松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年7月16日(日)
説教題「神に喜ばれる生き方」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第5章1~10節

わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

旧約聖書: イザヤ書66:1~4

ある人が、このように言っています。「この聖書箇所は、一番難しい。しかし一番簡単な箇所でもある」。本日、私たちに与えられた聖書箇所をそのように言っているのです。一番難しいが、一番簡単。論理的に矛盾していることを言っていますが、一体どういうことでしょうか。

私たち人間は、理解できる範囲が定まっています。自分の経験でなんでも判断しようとします。しかし、今日の聖書箇所に記されていることは、私たち人間の理解できる範囲を超えている内容です。ピンと来ないのは当たり前、分かりづらいと感じるのは、むしろ当たり前のことかもしれません。

今日の聖書箇所で、この手紙を書いたパウロが語っているのは、死を超えた先のことです。私たち人間の誰もがまだ体験したことのない領域です。パウロ自身もそうです。パウロも具体的なことは語ることはできていない。今日の聖書箇所では、二つの比ゆのようなことをもって語っているのです。

死を超えた先はどうなっているのでしょうか。死の先があるのでしょうか。聖書はあると言います。しかしその死の先に何があるのか。聖書は空想めいたことは語りません。私たちはいろいろな死後の世界を、それこそ妄想してしまうところがありますが、聖書はそうはしていないのです。パウロもはっきりと語ることはできません。

死者の復活ということに関して、パウロが書いたコリントの信徒への手紙一の第一五章において語られています。やはりパウロはこのように語ります。「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」(Ⅰコリント一五・四二~四四)。

ここでは種を蒔くことで譬えています。蒔かれる前は種という形だが、蒔かれた後は、いったん土に埋もれて死んでしまうように思えるかもしれない。しかしそこから芽が出て、茎が伸びて、葉をつけ、花を咲かせる。種とは違うものになるではないか。死者の復活もこれと同じだと言うのです。「自然の命の体」から「霊の体」に復活する。しかしそれ以上のことは語れません。「霊の体」とはいかなるものなのか、空想じみたことは語らないのです。

しかし死の先のことが具体的にはよく分からなかったとしても、パウロは必ず、今の自分たちの生きる姿勢につなげて語っていきます。コリントの信徒への手紙一の第一五章もそうです。第一五章の終わりのところで、「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(Ⅰコリント一五・五八)と語ります。

今日の聖書箇所でもそうです。九節のところにこうあります。「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」(九節)。これが今日の聖書箇所で、パウロが最も伝えたいことです。別の聖書箇所でパウロは「生きるにも死ぬにも」という言葉を使っています。生きている時、死につつある時、死んだあとの時に区別をつけているわけではないのです。いつでも、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」、それがパウロの願いであり、キリスト者の生き方を定めている願いです。

私たちはともすると、目先のことのみを考えてしまうかもしれません。目に見えるものに心を奪われてしまうかもしれません。未だに死の先はよく分からないところが多くあります。しかしそれでも、神への信頼に生きる。「生きるにも死ぬにも」神が必ずよいようにしてくださるはずだ、それがキリスト者の信仰です。

パウロは今日の聖書箇所で、二つの比ゆを用いて語っています。一つ目の比ゆは、一節から五節にかけて、そして二つ目の比ゆは、六節以下のところからです。ちょうど段落で区切られています。

最初の比ゆには、「幕屋」という言葉が出てきます。これはテントのことです。私たちは地上で仮住まいであり、幕屋を着ている。私たちの肉体のことが考えられているのでしょうか。それに対して、「建物」(一節)、「天にある永遠の住みか」(一節)、「天から与えられる住みか」(二節)という言葉が対比されて使われています。

私たちは「この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」(二節)とか、「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが」(四節)という表現があります。このような表現は、特に説明されなくても、私たちの経験でよく知っているのではないかと思います。

そういう経験をしている私たちの願いは何か。パウロは、重ね着をすることだと言います。とても面白いイメージです。「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って」(二節)。「天から与えられる住みかを上に着たいからです。」(四節)。

「上に着たい」という表現が、二度にわたって使われています。ある人がこのことを、「今は下着を着ているけれども、その上から上着をまとうことだ」と表現しました。すっぽりそのまま天の住みかである上着をまといたい、それがパウロの願いです。

さらに五節のところでは「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。」(五節)とあります。保証というのは「手付金」のことで、手付金が支払われたならば、必ずその全額が支払われて、そのものが与えられるということです。その保証として神はすでに“霊”を与えてくださったと言うのです。

前半の五節までは、パウロはこういうイメージで語っていますが、後半の六節以降では、また別のイメージをもって語っています。「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。」(六~八節)。

ここでは体を住みかとしていることは、主から離れていることであり、その体の住みかから離れることを望んでいる、とも言っています。ここでは「重ね着」よりも、一回脱ぐことを語っています。

この二つの比喩を、無理やりくっつける必要もないでしょう。こういう二つの譬えによって、パウロはいったい何が言いたいのでしょうか。死んだ後の話もしているのです。死んだ後の天国のすばらしさを語っているのでしょうか。そうではありません。パウロも比喩でしか語ることができないのです。

しかしパウロが言いたい中心点は、九節です。「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」(九節)。先ほど、「生きるにも死ぬにも」という言葉を使いましたが、たとえどのような状況であっても、これだけはぶれずにいたい、その思いが語られているのです。

私たちの人生、様々な時期があります。幼少期があり、青年期があります。やがて大人になっていきます。大人と言っても、若い時期もあれば、中年の時期もあります。やがて老年期に入っていきます。そして最終的には死を迎えることになります。

