松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


HOME > 礼拝説教集 > 20140608

2014年6月8日(日)
説教題「神と和解しよう」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第5章16〜21節

それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。

旧約聖書: 創世記 第6章5~8節

先週の礼拝の報告のところで申し上げましたように、先週の月曜日から木曜日にかけて、名古屋で行われた説教塾のセミナーに出席をしてきました。三泊四日、泊まり込みで、説教の学びをいたします。指導をしてくださったのは、私たちの教会とも親しい交わりにあります加藤常昭先生です。それ以前にもお招きをしたことがありますが、二年前にも松本東教会にお出でいただき、そのときは慰めについて学ぶことができました。

加藤常昭先生から、毎年、クリスマスカードをいただきます。カードとは言っても、近況が書かれた文章と写真が印刷されている一枚の紙でありますけれども、毎年、一番目立つところに掲示しています。お読みになられた方も多いと思います。写真にもお二人でお写りになっていましたが、加藤常昭先生のお連れ合いのさゆり先生が、厳しい戦いの中に置かれています。死との闘いです。名古屋のセミナーを無事に行えるかどうかも危うい状況でした。セミナー前に地上の命が尽きるのではないかという話も医者から出たことがあるのだそうです。

そんな加藤先生ご夫妻のところに、訪問者がしばしば来られます。そうすると訪問者が祈りをしてくださることがあるのだそうです。セミナーの最中で伺った話ですが、「さゆり先生がどうぞ癒されますように」と祈られたとしても、なかなかアーメンと言うことができないのだそうです。なぜなら、もはや癒されることはない、確実に間もなく死がやって来るからです。信仰なき現実主義者はきっとこう言うでしょう。「伝道者夫婦として、元気なうちは立派なことを言っていたかもしれないが、結局、最期はこうして死の現実から逃れられないのですね」、と。

けれども加藤先生は、もちろんそうは考えないわけです。私たちキリスト者も同じです。確かに死に直面しているかもしれない。死が間もなくやって来るかもしれない。しかし死に直面しながらも、死では終わらない命がここにある。そう信じているのです。松本東教会の献金感謝の祈りにも、そのことがよく表われています。「わたしたちは生きるときも死ぬときも、体も魂もすべてあなたのものです」。現実主義者とは違う考えに、信仰者は生きているのです。

考え方は二つに一つです。現実主義者のように、どうせ私たち人間は死に支配されている、いくらきれいごとをならべても最期は死に終わるのだ、それが本当の現実の世界なのだと考える。それが一つの世界に対する考え方です。しかし信仰者はそう考えない。死に打ち勝つ、生の現実がある。生の現実こそが本当の世界なのだ。そのように考え、信じる。そのような二つの道があり、二つの世界があるわけです。死の世界と生の世界。皆さまはどちらの道を歩みたいでしょうか。どちらが本当の現実の世界なのでしょうか。

聖書ははっきりとした答えを持っています。この世界は死の世界ではない、生の世界だという答えです。本日、私たちに与えられた聖書の箇所に「世」という言葉が出てきます。「世界」の「世」の字です。聖書の元の言葉であるギリシア語でも、また英語でも、コスモスという言葉です。世界というよりも、宇宙にまで広げることができる言葉です。

「世」という言葉が出てくる一九節に何と書いているかというと、こうあります。「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ…」(一九節)。神が和解した相手は「世」であると、この節は言うのです。「私」と書かれるのでも、「私たち」と書かれるのでもありません。「世」です。けれども「私」や「私たち」とは和解しないのではなく、「世」と和解することにより、「世」に属する者との和解もそれに伴ってくると考える。ここではとてもスケールの大きい話が語られているのです。

松本東教会ではここしばらく、使徒言行録から御言葉を聴き続けています。教会とは何か、最初期のキリスト者たちはどのように伝道したのか。私たちの教会もその原点に返る思いで、御言葉を聴いてきました。先週は第二三章の箇所でした。第二八章までですから、もう終わりが見えています。使徒言行録の次は、どこから御言葉を聴いていくのか。先週の長老会で決めましたが、八月中旬から、ヨハネによる福音書から御言葉を聴きたいと思っております。

