松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年7月23日(日)
説教題「キリストの愛に駆り立てられて」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第5章11~15節

主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

旧約聖書: 列王記上8:27~36

本日の礼拝は、献堂記念礼拝です。私たちが今、礼拝を行っていますこの会堂は、一九八〇年七月に与えられた会堂です。今年で三七年目になります。今から三七年前の七月末に、「会堂落成祝謝会」が行われました。そのことにちなんで、毎年七月末の日曜日に、献堂記念礼拝を行っています。

毎年のこの礼拝で引用していますが、当時の牧師であった和田正先生がこのようなことを言われました。「会堂のあることによって信仰の堕落を恐れることを考えると今なお消極的にならざるを得ない」。

和田先生のこの言葉は、さあこれから会堂を建てようとしている時に、言われた言葉です。さらにはこのようにも続けて言われています。「会堂が出来たからと言って教会の問題が解決するとは思っていません。会堂を生かすも殺すも、信仰次第だと思います」。

私たちの教会は、九三年の歴史を数えるようになっていますが、三七年前に会堂を持つまでは、一度も自分たちの会堂を持たなかった教会です。松本東教会を他教会の方々にご紹介する際に、そんなことを申し上げると、よくそれで教会としてやって来ることができましたね、と感心されることがあります。私たちの教会は会堂なしで、それでも教会としてやって来たのです。和田先生が言われるように、信仰一本で建ってきた教会なのです。

それが今や目に見える教会堂が与えられるようとしている。当時の教会の方々にとっては悲願だったわけですが、和田先生がこのような言葉を言われた。信仰一本でやって来た。目に見える会堂ができても、そのことは揺らいではいけない。大事なことを説いている言葉であろうと思います。

私たちの教会が大事にしてきた信仰とは何か。改めて今日はそのことを考えてみたいと思います。本日、私たちに与えられたコリントの信徒への手紙二の聖書箇所には、信仰という言葉こそはないかもしれません。しかし、私たちの教会がどういう信仰に立ってきたのか、そのことをこの聖書箇所から聴き取りたいと思います。

今日の聖書箇所の最初のところに、「畏れ」という言葉が出てきます。「主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。」(一一節)。

聖書では「畏れ」という漢字が使われています。日本語では「畏れ」と「恐れ」、二種類のものを当てはめることができます。聖書の元の言葉は、こういう使い分けをしているわけではありません。同じ一つの言葉しかないのです。しかし日本語訳にする時は、その時の文脈に応じて、使い分けているところがあります。

この「畏れ」という言葉、神への畏れというわけですが、元の言葉からしても「恐れ」と同じことを表しているわけです。そうだとすると、私たちは神への恐怖心を持たなければならないということでしょうか。そうではありません。ある人が、この箇所を解説して、このように言っています。「ここでの畏れは、平安のうちにある畏れだ」。私たちは神に一切を知られています。もうひた隠しにする必要はありません。そういう安心感があるのです。

私たちは、様々な恐れを恐れます。どういうことを恐れるでしょうか。いろいろな恐れがあるでしょうけれども、大きな恐れの一つは、自分のことが知られてしまうことです。自分のやましいこと、隠したいこと、そういう部分を私たちは持っています。何もかも知れられてしまっては困るのです。隠しておきたいことが知られてしまう恐れです。今の時代はプライバシーということが盛んに言われます。自分の情報が知られてしまう恐れを私たちは知っています。

一二節のところにも、こういう言葉があります。「わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。」(一二節)。

ここに「内面」、「外面」という言葉が出てきます。元の言葉では単純な言葉で、「内面」は心、「外面」は顔という言葉です。「内面ではなく、外面を誇っている人々」とはどういう人たちなのか、はっきりとは分かりませんが、パウロたちのことを非難し、誤った信仰をコリント教会に持ち込んでしまっている人たちではないかと言われています。そういう人たちは、「顔」をきれいに装うけれども、「心」を整えることが二の次になっている。本当の自分を見破られてしまう恐れに駆られている、ということにもなるでしょう。

