松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年8月13日(日)
説教題「神との和解」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第5章16~21節

それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。

旧約聖書: イザヤ書1:18~20

本日、私たちに与えられた聖書箇所には、「和解」という言葉が何度も出てきます。今日の説教の説教題も「神との和解」と付けました。一八~二〇節のところに集中的に「和解」という言葉が使われています。

「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(Ⅱコリント五・一八~二〇)。

和解とは何でしょうか。和解を平たく言えば、仲直りすることです。二人の人がいて、一方が他方へ悪いことをしてしまい、両者の仲が悪くなってしまった。二人の関係が良好になるために、和解する必要があるわけですが、普通ならばどちらから和解を築き上げていくでしょうか。当然のことながら、悪いことをした方から、してしまったことを詫びるなりして、和解を築き上げていくはずです。

ところが、今日の聖書箇所で、この手紙を書いたパウロは、神はそうではないと言われるのです。神と人間との間の関係が悪化してしまった。そうである時に、神がご自分の方から和解を築き上げてくださった。キリストによる和解を造り出してくださった、と言うのです。

悪いこと、と申し上げてきましたけれども、今日の聖書箇所の言葉で言えば、罪ということです。人間が罪を犯してしまった。その責任は普通ならば誰が負うでしょうか。当然ならば、罪を犯した人が責任を負うはずです。しかし二一節にこうあります。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(二一節)。

キリストの十字架のことが言われています。キリストが私たちの罪を代わりに背負ってくださり、十字架にお架かりになってくださったのです。それゆえに、私たちの罪がなくなりました。義を得た、ということです。それゆえに、神との和解が成り立ったのです。

私たちの国で八月は特に平和について考えると時です。かつて、悪いことがなされてしまった。どう考えても正当化することができないようなことがなされました。それは、神に対して申し訳ないことでもあります。罪を犯してしまったということです。その責任をどう考えればよいでしょうか。

ドイツの戦争中の時代を生き抜いた人に、マルティン・ニーメラーという人がいます。『信徒の友』八月号に、このニーメラーの言葉が紹介されていました。

「ナチが共産主義者を襲ったとき、自分はやや不安になった。けれども結局自分は共産主義者でなかったので何もしなかった。それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども依然として自分は社会主義者ではなかった。そこでやはり何もしなかった。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかった。さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であった。そこで自分は何事かした。しかしそのときにはすでに手遅れであった。」(『信徒の友』八月号、一四~一五頁)。

これは、ニーメラーの一九五五年の言葉と言われています。戦後の言葉であり、戦争前のことを振り返って語った言葉です。ニーメラーの悔い改めの言葉でもあると思います。

ニーメラーは、ドイツの首都ベルリンの教会の牧師でした。ドイツの首都ベルリンに、ダーレムというところがあります。二〇世紀初頭までは農村地域でしたが、高級住宅街として開発がなされ、そこに大きな教会堂が建てられます。その地域には、政治家、実業家、学者、芸術家が多く住んだようです。

ユダヤ人もそこに住んでいました。ユダヤ人からキリスト者になった者も多く、ダーレムの教会の教会員にもいたのです。一九三三年、ヒトラーが権力を掌握します。ヒトラーは教会からユダヤ人を追い出すことを求めてきます。そういうヒトラーを支持するか、それとも反対するか、ドイツの教会全体が割れていくのです。

ニーメラーはダーレムの教会の牧師でした。先ほどのニーメラーの言葉では、自分は何もできなかったと語っていますが、実際にニーメラーは反ヒトラーとの闘いの先頭に立つのです。国家警察の厳しい監視の下に置かれることになります。ニーメラーの行動、ニーメラーの語った言葉など、厳しく監視される中、闘いが続いていきます。

一九三四年のことになります。反ヒトラーの立場に立った者たちが、「バルメン宣言」という宣言文を出します。「バルメン宣言」の第一条項は、このような文章です。少し長いのですが、引用します。

「「わたしは道であり、真理であり、命である。だれもわたしによらないでは、父のみもとに行くことができない」(ヨハネによる福音書一四・六)。「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た人は、みな盗人であり、強盗である。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハネによる福音書一〇・七、九)。聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、また生きているときにも死ぬときにも、信頼し、服従すべき、唯一の神の言葉である。教会が、この唯一の神の言葉以外に、またそれと並んで、別の出来事、さまざまな力、人物、諸真理をも神の啓示として承認し、宣教の源泉とすることができるし、そうしなければならないと教える過った教えを、われわれは却ける」。

明らかにこれはヒトラーのことが意識されている宣言文です。ヒトラーの権威に従うのではない。我々が従うべきは神の言葉のみだと言っているのです。ニーメラーはこの「バルメン宣言」をもとに、ヒトラーとの闘いを闘っていきます。権力者のいかなる力によってでもない。神の言葉のみで、説教だけで立って行くと言うのです。一九七三年、ニーメラーは逮捕されます。戦争が終わる一九四五年まで、収容所に入れられることになったのです。

戦争の時代が終わります。当たり前のように、ドイツの国家やドイツの教会が復興していくわけですが、ニーメラーは単純な再建を批判します。国家も教会も、明確な悔い改めをしないまま再建することを鋭く批判するのです。私たちの日本もそうです。私たちは今もニーメラーのこの批判に明らかに答えることができていません。

