松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年6月4日(日)
説教題「文字は殺し、霊は生かす」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第3章4~11節

わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。

旧約聖書: エレミヤ書31:31~34

今日はペンテコステ、聖霊降臨日と呼ばれる日です。教会にとっても大事な日で、この日の出来事が、新約聖書の使徒言行録に記されています。それによると、主イエスの弟子たち、使徒と呼ばれるようになりますが、使徒たちが集まっていると、聖霊が注がれて、主イエスを証しする説教が語られ、それを聞いた多くの人たちが信じて洗礼を受けた。そのようにして教会が始まった日です。それゆえ、ペンテコステ、聖霊降臨日は、教会の誕生日とも言われている日です。

使徒言行録の中には、聖霊降臨日に引き続き、使徒たちの力強い働きが記されています。この使徒たちは、福音書では弟子と言われていたわけですが、弟子たちと使徒たちでは、明らかな違いがあります。福音書に書かれている弟子たちは、ある意味では失敗ばかりでありました。主イエスのお語りになった言葉を理解することができず、主イエスのなさった奇跡の意味も分からず、主イエスの十字架の際には、皆が見捨てて逃げてしまう有様でした。そういう弟子たちが、使徒言行録では使徒となりますが、力強い働きをします。迫害にあっても屈せず、命を懸けて、主イエスを証しし、伝道し、教会を建てていくのです。

なぜこのような違いが生じたのでしょうか。一つの説明の仕方としては、復活の主イエスにお会いしたから、ということを挙げることができます。主イエスが十字架で死なれてしまった。主イエスに希望をかけていたのが、取り去られてしまった。弟子たちは意気消沈し、家に鍵をかけて閉じこもっていました。そんな中、復活の主イエスが弟子たちのところに現れてくださり、弟子たちを使徒として、派遣してくださった。復活の主イエスにお会いしたから、それが一つの理由です。

さらに、もう一つの理由を加えることができます。なぜ使徒言行録で、使徒たちは力強い歩みをすることができたのか。この使徒言行録は、かつての口語訳聖書では「使徒行伝」と呼ばれていましたが、ある人が、これを「聖霊行伝」と呼んだ方がよいと言いました。確かに使徒たちが力強く歩んだけれども、実際に使徒たちは聖霊を受けて、歩んだのです。使徒言行録には、はっきりとそのように強調されています。聖霊を注がれ、導きを受けて、力強い歩みをすることができたのです。

そうであるならば、聖霊の導きが教会の土台ということになります。パウロも使徒です。コリントの信徒への手紙でも、自分が使徒であることを強調していますが、パウロも使徒として、聖霊の導きを受けて、伝道し、コリント教会を建てたのです。今日の聖書箇所の言葉で言えば、八節に「霊に仕える務め」とありますが、まさにパウロはそのような務めにあたっていたのです。

「霊に仕える務め」とは、具体的にどういうことでしょうか。今日の聖書箇所の前半部分に、「資格」という言葉が何度か出てきます。伝道者としての資格、牧師としての資格、使徒としての資格ということです。私たちも何らかの資格を得ることがあります。車の運転をするための資格であったり、何らかの職業に就くための資格であったりします。

現代の牧師も、ある意味では資格を必要とします。日本基督教団では、補教師試験を受け、合格し、准允というものを受けると、伝道師になることができます。正教師試験を受け、合格し、按手を受けると、牧師になることができます。そういう資格に支えられるということもあるかもしれません。

しかし資格があるから自分は牧師だと、大きな顔をすることはできないのです。先週の聖書箇所では、推薦状のことが問題になっていました。コリント教会の「ある人々」は、パウロの推薦状のことを問題にしていました。あのパウロという伝道者は、自分が使徒だと言っているけれども、たいした推薦状もないではないか、そのようにパウロを非難してきた。これも資格の問題です。

しかしパウロがこの資格に関して、このようにまず言います。「わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。」(四~五節)。

そして続く六節でこう続けます。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」(六節)。

パウロは自分が使徒として、「霊に仕える資格」ということを言います。この「霊は生か」すのです。九節ではこれを言い換えて、「人を義とする務め」と言っています。自分が使徒として、伝道者として、牧師としての資格が、文字によって殺すのではなく、霊によって生かすところに現れていると言うのです。

このことに関連する話を一つ加えたいと思います。先週の日曜日の午後、こどもの教会の「こひつじ会」と呼ばれる集会が行われました。年に数度、行われていますが、小学校高学年から高校生までの方々と、大人が数人集まり、行われた集会です。子どもたちの洗礼や信仰告白を願って、このような集会が最近行われています。