しかしパウロは、顔を飾るのではなく、心のうちをきれいにしなさい、と言っているわけではありません。そうではなく、神にもうすべてが知られていることを告げるのです。先ほどの「平安のうちにある畏れ」と言った人が、さらにこう言っています。「神にすべてを知られているというのは、ある種の安心感を持つことができる」。

先週、葬儀を行いました。教会員の方ではありませんでしたので、いつものように電話連絡網でお知らせするということはありませんでしたが、教会員の親族の方です。まだお若い方でした。半年ほど前に、ご家族の方から相談を受けていました。自分の娘に重大な病が発覚した。もしもの際には、葬儀をお願いしたいというご相談です。闘病生活を続けておられましたが、ついに先週の月曜日に召され、先週の水曜日に前夜式、木曜日に葬儀を行いました。

葬儀の礼拝では、二箇所、聖書箇所をお読みし、御言葉を語りました。二番目にお読みしたのが、ルカによる福音書第七章にある、ナインの町のやもめの一人息子が死んでしまい、葬儀がなされているところに主イエスが来られ、一人息子を生き返らせた奇跡の話です。その聖書箇所の中に、こういう記述があります。「主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。」(ルカ七・一三)。

先週の葬儀では、多くの涙が見られました。まだお若い方です。信じ難い思い、受け入れ難い思い、切ない思いがあったでしょう。かつてのナインの町でやもめの一人息子が死んだときのように、この時も多くの方が涙を流されていました。しかし葬儀の時に、外面を装う必要はないのだと、私は思います。悲しければ涙を流してもよい。そのありのままを、主イエスが見ていてくださいます。ナインの町でそうだったように、主イエスがありのままを見ていてくださる。パウロが言うように、ありのままに知られている恵みがあるのです。

コリント教会へ手紙を書いたパウロは、かつては教会の迫害者でした。しかし復活された主イエス・キリストと出会い、伝道者になりました。パウロは自分の過去を振り返って、このように書いています。

「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」(Ⅰテモテ一・一二~一六)。

聖餐式の際にも、この聖書箇所の一部を読むようにしています。パウロが年若い伝道者テモテに、主イエスが自分にこのように働いてくださった、その恵みを語っています。パウロはキリストによって、すべてを知られ、そしてすべてを含めて受け入れられているのです。「神にはありのままに知られています。」(一一節)とパウロが言っている通りです。

「ありのまま」というのは、世間でもよく聞く言葉かもしれません。しかし聖書が言う「ありのまま」というのは、自分らしくあれとか、ましてや欲望のままにとか、罪のままにということではありません。こんな私であるかもしれないけれども、こんなに罪深い私であるかもしれないけれども、主イエスのまなざしが注がれている、神によって今生かされている、そのありのままの自分です。

パウロは、神にありのままに知られているように、コリント教会の人たちにもありのままに知られたいと願っています。プライバシーも何もかも明らかにして、ということではありません。そうではなく、こんな自分だけれども、神の恵みが現れている、主イエスの憐れみのまなざしが注がれている。装われた外面ではなく、キリストによって変えられたその内面を、心を知って欲しいと言うのです。

コリント教会の人たちがパウロの内面を見たとして、コリント教会の人たちがいったい何を知ることができるでしょうか。何を見ることができるでしょうか。それは、キリストの愛です。一四節にこうあります。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」(一四節)。

「駆り立てている」という訳になっています。昔の文語訳聖書では「キリストの愛われらに迫れり」となっていました。この言葉は、駆り立てるの他に、取り囲む、捕まえる、挟むというような意味があります。駆り立てるというのでは、少しニュアンスとしては弱いかもしれません。

私の説教の先生でもありますが、加藤常昭先生という方がおられます。加藤先生ご自身から伺った話ですが、加藤先生が青年だった時代、この箇所に関する説教を聴かれた時の印象深い話があります。文語訳聖書では「キリストの愛われらに迫れり」となっていますが、「迫る」というのは「挟む」とも訳すことができます。その説教者は「キリストの愛われらを挟めり」と言い、自分の顔を左右の手で挟むようにして、語られた。その時の強烈な印象を持たれたそうです。