こういう人生を送っていく中で、いろいろなことが変わっていきます。まずは肉体が変わっていく。考え方も変わっていく。生き方も変わっていきます。しかし、人生のすべてを貫く、何か変わらないものがなければなりません。キリスト者として生きるからには、キリスト者としての芯がなければなりません。キリスト者として筋を通す。変わってはいけないもの。一貫しているものがあるはずです。

パウロにとって、それは、今日の聖書箇所の表現で言えば、「ひたすら主に喜ばれるものでありたい」ということです。主イエスに喜んでもらえる生き方、そういう生き方をする。「生きるにも死ぬにも」、その一点だけは変わらない。それがキリスト者の生き方です。

先週の木曜日、教会員が召され、昨日の土曜日、教会で葬儀を行いました。召されたのは教会員の中で最年長者であり、九八歳でした。

昨日の葬儀の礼拝では、二箇所、聖書箇所を朗読しました。いずれも召された方が愛唱していた聖書箇所です。二番目の聖書箇所としてお読みしたのは、ルカによる福音書第二三章の箇所です。主イエスの十字架の場面です。主イエスと二人の犯罪人が十字架につけられています。一方の犯罪人が主イエスを罵ります。しかし他方の犯罪人はそれをたしなめて、主イエスにこう言います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ二三・四二)。それに対して主イエスが言われます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(二三・四三)。

これが召された方の愛唱聖句です。九八年の生涯において、様々なご苦労や悲しみも経験されました。この主イエスのお言葉が、そのような人生の何よりの支えになったのだと思います。

主イエスと犯罪人との対話は、確実に死につつある者たちの間でなされた対話です。最期の対話です。その最期の対話で、主イエスが「楽園」と言われました。楽園とは何でしょうか。どういうところでしょうか。それ以上の説明は特に主イエスはされていません。しかし主イエスが「楽園」の約束をしてくださいました。

先週召された方も、この主イエスの約束を信じ、主イエスのお言葉を慰めにして歩んで生きてこられました。主イエスの約束は、今日の聖書箇所の言葉で言えば、五節の「保証」という言葉です。神が保証してくださるのです。たとえ「楽園」の内容が具体的に分からなかったとしても、死の先が分からなかったとしても、神が必ずよいようにしてくださる、その信仰に生きることができるのです。

今から五百年ほど前に、教会の改革者であるマルティン・ルターも、パウロと同じ信仰に生きた人です。ルターは、人間の罪の現実を非常に厳しく、厳格に考えた人です。私たち人間が罪人であることをはっきり言った人です。罪人、しかし同時に義人とも言うのです。

ルターはこのことを、医者の譬えで語ります。病人がいる、それがすなわち罪という病を抱えた罪人です。その病人は病と闘わなければならない。けれども一人で闘うのではない。これ以上ない確実で安心することができる医者と一緒に、医者の治療を受けながら闘うことができる。この医者こそがキリストです。この医者から確実に癒されるという「保証」のもとで闘うことができるのです。今は現実として罪人であり、病人であるかもしれません。しかし確実に回復することができる希望のもとで闘うことができる。

癒やされた先がどうなっているか、どういう自分になっているのか、不明瞭なところがあるかもしれません。現時点では分からないかもしれません。しかし神が必ずよいようにしてくださる。そういう保証のもとで闘うことができます。今日の聖書箇所の言葉で言えば、地上の幕屋にあって苦しみもだえている、しかし希望をもって苦しみもだえることができるのです。

今日の聖書箇所の終わりの一〇節にこうあります。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(一〇節)。

裁きのことが語られています。終わりの日の裁き、いつか私たちが受けなければいけない裁きです。パウロも、「わたしたちは皆」という言葉を使っています。誰もが例外なく裁きに服さなければならないということです。

こういう聖書箇所の言葉を聞いて、どう思われるでしょうか。わたしが裁かれる、不安を覚えられるかもしれません。しかしパウロが使っている言葉に、よく注目したいと思います。「キリストの裁きの座」と言っています。「神の裁きの座」と普通なら言うところですが、パウロは「キリストの裁きの座」と言いました。

聖餐式の際に、招きの言葉として聖書の言葉をいくつか朗読しています。その中でいつも読んでいる聖書の言葉に、こういう箇所があります。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(Ⅰヨハネ二・一~二)。

ここでも裁きの座のことが言われています。私たちが裁きに服さなければなりませんが、しかしキリストが「弁護者」でいてくださると言うのです。多くの罪を犯している私たちです。神の御前に、隣人に対しても、多くの後ろめたさを持っている私たちです。まともに裁かれたら、私たちは風に吹き飛ばされるもみ殻のようです。

しかしキリストが弁護者でいてくださる。キリストが父なる神に言ってくださいます。「確かにこの者は罪を犯したかもしれません。しかし私がこの者の代わりに十字架に架かり、この者の罪を赦しましたから、どうか赦してやってください」。キリストが弁護者として私たちを執り成してくださいます。それが私たちに与えられた「保証」です。

私たちは、地上の幕屋でもだえ苦しんでいます。体を身にまとい、格闘をしています。しかしそのような中にあって、保証を与えてくださる神を信頼して、歩むことができます。死の先に何があるか、天国や楽園がどのようなところなのか、たとえそれがはっきりと分からなくても、神が必ずよいようにしてくださる、その確信をもって歩む。確実な約束と保証を与えてくださった神を信頼して生きるのです。

このような大きな賜物をいただいた私たちです。パウロもその賜物に感謝し、「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」、この願いを今日の聖書箇所に記しました。パウロの願いであり、すべてのキリスト者の願いであり、私たちの願いであるのです。