松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年7月9日(日)
説教題「日々新たにされて」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第4章16~18節

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

旧約聖書: 詩編56

「だから、わたしたちは落胆しません。」(一六節)。本日、私たちに与えられた聖書箇所はこのように始まります。同じ言葉が、第四章一節にも記されています。「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」(四・一)。落胆しない。なぜか。「こういうわけで」(四・一)、「だから」(一六節)。落胆しない理由が明確に述べられています。

落胆ということを、私たちもよく知っています。私たちも落胆したくないと思いつつ、しかし落胆を避けることがなかなかできないところがあります。肯定的な言葉ではない、とても否定的な言葉です。聖書でも様々な日本語の翻訳がなされています。落胆する以外に、疲れる、失望する、絶望する、そのように訳されています。私たちがそのように落胆してしまうと何が起こるか。聖書学者によって、「さぼる」「義務を怠る」などという訳もなされます。落胆したら、そのようなことが待ち受けているということです。

信仰を持ってキリスト者として歩む、その歩みの中で問われているのは、いかにこの落胆と闘うかということです。信仰をもってキリスト者になったとしても、落胆するようなことが来なくなるというわけではありません。そういうものが来たとしても、キリスト者として、いかに落胆せずに歩めるか、です。

説教者も落胆をしては説教ができません。望みのないところでは説教をすることができないのです。たとえ落胆しそうな状況になったとしても、いつでも先を見ることができるかどうか。先には道が続いている、塞がれていない。そのことを信じることができるかどうかが問われているのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所に、あるいはこの第四章全体がそうであると言ってよいわけですが、そういう状況に直面した時のパウロの態度が表されています。なぜ落胆せずに歩むことができるのか、そのことを考えていきたいと思います。

本日の聖書箇所は、わずか三節の短い聖書箇所です。コリントの信徒への手紙二の中でも有名な箇所、聖書全体の中でも有名な箇所と言えるでしょう。ここでの言葉をしばしば耳にすることもあります。しかしそれだけに、誤解されている箇所でもあると思います。

「外なる人」と「内なる人」が出てきます。その「外なる人」は「衰える」、「内なる人」は「新たにされる」と言われています。これは何を言っているのでしょうか。私たち人間は、肉体の衰えを感じます。肉体は衰える、それは止められないけれども、精神的にはフレッシュでいることができる。そういう心の持ち方を言っているのでしょうか。

実はそうではありません。「衰える」という言葉が使われています。自分の肉体の衰えを嘆いているように思えますが、かつての口語訳聖書では「滅びる」となっていました。また多くの聖書の翻訳を見てみましたが、「朽ちる」と訳しているものが多くありました。この言葉の意味から考えても、「朽ちる」と訳した方がよいと思います。

「外なる人」が「朽ちる」ということです。しかも元の言葉では、受動態、受け身の言葉です。朽ちることを身に受けなければなりません。先週の聖書箇所では、「土の器」(四・七)という言葉が用いられていました。この第四章では、パウロは少しずつ言葉遣いを変えながらも、同じことをずっと語っているわけですが、「土の器」を「外なる人」と言い換えているわけです。宝を納めている「土の器」ですが、明らかにいつかは壊れるものです。今日の聖書箇所の言葉で言えば、いつかは「朽ちる」ものです。

こう考えますと、この聖書箇所で言っているのは、単なる老人問題ではないということです。肉体は衰えるけれども、心は若くフレッシュになっていきます、ということではないのです。老人も若者も、生まれたばかりの子どもでも、みんな該当します。罪人の死すべき私たち人間、誰もが朽ちていくという道をたどらなければならないからです。

しかしパウロはここで終わりにしているのではありません。続きがあります。外なる人が朽ちるとしても、内なる人は日々新たにされると説いていきます。新たにされるとは、どういうことでしょうか。

ここで使われている新たにされるという言葉、聖書の別の箇所で使われているところがあります。コロサイの信徒への手紙第三章一〇節です。「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」(コロサイ三・一〇)。

コロサイの信徒への手紙は、全部で四章から成る短い手紙です。けっこうすっきりした構造を持っている手紙です。前半の第一章と第二章では、罪人の人間の救いが記されています。特に第二章一二節では「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」とあるように、洗礼を受けることは、キリストと一緒に死に、古い罪の自分に死に、キリストと共に甦り、罪赦された新しい人になるという救いのことが言われています。

そのように前半では救いが語られ、後半の第三章と第四章では、救われた者としていかに生きるべきかが説かれていきます。最初の第三章一~二節には「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(コロサイ三・一~二)とあります。どこを見て、どこに目標を置いて生きるべきなのかということから語られています。

先ほどの第三章一〇節も、すでに洗礼を受け、新しい命をいただいた者としての歩みが語られているのです。「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」(コロサイ三・一〇)。しかも「日々」新たにされる歩みなのです。

そういう日々の歩みの中で、大事なのはどこを目指しているかということです。「上」を目指しているのか、「下」ばかりに目を留めているのか。日々の歩みの中で、私たちは「艱難」を経験します。コリントの信徒への手紙二に戻りますが、一七節のところです。「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(一七節)。

艱難の中で、道が閉ざされてしまうという思いを抱いてしまうかもしれません。「上」が見えなくなってしまうこともあるかもしれません。落胆することもあるかもしれません。日々新たにされるなどと思えなくなってしまうかもしれません。

しかしここでパウロは「軽い艱難」という言葉を使っています。艱難が重いのではない、軽いのです。なぜ軽いのか。軽さに対比されているのが、「重みのある永遠の栄光」です。「上」を目指したとき、道が塞がれているのではないことが分かります。その先にあるものを見据えれば、「軽い艱難」になると言うのです。