パウロがここで言っているのもまさにそのことで、キリストの愛に私たちが完全に挟まれている状態なのです。パウロは同じ言葉を使って、自分は今「板挟みになっている」とも語りました。キリストの愛が原動力となっているパウロの姿を見ることができますし、それはパウロだけでなく、すべてのキリスト者の間で、キリストの愛が二千年経った今でも現れているのです。

このことに関して、ご紹介したい言葉があります。今から二百年ほど前になりますが、ナポレオンという人がいました。最初は一軍人に過ぎなかった人ですが、頭角を現し、勝利を重ね、ついには皇帝にまでなった人です。しかし戦いに敗れ、失脚し、最後はセントヘレナ島という大西洋の島に幽閉されます。そこで生涯を閉じることになります。

そのセントヘレナ島で、ナポレオンは遺言を残しています。ある牧師が翻訳をしてくれましたので、少し長いですが、それを引用したいと思います。

「私は、大胆に、キリストを信じますと、大声で告白できなかった。そうだ、私は、自分がクリスチャンであると、告白すべきだった。今、セントヘレナにあって、もはや遠慮する必要はない。私の心の底に信じていた事実を告白する。私は、永遠の神が存在していることを信じる。その方に比べると、バートランド大将よ、貴方はただの元首に過ぎない。私の天才的なすべての能力をもってしても、このお方と比較する時、私は無である。完全に無の存在である。私は、永遠の神キリストを認める。私は、キリストを必要とする。私は、キリストを信ずる。私は、今セントヘレナの島につながれている。一体誰が、今日私のために戦って死んでくれるだろうか。誰が、私のことを思ってくれているだろうか。私のために、死力を尽くしてくれる者が今あるだろうか。昨日の我が友はいずこへ。ローマの皇帝カイザルもアレクサンダー大王も忘れられてしまった。私とて同様である。これが、大ナポレオンとあがめられた私の最後である。イエス・キリストの永遠の支配と、大ナポレオンと呼ばれた私の間には、大きい深い隔たりがある。キリストは愛され、キリストは礼拝され、キリストへの信仰と献身は、全世界を包んでいる。これを、死んでしまったキリストと呼ぶことが出来ようか。イエス・キリストは、永遠の生ける神であることの証明である。私ナポレオンは、力の上に帝国を築こうとして失敗した。イエス・キリストは、愛の上に彼の王国を打ち立てている」。

キリストの愛が、一八〇〇年経ったナポレオンの時代においても現れている。ナポレオンは人生の最期に、そのことに驚くのです。そのことが、キリストが今も生きて働いておられることの証拠だというのです。自分の建てたものは、はかなく崩れ去ったことを認め、しかしキリストの愛は今もなお存続している。愛に駆り立てられた者たちが今でもいることを認めているのです。

キリストの愛がどこに現れているか。それは、キリストを信じ、礼拝している教会に現れています。この会堂に集い、礼拝する私たちの間に現れているのです。キリストの愛に駆り立てられた者たちが、ここに集い、キリストを礼拝しています。

キリストの愛は、決して抽象的なものではありません。一四~一五節をお読みします。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(一四~一五節)。

キリストがすべての者たちのために死んでくださいました。私たちの罪を背負い、病や死を引き受け、十字架にお架かりになり、死んでくださったのです。すべての者たちが私たちの代わりに死んでくださったキリストによって、生きることができるようになるためです。

こんな私のために、もったいないことだ、と思われるかもしれません。それはその通りです。私たちの罪のため、病や死を担われるために、死んでくださったのです。私のために、もったいないことです。そういう畏れもあるでしょう。

しかしこの畏れを持つならば、私たちの生き方が変わってきます。自分自身のためにもはや生きることはしなくなるのです。外面を装って恐れのうちに生きることもなくなるのです。キリストが私のために死んでくださった。罪を赦し、愛のまなざしを注ぎ、憐れんでくださるキリストに包まれて生きることができるのです。キリストに愛されている、ありのままに生きることができるのです。

この信仰が、私たちの教会に与えられ続けてきた信仰です。会堂が建つ前も、会堂が建った後も、そしてこれからも、私たちはこの信仰を持って、キリストの愛に駆り立てられて歩んでいく、キリスト者の群れなのです。