松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年7月2日(日)
説教題「神の器となる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第4章7~15節

ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。

旧約聖書: イザヤ書45:9~13

今日のこの礼拝では、この後、聖餐を祝います。私たちの教会では、毎月、第一日曜日に聖餐を祝います。クリスマス、イースター・ペンテコステという特別な日にも聖餐を祝います。

聖餐では、パンと杯を用います。キリストの体と血を表していることになりますが、最後の晩餐の先で、主イエス・キリストが聖餐を定めてくださいました。わたしの記念としてこのように行え、と言われたのです。主イエスが私たちの罪を背負って、十字架で死なれ、私たちの罪が赦されたことを、そのようにして覚えるのです。

聖餐の際に、私が勧めの言葉を朗読します。その中で、キリストが「死と御苦しみをもって罪を贖い」と朗読します。キリストの死と苦しみ、それは聖餐においてなくてはならぬものです。私たちの救いのために、なくてはならぬものです。その苦しみや死を、私たちはどう考えるでしょうか。

私たちも、もちろんキリストほどの苦しみや死ではないかもしれませんが、やはり苦しみや死を味わいます。嫌でも味わいます。その私たちの苦しみや死を、私たちをどのように受けとめているでしょうか。世間一般では、あまり考えたくないものとされています。そういう話をしようものなら、縁起でもないと言われて、話を閉ざされてしまうこともあるでしょう。

それでもやはり死や苦しみがやって来ます。そうなった時に、考えざるを得なくなります。単に有り難くないものがやって来た、そのように消極的に考えるでしょうか。キリスト者になれば、死や苦しみがやって来ないわけではない。キリスト者として、死や苦しみにどう向かい合うかが問われるのです。

私も牧師として、いろいろな苦しみや死を共有したり、聞いたり、祈りに覚えたりすることがあります。実際の苦しみや死を受けておられる方やご家族と、どこまで共有することができるかが、やはり課題になります。このことは牧師に限った話ではありません。私たちすべての者に関わる話です。キリスト者として、自分の苦しみや死、隣人の苦しみや死を、どう考えるべきでしょうか。

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、使徒パウロが、苦しみや死を語っている箇所です。八節から九節にかけて、こうあります。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(八~九節)。

パウロの苦難の歩みが書かれています。八節の「四方から」というのは、文字通りの「四方」ではなく、「あらゆるところで」という意味です。いつでもどこでも、苦しんでいるということです。

パウロは、自分が書いたこのコリントの信徒への手紙二の後半部分で、より具体的に自分が受けた苦難について、書いているところがあります。

「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」(一一・二三~二八)。

よくぞ自分の受けた苦難はここまではっきり覚えていた、という感じもしますが、パウロはこんな苦難を受けていたのです。また、同じパウロが書いたコリントの信徒への手紙一でも、こうあります。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント一〇・一三)。

大きな苦難を受けた、ギリギリのところまで追いつめられた、しかしギリギリのところで大丈夫だった、今もそしてこれからも大丈夫なのだ。パウロはそのように語っています。なぜ大丈夫なのでしょうか。苦難の中で、自分の強さによって切り抜けてきたからでしょうか。自分の強さを求めよ、ということなのでしょうか。

聖書には、それとは違うことが書かれています。まるで違うと言えるでしょう。それが、一〇~一一節に記されているキリストとのかかわりです。「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」(一〇~一一節)。

一〇節で「死」という言葉が使われています。続く一一節と一二節でも死という言葉が使われていますが、実は元の言葉では、一〇節の死だけが違う言葉になっているのです。一〇節の死は、もっと強い意味の言葉です。ある翻訳では、「殺害」と訳されています。イエスの「殺害」を体にまとっている、ということです。主イエスが十字架で殺された、それが強調されているのです。

そして一〇~一一節にかけて、キリストの苦難があり、殺害とも言える死があり、そして甦りの順で語られていきます。キリストが実際にたどられた歩みです。最終的に、苦難で終わらず、死で終わらず、命が現れたわけですが、根拠となるのが一四節の言葉です。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」(一四節)。

ここに希望をかけることができるかどうかが問われています。これに希望をかけることが、信仰です。自分の強さを信じるのではない。自分の強さによって苦難を乗り越えるのではない。そうではなく、神の力に希望をかける。弱さの中に働く神の力を信じる。主イエスを復活させるほどの神の力を信じる。わたしは弱いかもしれない。けれども弱い私の中で、強く働く神の力を信じる。弱いけれども強いのです。

今日の聖書箇所では、「宝」という言葉と共に、「土の器」という言葉が使われています。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」(七節)。

宝とは何でしょうか。何の脈絡もなく、宝という言葉がいきなり使われているように思われるかもしれません。聖書学者もいろいろな可能性を考えています。宝とは、福音のことだと考える人がいます。私たちの罪が赦され、救いが与えられるというよき知らせ、福音のことです。あるいは、宝とは信仰だ、と考える人もいます。信仰は私たちが自分で持ったものではない、信仰は与えられたものだからです。

あるいは、パウロは伝道者でした。使徒として働いていました。そのような働きのことではないか、それが宝ではないかと考える人もいます。あるいは、今日の聖書箇所の直前のところ、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」のことが宝だ、そう考えている人もいます。