先週の木曜日、オリーブの会が行われました。信仰の初歩的なことを分かりやすく楽しく学べる会です。毎回テーマを決めていますが、先週のテーマは「確信を持って生きるためには」というテーマでした。

今日の聖書箇所には、「確信」という言葉は出てきませんが、パウロがよく使った言葉です。今日の聖書箇所でも、パウロは「確信」をもって、これらのことを語っている、それは明らかでしょう。「落胆しない」、確信をもって言っている言葉です。

オリーブの会で、いくつかの聖書箇所を読みました。その一つが、使徒言行録の第一六章です。パウロの二回目の伝道旅行の話です。旅行ですから、計画を立てるわけです。この時のパウロも計画を立てました。こっちへ行こうと計画した、けれども駄目だった。あっちへ行こうと計画した、けれどもそれも駄目だった。使徒言行録では「聖霊」、「イエスの霊」によって断念しなければならなかったと記されています。

なぜうまくいかなかったのか。パウロが病になってしまったからとか、他の何らかの事情で中断せざるを得なかったとか、いろいろな説明がなされます。いずれにしても、パウロは少なくとも二度、自分の立てた計画がうまくいかなかったのです。

そういう時、私たちはどうするでしょうか。落胆するでしょうか。パウロはそういう中、マケドニア人の幻を見ました。マケドニアというのは、今で言うギリシアのところになりますが、マケドニア人がこちらへやって来てくださいと懇願している、そういう幻を見たのです。その幻が、パウロに確信を与えました。それまではトルコからギリシアへ、海を渡ってそちらへ出かけようなどと考えてもいなかったわけですが、そういう道が拓かれたのです。

こういう経験を、私たちもすることがあると思います。自分の立てた計画がことごとくうまくいかない。思い通りにならない。私たちはそういう時、どうするでしょうか。単に落胆するだけでしょうか。もう道が塞がれてしまった、あとは義務を怠る、さぼるだけでしょうか。そうではありません。

パウロは、自分の計画が二度にわたって断念してしまい、気落ちもしたでしょうけれども、神の御心を問い直したのだと思います。神のご計画はそうではなかった。自分が考えていた道は塞がれてしまったかもしれないけれども、神のご計画の道はどこかにあるはずだ、道がつながっている、その先がある。パウロはそう考えたのです。

そしてそういう状況の中、マケドニア人の幻を見た。オリーブの会では、「パウロはよく確信できましたね」「なぜそんなにすぐ確信できるのですか」という質問もありましたが、何もパウロはすぐにそういう確信を得たわけではないでしょう。艱難を経て、確信へと至った。今日の聖書箇所の言葉で言えば、艱難が軽くなり、重みのある永遠の栄光へと至ったのです。

このように、神が切り開いてくださる道は、決して塞がれることがありません。たとえ私たちの「外なる人」が朽ちようとも、「土の器」がもろく壊れてしまったとしても、そこで終わりではない。死によっても断ち切られることはないのです。

本日、教会員の皆様に長老会報告を配布しました。よくお読みいただきたいと思いますが、その中に、教会墓地の整備のことが書かれています。私たちの松本東教会は教会墓地を持っています。一九八四年に教会墓地が造られ、多くの方が埋葬され、また墓誌にも名前が刻まれてきました。その墓地の簡単な整備をすることにしました。

数年前にも、比較的大がかりな整備をしました。古い墓誌がいっぱいになり、新しい墓誌を建て、多くの方の名前をこれからも刻めるようにしました。お墓の中も、きれいに整備をしました。墓地の中のスペースは、今も十分にあるのですが、骨壺を置いておく棚が不足するようになってきたので、新たな棚を設置し、九月の墓前礼拝に備える予定です。そのように教会墓地を整え、召された方々を丁寧に葬ることを大事にしたいと思います。

一九八四年に教会墓地が造られ、三十年以上が経ちました。教会墓地の墓石には、「信ずる者は永遠の生命をもつ」と刻まれています。ヨハネによる福音書第六章四七節の主イエスのお言葉で、新共同訳聖書では「信じる者は永遠の命を得ている」と訳されています。

この主イエスの確かな約束のもと、多くの方々が葬られてきました。だからこそ、私たちは丁寧に葬ることを大事にしたいと思います。死を軽んじるのではない、肉体を、朽ちるものを軽んじるのではない。そうではなく、神からいただいた大事な体として、丁寧に葬る。私たちにできるのはそこまでかもしれません。

しかしそれで終わりではない。そこで道が塞がれているのでもない。墓が人生の終着駅なのではない。主イエスの約束のもと、「上」を目指して歩んでいく。死によっても道が塞がれることはない。私たちはその思いをもって、召された方を丁重に葬り、教会墓地を大事にしています。

今日の聖書箇所の終わりの一八節にこうあります。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(一八節)。

どこに目を注ぐのかということが問われています。ある人がこの箇所を「信仰のまなざしを持つことが何よりも大事である」と説きました。その通りだと思います。朽ちるもの、過ぎ去るものに目を留めて、落胆する。そういうまなざしではありません。そうではなく、そういうことを覚えつつも、信仰のまなざしを持つ。永遠に存続する目に見えないものに目を注ぐのです。

今日の聖書箇所ではっきり言われているように、私たち人間は必ず朽ちます。土の器です。一方ではそのことをはっきり認めなければなりません。老いも若きも、自分が土の器であることを認めなければならない。しかしその中に決して朽ちることがない、永遠に存続する宝が納められているのです。主イエスによる新しい命です。洗礼によって罪赦された新しい命です。

この命に生きる者は、決して道が塞がれることがありません。あらゆる艱難によっても、死によってさえも、道が塞がれることがありません。道は続いていくのです。だから落胆しない、絶望しない。望みをもって歩んでいくことができるのです。