悔い改めというのは、私たちの信仰にとって、一番大事な部分です。信仰を持つとは、すなわち、悔い改めるということです。悔い改めとは、自らの罪を認め、平たく言えば、神さまにごめんなさいと言うことです。そのようにして、神が造り出してくださった和解によって、神と和解することができます。私たちは悔い改めて、神の和解の中に飛び込んで行くことができるのです。

今日の聖書箇所の一七節のところに、新しさに関することがあります。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(一七節)。

ここで言われている新しさとは何でしょうか。洗礼を受けて、キリスト者になる。しかしキリスト者になったからと言って、自分がちっとも変っていない。ちっとも新しくなっていない。そう思われる方もあるかもしれません。

しかしここで言う新しさとは、そういう新しさのことではなく、キリストによって罪の赦しをいただいた、今までは神とちっとも良好な関係を築いてこなかったのに、神と和解をすることができた。そういう新しさです。和解をいただいた者として、新しく再創造されたということです。

先ほどもお読みしましたが、続く一八節で言われているのも、大事なことです。「これらはすべて神から出ることであって…」(一八節)。私たちが新しさを造り出したのではありません。神が罪の赦しの道を、和解への道を拓いてくださったのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書のイザヤ書には、預言者イザヤを通しての神からの呼びかけの言葉が記されています。「論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。」(イザヤ書一・一八)。

緋というのは、真っ赤ということです。緋であっても、紅であっても、そのように罪を犯し、真っ赤に血で染まっていたとしても、雪のように、羊の毛のように白くなることができる。イザヤ書はこの第一章に始まり、第六六章まである長い書物ですが、預言者を通して一貫して語られていることは、罪を認め、神のもとに立ち返れ、ということです。今日のコリントの信徒への手紙二の聖書箇所で言えば、神と和解させていただきなさい、ということです。人間の力によるのではありません。神がそのような道を拓いてくださるのです。

コリントの信徒への手紙二に戻りますが、和解をさせていただいた者の生き方が、記されています。「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」(一六節)。

ここに「肉に従って」という言葉があります。「肉に従って」キリストを知ることもしないし、「肉に従って」誰をも知ろうとしないということです。いったいどういうことでしょうか。

「肉に従って」という言葉は、新改訳聖書では「人間的な標準で」と訳されています。あるいは、かつて今の私たちが使っている新共同訳聖書が出る前に、共同訳という試用版の翻訳が出ましたが、その共同訳では「人間的な尺度で」と訳されていました。

そういう翻訳をもとにして考えていくと、どうもここでパウロは、人間的なものの見方によって、キリストを見たり、人々を見たりすることをしないと言っていることになります。そうではなく、そういう見方をやめて、信仰者として新しいものの見方で見る、と言うのです。信仰的な視点ということです。

パウロは、かつては教会の迫害者でした。なぜ迫害者だったのでしょうか。それは、イエスという十字架で死刑になったような男がメシアであるはずがない、そんなことはとんでもないことだ、そう考えていたからです。人間的に、いわば「肉に従って」キリストを見ていたことになります。

しかしそのパウロが、復活の主イエスと出会います。「肉に従って」ではなく、その反対のいわば「霊に従って」、キリストを見るようになった。私は教会の迫害者だったけれども、そんな罪を犯した者だったけれども、神からの憐れみを受けて、悔い改めて、今の自分がある。人間的な見方では、もはや見ることはないと言っているのです。

パウロもこのようにして、神と和解させていただいたのです。キリストと出会うことによって、ものの見方が変わっていったのです。キリストに対する見方も変わりました。そして、神に和解させていただいた自分自身に対する見方も変わりました。そして、コリント教会の人たちにも呼びかけているのです。「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」(二〇節)。

コリントの信徒への手紙二の説教の中でも、これまで何度も繰り返し申し上げてきたように、この時、パウロとコリント教会の人たちとの間に、深刻な亀裂が入っている状態でした。パウロはコリント教会の創設者です。今はコリント教会を離れています。ところが、パウロの最初の教えから離れ、パウロを非難する者たちが、教会の中に現れてしまっているという状況でした。

人間的な見方からすれば、とても赦し合えないような状況だったと言えるでしょう。しかしパウロとコリント教会の人たちが本当の意味で和解するために、パウロは「神と和解させていただきなさい」(二〇節)と言うのです。私も和解させていただいた、あなたがたもすでに和解させていただいたはずだし、その和解の中に立ち続けるべきである。パウロはそのように言い、そこでこそ、コリント教会の人たちとの一致点を見いだしているのです。

私たちも同じです。私たちが誰かと本当の意味で和解したいのであれば、どうすべきでしょうか。いろいろな和解が私たちには必要です。家族と和解する必要があるでしょう。友と和解する必要があるでしょう。かつての戦争によって、和解する必要もあります。

本当の和解を得たいのであれば、まず自分が神と和解させていただくことです。神に悔い改め、神さまごめんなさいと言い、神と和解させていただくことです。神は赦してくださいます。神との関係が必ず健全になることができます。そのことが、様々な和解の実を、私たちの周りに生み出していくことになります。

赦しがあり、和解があるところに、まことの平和が生まれていきます。この世の中に本当の平和を実現するためには、教会が伝道をする以外に、その道はないと思います。教会だけが、キリストによる神との和解を宣べ伝えることができます。キリストの平和とはまさにそのことなのです。

マルティン・ニーメラーが、戦後、教会に明確な悔い改めを求めた理由がそこにあります。神は赦してくださる神です。悔い改め、神の和解の中に飛び込むこと以外に、私たちが新しくなることできる道はないのです。