」。

パウロはコリント教会の初代牧師です。今は離れてコリント教会にこのような手紙を書いています。コリント教会の一部の人たちから、非難を受けていました。「好評」を受けることもあったでしょうけれども、この時は明白な「悪評」を受けていたのです。その点では、牧師も同じです。これから伝道者としての歩みを送っていく中で、いろいろな評価を受ける。しかしその評価に左右されるのではなく、ただキリストの僕として歩んでいって欲しい、そういうメッセージです。

このことは牧師に限ったことではありません。すべてのキリスト者にかかわることです。悪評、好評にかかわらず、罪の機会を与えないように、キリストが運転をしてくださる車の同乗者としての歩みを貫いていくのです。

今日の聖書箇所の最後に、こうあります。「コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。」(一一~一三節)。

心を広くしなさい、ということが語られています。頑なな狭い心を広くしたときに何が起こるか。キリストの恵みを受け入れることができます。キリストの恵みを無駄にしないということです。

先ほどの教授たちからのメッセージの中に、別のこういうメッセージがありました。「神は我々の生の重荷を取り除かれるのではなく、それを担う力を与えられる」。これはある神学者の言葉です。重荷がなくなるわけではない。悪評がなくなって好評ばかりになるわけではない。相変わらず山あり谷ありの中でのドライブです。

しかし、キリストが運転をしてくださるのですから、山あり谷ありの道を、必ず乗り切ることができます。乗り越えるだけの力を与えてくださいます。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(二節)、そのように讃美しながら、歩んでいくことができるのです。