長老会で、なぜヨハネによる福音書なのかという話をいたしました。やはり私たちの救い主がイエス・キリストだからです。当たり前のことですが、大事なことです。イエス・キリスト抜きで私たちが信仰的な話をしようとしても、そこに解決の道はありません。やはりイエス・キリストに救っていただかなければならない。特にヨハネによる福音書は、他の三つの福音書と比べて、独特な響きを持っています。私たちがよく知っているような話も記されています。けれどもヨハネによる福音書では、ただその話だけでは終わらせず、その話をめぐっていろいろな対話がなされます。本当にこの方がメシア、救い主だろうか、そのことをめぐっての対話です。この福音書から御言葉を聴くことによって、私たちの救い主が本当にイエス・キリストなのだということを、改めて聴きたいと願っています。

先週の長老会では、あまりはっきりと申し上げませんでしたが、ヨハネによる福音書から御言葉を聴くもう一つの理由を、今日、挙げることができます。今日の説教の中に出てくる「世」という言葉が、ヨハネによる福音書の中に、実にたくさん出てくるのです。あまりにも「世」という言葉が多すぎて、どの箇所を取りあげようかと悩んだのですが、ここでは二箇所を挙げたいと思います。

まずはよく知られている箇所ですが、第三章一六節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ三・一六)。これに続く箇所も合わせてお読みします。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ三・一七)。神が愛されたのが「世」であり、「世」を救うために御子イエス・キリストを遣わされたのだと言われています。

もう一箇所ですが、第一六章三三節です。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ一六・三三)。主イエスが十字架にお架かりになる直前に言われた言葉です。「世」には確かに苦難があるかもしれない。しかしその「世」にすでに勝っていると主イエスは言われます。

松本東教会は今年度、教会設立九〇周年を迎えます。そうなると、九十年代の最初の三~四年くらいは、ヨハネによる福音書から御言葉を聴くことになります。私たちの教会が、決して「世」から切り離されたものとしてではなく、隔離されたものとしてでもなく、この「世」とつながり、開かれた教会であることを覚え、御言葉を聴きたいと願っています。私たちは世捨て人になるのではない。世のただ中に立つのです。ヨハネによる福音書には、その「世」という言葉がたくさん出てくる。イエス・キリストによって救われた「世」であることを覚えたいと思います。

このように信仰者は、世界を単に人間の物差しで見ることはしません。世界の見方が変わってくる。このことに関して、説教塾のセミナーの中で、興味深い一つの話を聴きました。あるドイツの神学者が、ドイツの地方新聞に書かれていた記事に目を留めた。その記事にはこんなことが書かれていたそうです。

この記事は一九五三年の新聞の記事です。日本に関することが書かれていました。一九五三年というと、戦争が終わってから八年後ということになります。戦争が終わってから、ずいぶん長い期間は経過していましたが、その頃も日本はまだ戦争が終わったことを知らない敗残兵の問題を抱えていました。戦争中、東南アジアにまで進出していたわけですが、ラジオもなければ新聞もない。つまり戦争が終わったことを知る由もないのです。未だに戦争が続いていると思っている敗残兵がいる。ジャングルの中でおびえながら生活をしている。そんな旧日本軍の兵たちが見つかったという記事です。

しかし日本政府はその敗残兵に手を焼くことになりました。うかつに近づくわけにはいかない。まだ戦争中だと思っているわけです。のこのこと近づいて行けば、攻撃を仕掛けてくるかもしれない。場合によっては自ら命を絶たれてしまうかもしれない。そこで日本政府はどうしたのか。そのジャングルの中に、ひそかに新聞と白旗を置いてきたのだそうです。新聞には、戦争が終わったのだという記事が書かれています。白旗は、ジャングルから出て来るときに掲げるためのものです。その二つの道具を敗残兵のために残してきた、そんな記事です。

