松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

facebook.png


HOME > 礼拝説教集 > 20170625

2017年6月25日(日)
説教題「心のうちに輝く悟る光」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第4章1~6節

こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

旧約聖書: イザヤ書6:1~13

私たちの信仰にとって、何よりも大事なのがイエス・キリストというお方です。当たり前のことかもしれません。しかしイエス・キリストが自分にとって、教会にとってどのようなお方なのか、そのかかわりが非常に大事なのです。

私たちは信仰者です。信じる者です。何を信じているのでしょうか。イエス・キリストが私たち人間の罪を背負って十字架にお架かりになってくださった。主イエス・キリストの十字架による罪の赦しを信じています。それだけではありません。キリストが今もなお生きて働いておられることを信じているのです。

松本東教会では最近、コリントの信徒への手紙二から御言葉を聴き続けています。この手紙を書いたのは使徒パウロです。パウロは新約聖書に収められている多くの手紙を書きました。パウロが書いた手紙の中で、ガラテヤ教会に宛てて書かれた手紙の中に、こんなことをパウロは書いています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ二・二〇)。

この聖句を、愛唱されている方もおられると思います。昔から信仰をお持ちの方は、文語訳聖書の言葉、「最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」、その言葉で暗記をしておられるかもしれません。

とても不思議な言葉です。でも、私たちの信仰をよく言い表しています。自分が生きている、いや、生かされている。そのように自分が生きているのだけれども、もう自分が生きているのではない。キリストが私のうちにあって生きている。私はそのように生かされていると言うのです。キリストが今もなお生きて働いておられなければ、成り立たない聖書の言葉です。

イエス・キリストは、過去の人であって、過去の人ではありません。確かに、この地上を二千年前に歩まれました。十字架にお架かりになって死なれました。しかしそこからお甦りになられた。三日目に復活され、天に上げられました。今もなお生きて働いておられます。

キリストは、二千年前にすばらしい教えを語り、すばらしい教えを残した。確かにキリストのお語りになった教えも大事です。しかしキリストを決して過去だけの人ではないのです。そうであれば困ります。今もなお、生きて働いておられる。信仰を持つとは、そのことを信じることでもあるのです。

信仰を持つということを考えてきました。本日、私たちに与えられた聖書箇所では、信仰を持つことが、光が与えられるという表現で語られています。

今日の説教の説教題を、「心のうちに輝く悟る光」と付けました。このように付けたのは、六節の言葉からです。「「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」(六節)。また、六節とは逆のことが、四節で語られています。「この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。」(四節)。

信仰を持っているのか、持っていないのか、そのことを、キリストの光、あるいは福音の光が見えているかどうかということで語られています。この光が私たちに与えられると、私たちは悟ることができると言います。逆に何らかの覆いがかけられていると、光が見えない、悟ることができない、信仰を持つことができないと言うのです。

この覆いとはいったい何でしょうか。改めて四節ですが、こうあります。「この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。」(四節)。

注意深く読んでいただきたいと思いますが、四節の主語は何でしょうか。「この世の神」です。本当の神ではない「この世の神」です。この神が、人々の目をくらませる、光を見えなくさせるのです。

新約聖書学者が「この世の神」とはいったい何だ、ということを考察しています。ある人はサタンだ、と言います。サタンを本当に実体あるものとして考えるかどうかは別にして、サタンは神から人間を離れさせることを目的としていますので、確かにその通りかもしれません。また別の人は、何らかの偶像のことだ、と言います。偶像は、文字通り刻まれた偶像だけでなく、お金とか、地位とか、名誉とか、信頼のおけそうな他人とか、信用できる物とか、ありとあらゆるものが偶像になり得ます。

そういうものが「この世の神」として私たちの前に現れる。文字通り拝まなかったとしても、それに寄り掛かりすぎると、光が見えなくなってしまう。キリストのことも、今も生きて働いておられる、そう信じられなくなるのです。死んでしまったキリストよりも、偶像やこの世の神の方が、よっぽど頼りになるじゃないか、ということになりかねません。

今日のこの聖書箇所は、パウロがコリント教会に宛てて書いた手紙の一部になりますが、この箇所をパウロが書いたときに、パウロが自分の回心の時の出来事、つまり生きておられるキリストと出会った時のことを思い起こしていたのではないか、多くの新約聖書学者や説教者が、そのように指摘をしています。

パウロが生けるキリストと出会い、回心をしたときのことは、使徒言行録第九章に記されています。パウロは教会の迫害者でした。そういうパウロがキリストと出会ったときのことが、このように記されています。

「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。」(使徒言行録九・一~九)。

少し長い引用をしました。この時はまだサウロという名で記されていますが、パウロはこのように光が見えなくなってしまいました。そういうパウロのところに、アナニアというキリスト者が遣わされていきます。このアナニアも生けるキリストと出会い、パウロのところに行けと言われたのです。

アナニアはパウロのところへ行き、手を置いて言います。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」(使徒言行録九・一七)。

そうすると、こういうことが起こりました。「すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。」(使徒言行録九・一八~一九)。

目からうろこ、という言葉がありますが、それは聖書のこの箇所から生まれた言葉です。日本語でも一般的に使われている言葉です。しかしもともとは、キリストが見えなかったけれども、キリストが見えるようになった。その意味で、目からうろこなのです。

パウロはこのように光が与えられ、キリストと出会い、回心して、洗礼を受け、教会の迫害者から教会の伝道者になりました。パウロは何よりも、キリストが過去の人だと今までは思っていたけれども、目からうろこがとれて、キリストが今もなお生きて働いておられる、そのことが分かり、信じたのです。