パウロ自身は具体的に言ってくれていませんので、何が宝なのか、特定することができないかもしれませんが、これらすべてのことを含めて、神さまからよきものをいただいた、それが宝です。問題となるのは、その宝をどこに収めるかです。土の器に収めるとパウロは言っています。

「器」という言葉は、私たちも使う言葉かもしれません。あの人は、器の大きい人だとか、逆に小さい人だ、という使い方をします。あるいは、この人は、リーダーになる素質がある、リーダーの器だ、という使い方をします。人間を器の大きさや質によって計ろうとするのです。

ところがパウロは、私たちのことを「土の器」だと言っています。立派な器ではない、土の器。わたしは土の器です、などということを、世間一般ではあまり言わないと思います。しかしパウロは土の器だと言った。

これも新約聖書学者がいろいろなことを考えていますが、なぜパウロは「土の器」だと言ったのか。何を表そうとしていたのか。パウロは病気持ちだったと言われています。持病を抱えながらの伝道者としての歩みを送っていました。福音書を書いたルカが、パウロの主治医だったのではないかという話もあるくらいです。そのような病気の体を持っている自分のことを「土の器」と表現したのではないか、という意見があります。

あるいは、当時は電気がありませんから、ろうそくに灯をともすことになります。そのろうそくを入れるための土の器だったのではないか、という意見もあります。土の器はそれ自体で光を放つわけではありません。ろうそくの光で闇を照らすことが大事ですが、その大事な役割を果たすのが、ろうそくを入れる土の器です。

いずれにしても、パウロは自分だけのことではなく、私たちのことを「土の器」と表現しました。明らかに、神さまからいただくすばらしい「宝」と、「土の器」が対比されて、語られているところがあります。

パウロはあくまでも「土の器」だと言いました。立派な器になれ、と言ったのではありません。私たちが金や銀のような立派な器になろうとするならば、パウロの言葉を誤解していることにもなりますし、聖書の言っていることと、誤った方向に行ってしまうことになりかねません。

一二節のところにこうあります。「こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。」(一二節)。「わたしたち」というのはパウロたち伝道者のことです。パウロたちには死が働いている、つまり苦難の中に置かれている。それでもパウロたちは福音を語りました。「あなたがた」コリント教会の人たちは、聞いて、信じて、救われました。命が働いています。

そういうパウロは、自分たちはたとえ土の器であってもいいではないか、と言うのです。あなたがたのうちに命が働くならば、それでいいではないかと言うのです。人のために苦しみを引き受ける、その覚悟を語っているのです。

パウロは伝道者です。今で言えば牧師と言えるかもしれませんが、牧師も苦しみます。牧師の一番の苦しみは、言葉が通じないことです。福音を語っても、福音を受け入れてもらえない、その苦しみを必ずします。パウロもそうでした。この時は、コリント教会の人たちと言葉が通じなくなっている、そういう苦難をまさに経験していた最中でした。

そんなパウロは、一三節のところでこう言います。「「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。」(一三節)。ここで引用されているのは、旧約聖書の詩編に出てくる言葉です。信じた。そのことがあって、だから語った。その順番です。

苦しんでいるのは、牧師だけではありません。誰もが同じ苦しみを味わっています。自分の言葉がどうして家族に通じないのか、自分の思いがどうして友人に通じないのか、どうしてすれ違うのか、そのことで私たちは苦しみます。しかしそういう時にこそ、信じて、語って、苦しむのです。言葉が通じない、だからこそ信じて、語る。信じることが一番の出発点です。

それでは何を信じるのか。それが続く一四節、一五節です。まずは一五節です。「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。」(一五節)。

少し分かりづらいと思われるかもしれません。ある人が解説をしてくれています。ここで言われているのは、最終的に私たちが感謝をすることによって、神に栄光が帰されるということですが、その感謝がどんどん大きくなっていくということです。どのように感謝が大きくなるか。それは、多くの人々が感謝に加わること、そしてそれだけでなく、一人一人の感謝が大きくなること。感謝する人も増えるし、一人あたりの感謝量も増える、そのようにして感謝が増し加えられる。そのことを信じるのです。

パウロは今、苦しんでいます。先ほどお読みした一二節のところでは、今、私たちは苦しんでいるが、あなたがたは命を受けているとありました。何とか言葉を通じさせようとしています。何とか同じ信仰に立ちたいと思っています。

そして一四節のところです。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」(一四節)。今は苦しんでいるかもれないが、かの日には、一緒に神の御前に立とうではないか、パウロはそう言うのです。その希望のもとに、信じて、歩んでいくことができるのです。

今日の聖書箇所を味わえば味わうほど、パウロは驚くべきことを言っている、そのことが分かります。苦しんでいる。その今の苦しみを積極的に苦しもうと言うのです。神のために、人のために苦しもうではないかと。この世とはまるで正反対です。苦しみを遠ざけてしまうのではない。金や銀の器になって苦しみを切り抜けるのでもない。今にも割れそうになっている、もろい、土の器であるかもしれません。苦しみにさらせれ、何とも頼りない土の器かもしれません。

しかし、神の宝を収めることができる、「神の器」です。パウロはこう言います。「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」(七節)。私たちも苦しみにさらされ、弱いかもしれません。しかし、この生き方に徹することができるのです。