実際にその後、どうなったのか、私はよく分かりません。しかしドイツの地方新聞に載せられていたこの記事を読んで、ドイツの神学者は「ああ、これだ」と思った。コリントの信徒への手紙二の第五章に記されている、神との和解とは、まさにこのようなことだと直感したのです。私も新聞をけっこう丁寧に読みます。世の中の動きをただ知るために読むのではなく、この世を聖書的に、信仰的に捉えるために、新聞を読むのです。このドイツの神学者も同じでした。敗残兵はジャングルの中に潜んでいました。それが本当の世界だと思っていたのです。しかしそれは本当の世界などではなかった。本当の世界とは、戦いが終わった世界です。白旗をあげて、本物ではない世界から本物の世界へと出てくる。そのように神に対して参ったと降参をして、本当の世界へと生きるようになる。それが神との和解だと、この神学者は考えたのです。

また別の神学者は「信仰とは目覚めであり、気付きである」と言いました。信仰とは目覚め。今までは眠っていたかもしれないけれども、そこから目覚める。眠っていたときも、そして目を覚ましてからももちろんそうですが、本当の世界がすでにあったのです。ずっと続いていたのです。眠っていただけで、それに気付いていなかっただけなのです。目覚めて、気付いて、今までもずっと存在していた本当の世界に生きることが、信仰を持つことなのです。

その本当の世界こそが、一九節に書かれている世界なのです。「神はキリストによって世を御自分と和解させ…」(一九節)。「和解させ」という言葉は、元の言葉では現在形で書かれています。今現在、もうすでに和解が成り立っている世界です。その世界のことはジャングルの中では分からなかった。しかしジャングルを抜けたところに、実は神との和解が成立していた世界があった。これが本当の世界なのです。

和解という言葉が、本日、私たちに与えられた聖書の箇所の中で、何回も使われています。聖書の中でも、とても重要な言葉です。以前、私は別の教会の方から、こんな手紙をいただいたことがあります。その方は、たまたま私が以前した説教を読む機会があり、その説教を読んだ感想を書いてくださいました。「久しぶりに、和解の説教を聴くことができて嬉しい。最近の教会では、ちっとも和解という言葉を聴かなくなった」、その手紙にはそう書かれていました。

この手紙を読んで、いろいろなことを考えさせられました。和解が重要なのは言うまでもありません。しかし重要であるはずのことが、なかなか礼拝の説教の中で語られない。私も含めてですが、説教者として反省をさせられました。あるいは単に説教者だけの問題ではないのかもしれません。その方が手紙を送ってくださった説教を読み返し、そのときの聖書の箇所を改めて読んでみたのですが、新共同訳聖書には「仲直り」と訳されていました。他の翻訳の聖書にはほとんど「和解」と訳されています。「和解」という言葉も、聖書の中からだんだんと存在感がなくなってしまったのかもしれません。

世間一般でも「和解」という言葉が使われています。たいていは裁判に関連して使われます。争っていた当事者同士が和解をした。一方が他方に和解金を支払った。そんなニュースをよく耳にします。しかし和解とは言っても、本当に当事者同士の関係が回復したかと言うと、そんなことは珍しいケースだと思います。お金でとりあえず解決した、関係は疎遠なまま。世間一般ではそうだと思います。

しかし聖書の和解は違います。和解とは、一九節では世との和解となっていますが、神と人間との和解です。和解がなされると神と人間との関係が正常な関係に回復されます。私たちの救いに直結する話になります。だから聖書に出てくる和解は重要なのです。

皆さまは和解と言われてピンとくるでしょうか。和解という言葉が、仲直りと訳されていたように、神と私たちがいわば喧嘩をしていた。そんなふうに考えられる。神と喧嘩をしていた、仲が悪かった。そういう実感はあるでしょうか。ピンとこない方も多いと思います。

このことを深く考えるために、私たちの信仰の筋道を語っている『ハイデルベルク信仰問答』という本から、一部を引用したいと思います。問いと答えから成る問答集です。今日の話と関連のある問四と問五を取りあげます。

問四 神の律法はわたしたちに何を求めていますか。
答え それについてキリストは、マタイによる福音書二二章で次のように要約して教えておられます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

問五 あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか。
答え できません。なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです。

ここで言われているように、聖書を読んでいますとしばしば、神を愛し、隣人を自分のように愛せよと言われています。なるほど、そのように生きるべきなのかと私たちも教えられます。しかし問五では、完全に行うことができないと、それは神と隣人とを憎むことである、しかも生まれつきそのように心が傾いているとさえ言われてしまいます。