パウロはこのような体験をしました。回心体験です。劇的な話しと思われるかもしれません。しかしこのような体験は、パウロだけのことではありません。私たち誰もがキリストと出会い、キリストが今もなお生きて働いておられることを信じるようになったのです。

二週間ほど前のことになります。教会員が召され、葬儀をしました。九二歳でありました。もうすぐ九三歳を迎えようとしていました。私たちの松本東教会は、発足当時は教会の名前が違いましたが、正式な教会として発足してから今年が九三年目になります。つまり、この逝去された方は、ほぼ教会と同じ歩みをなしてきたと言えます。

逝去される三年ほど前に、ご自身の手によって、「葬儀への備え」の用紙に記入され、提出をされていました。自分が召された時、このように葬儀をして欲しいということを、あらかじめ用意しておくことができる用紙です。葬儀の時、どの聖書箇所を読んで欲しいか、どの讃美歌を歌って欲しいか、そういうことだけでなく、生活歴や信仰歴を記す欄があります。

その信仰歴の欄ですが、短い言葉で、ご自分の信仰歴を「生まれた時から」と記しました。キリスト者の家庭に生まれ育った方です。「生まれた時から」、いや生まれる前からと言った方がよいのかもしれません。九十年にも及ぶ人生を振り返った時、生まれた時から信仰の歩みが始まっていたと振り返ったのです。ほぼ教会と同じ歩みをたどって来られました。

葬儀の礼拝の説教でも申し上げたことですが、教会報の『おとずれ』の中に、ご自分の洗礼の時を振り返って書かれた文章があります。教会の中で、新しく洗礼を受ける者が与えられ、古くからおられる何人かの方々が文章を寄せられた。この方もご自分の洗礼を振り返り、このように書かれました。少し長いのですが、引用します。

「そして若かりし頃の自分の受洗のことに思いをめぐらしました。
私は長い田舎の生活が終り、主人の転勤で長野市へまいりました。そして聖日ごとに私達は大人の礼拝、子供達は日曜学校と充実した生活がはじまりました。牧師は教員をなさった年輩の小原福治先生でした。とても厳しい方で礼拝中皆がボンヤリしていると「しっかりしなさい」と机をどんとたたかれました。
たしか教会生活二年目の昭和三十三年だったと思います。或る日小原先生が私の肩をポンとたたかれて「二人の姉妹が洗礼を受けるから君も受け給え」とおっしゃいました。私は日も浅く何も分かりませんでしたが「はい」と答えました。そして受洗の日の朝教会へ行きますと、一人の年輩の方は紋付き姿、もう一人の方はスーツを着ていらっしゃいました。私はとみれば普段と変わらないセーターとズボンです。とても気がひけて恥ずかしい思いでした。終ってから「おめでとうございます。」と皆に祝福されましたが、深くも考えず「有難うございます。」と言っておりました。
(中略)
神様は長い年月をかけて私のような者をも辛抱強く導かれつつあるのだと思い深い深い御愛を感謝しております。そしてあの時小原先生が少し早いと思われたでしょうが教員の家庭事情を分っていらっしゃって、私に洗礼をすすめられたのだと思います。それからじきに今度は雪深い白馬に転勤になりました。今思いますとあの時思いきって受洗させていただき本当に感謝でした」。
この話には後日談があります。私が何度かこの方の時を訪問した際に、この時の話を直接伺いました。洗礼を受けて、「おめでとうございます」と皆から言われた。「ありがとうございます」と答えたけれども、あの時は何がめでたいのか、さっぱり分からなかったと言うのです。しかしあの時に、洗礼を受けられる時に受けておいて本当によかった。振り返ってみると、ずっとイエス様と一緒に歩いてくることができたと言われたのです。
ここ数年は、教会にも来られましたが、ご自宅に訪問することも多くなりました。訪問のたびに「わたしは救われています、本当に救われています」と、しみじみ言われました。信仰が与えられてよかった。その光の中に歩めて本当によかった。そう言われたのです。生きて働くキリストが共におられた歩みでした。

この方もそうでありましたけれども、生きて働いておられるキリストを信じて歩むとは、飾らない自分をそのまま出していく歩みになります。

パウロもそうでした。二節のところにこうあります。「かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。」(二節)。

この箇所では、最初に三つ事をしないと言っています。卑劣な隠れた行いをしない、悪賢く歩まない、神の言葉を曲げない、それら三つです。反対に考えると、卑劣な隠れた行いをしたり、悪賢く歩んだり、神の言葉を曲げたり、そういうことをするところに、私たち人間としての罪人の姿が浮かび上がってきます。

それらのことをするのではなく、代わりに、パウロは真理を明らかにすると言います。真理とは何でしょうか。パウロは続けて、「神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます」と言っています。「自分自身を…ゆだねます」というのは、自己推薦をするという言葉でもあります。自分を推薦するなどということは、なかなかできないと思われるかもしれません。

しかし、真理に生かされている自分自身を、すべての人にさらけだすと言うのです。立派な自分だから、というわけではありません。そうではなく、キリストに救われた自分を、飾らずにそのまま、まるごと差し出すのです。

私たちは罪人です。神に対しても人に対しても、隠しておきたい部分がたくさんあります。罪を何でもかんでも暴露するというわけではありません。そうではなく、罪人であったけれども、キリストに救われた自分を差し出すのです。

それは憐れな姿でしょうか。パウロはこう言っています。「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」(一節)。私たちキリスト者の姿は、憐れな姿ではありません。憐れみを受けた姿です。その自分を包み隠さずにさらけ出す。それが神からの光を受けた者としてのキリスト者の姿なのです。