あなたは神や隣人を憎んでいるのだと言われて、反発を覚える方もおられると思います。でも問五の答えには続きがあります。「神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです」。「傾いている」と言われています。例えば、天秤にかけることを考えてみる。自分と神を天秤に乗せる。自分と隣人を天秤に乗せる。どちらに傾くでしょうか。私たちは隣人を自分のように愛することの難しさを知っている。否応なく、自分の方に傾きます。自分に重きを置いているからです。このことを否定することができる者はいないと思います。

『ハイデルベルク信仰問答』はこのことを、結局、神や隣人を憎むことになるのだと言うのです。自分が重んじられないと、神さまなぜですかと、なぜ自分よりも隣人が重んじられるのですかとつぶやいてしまうのです。それが人間の生まれつきの罪の性質であり、心が憎む方へと傾いているのだと、『ハイデルベルク信仰問答』は人間のことを理解しているのです。

再び一九節に戻ります。先ほどからお読みしている箇所の続きも読みます。「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく…」(一九節)。神は真剣に私たち人間の罪と向き合われます。曖昧なまま、水に流すことはなさいません。罪の問題を解決するために、神は行動されます。実はかつて、神は人間に責任を問うたことがありました。

本日、私たちに合わせて与えられた聖書の箇所は、旧約聖書の創世記の箇所です。ノアの洪水の話、その序文のようなところです。与えられたのは第六章の五節から八節ですが、まずは五節から七節を改めてお読みしたいと思います。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」」(創世記六・五~七)。神がこのように言われた後に、実際にノアの洪水の話が始まっていきます。

皆さまはこのノアの洪水の話をどのように受け止められるでしょうか。いろいろな受け止め方があると思います。神がご自分のお造りになった世界を洪水によってなくしてしまわれた。確かにノアの家族など、ごく一部は残されたかもしれないが、神がこんなひどいことをなさるなんて、そう思われる方もあると思います。

しかしです。悪い人間に罪の責任を問い、洪水で流してしまった。善い部分だけが残ったはずだ、そう思ったら、実際にはそうではなかった。また人間の罪の歴史が、この後で再び始まってしまったのです。結局、人間に罪の責任が課されても、人間自身では負いきることができなかった。罪の根は深かった。そんな物語として、ノアの洪水の話を読むことができると思います。

そこで、先ほどお読みしなかった箇所、第六章八節に目を留めたいと思います。「しかし、ノアは主の好意を得た。」(創世記六・八)。一方では洪水で流されてしまう話が起こりながらも、他方ではノアが基となって祝福の物語が始まっていくのです。洪水のような形での解決方法ではない。どうしても罪の方に心が傾いてしまう私たち人間の祝福物語が始まるのです。そのことが、コリントの信徒への手紙二に戻りますが、今日の箇所の一九節に書かれていたことです。一九節だけでなく、二一節にもさらに展開されて書かれていることです。「人々の罪の責任を問うことなく」(一九節)、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(二一節)。

「罪と何のかかわりもない方」、イエス・キリストが十字架で罪ある方とされた。反対に罪とかかわりのあった私たちが、自分でその責任を負うのではない。実際に負いきれなかったわけですが、なんと、その責任を免れることができるようになった。そのようにして和解が成立したのです。和解の成立後は、罪はもう過去のものとして、過ぎ去ったものになったのです。

このようにして、イエス・キリストによって、すでに世界が変わりました。和解のある世界になりました。神と私たち人間との関係も正常に戻されました。罪も死も、もはや実体はありません。私たちを支配するものではなくなりました。そんな本当の世界に生きるように、パウロがコリント教会の人たちに手紙の中で書いたように、私も皆さまに申し上げたい。「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」(二〇節)。

皆さまの足もとに新聞が落ちています。それは聖書に他なりません。拾って読みましょう。罪や死との闘いがイエス・キリストにおいて終わったと書かれています。皆さまの足もとに白旗が落ちています。拾って掲げてジャングルを出ましょう。新しい世界、キリストが救ってくださった本当の世界へと出て行きましょう。