いつもそうなのですが、私がまず話をします。先週のテーマは「聖書」についてです。いろいろな話しをしましたが、主にした話は二つです。その一つは、聖書はなぜ聖なる書物と言うのか、聖なるという言葉の意味について。もう一つは、聖書がなぜ二つに分かれているのか、ということです。

二番目の聖書が二つに分かれていることについて、二つに分けるならばどう分けるでしょうか。もちろん、旧約聖書と新約聖書です。子どもたちもすぐにそう答えました。それではなぜこのように二つに分けられているのか。答えは一つだけではありません。イエス・キリストが現われる前と後で分けた、そう答えることもできるでしょう。ユダヤ人たちに関する話と、教会に関する話で分けた、そう答えることもできるでしょう。

しかし根本的には、旧約聖書と新約聖書と言われているように、古い約束と新しい約束で分けたのです。約束、契約と言った方がよいかもしれません。約束と契約では、少しだけ意味合いが異なるかもしれません。約束は一方的な約束もあり得ますが、契約は基本的に双方の間で結ばれるものです。聖書の契約もまさにそうで、神と人間との間で契約が結ばれるのです。

古い契約とは何か。旧約聖書の中で、いろいろな契約が書かれた箇所を挙げることができます。先週のこひつじ会では、何箇所か一緒に開いて読んでみましたが、ここでは一箇所だけお読みしたいと思います。出エジプト記の第二〇章です。ここには、十戒のことが記されています。神がイスラエルの民に与えられた十の戒めです。第一番目の戒めは三節のところから始まっていきます。それに先立つ二節の言葉は、十戒の前文と呼ばれている箇所ですが、こうあります。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」(出エジプト記二〇・二)。

イスラエルの人たちはエジプトの奴隷生活を抜け出し、故郷に向けての旅をしている最中でした。神がいきなり十の戒めを人間に課しているのではなく、神がすでに救い出してくださった、だからあなたがたは私を神とし、十の戒めを守って生活しなさい。これこそ人間として最も幸いに生きる道なのだ、と神は言われるのです。

ところが、人間はこの契約を守ることができませんでした。旧約聖書の中に延々と書かれているのはそのことで、何度も繰り返し神から離れてしまい、罪を犯してしまうのです。そういう人間を、神は諦められたのではなく、見放されたのでもなく、新しい契約を結んで下さいました。それが新約聖書です。

新しい契約とはどこに書かれているか。マタイによる福音書にこうあります。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」」(マタイ二六・二六~二八)。

この箇所は、イエス・キリストが弟子たちとともになさった最後の晩餐の箇所です。主イエスがこれから十字架にお架かりになる前に、聖餐を定めてくださいました。今日もこの後、聖餐を祝いますが、パンを裂き、杯を回してくださった。主イエスの十字架の死によって、私たち人間を主イエスが救ってくださる。私たちがその主イエスを信じる。主イエスと私たちとの間で、このような契約が結ばれる。それが新しい契約です。

今日のコリントの信徒への手紙二の聖書箇所で、「新しい契約」という言葉が使われています。六節のところです。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。」(六節)。パウロが資格を得て、仕えているものとは、この「新しい契約」についてなのです。イエス・キリストが、古い契約を守れない私たちのために血を流してまで結んでくださった契約なのです。

そこで、パウロが仕えているこの新しい契約を、より深く考えてみたいと思います。「文字は殺しますが、霊は生かします。」(六節)と続けて言われています。どういうことでしょうか。

文字とはいったい何か。七節には「石に刻まれた文字」とあります。先ほど、主悦エジプト記の十戒を取り上げましたが、この十戒は二枚の石版に書かれて与えられました。この文字とは、十戒のこと、古い約束のことです。もちろん、十戒そのものは、神から与えられた大事なものです。私たちがまことの人間として生きるべき道しるべです。それ自体が悪いものであったというわけではなく、パウロも別の聖書箇所では、そのことを強調しています。

しかし、十戒を守ることができない罪人の私たちからすると、残念ながら私たちを生かすものにはならなかった。そこに書かれた文字が、かえって私たちを殺してしまうのです。

十戒の中で「汝、殺すなかれ」という戒めがあります。私たちは人を殺していないか、自分自身を殺していないか、そのことが問われています。もちろん、実際に人殺しなどしていない、たいていはそう思うでしょう。

ところが、果たしてそう言い切れるか。私が礼拝の中で、祈祷をします。聖書朗読後に祈祷をしていますが、その中で必ず悔い改めの祈りをしています。一週間の生活を振り返って、私たちが犯してしまった様々な罪を悔い改めるのです。ある方が、牧師の悔い改めの祈りを聞いて、本当にごめんなさいと、心からそう思っていると言われました。また、別の方からは、礼拝に出席して間もない頃は、ここまで厳しく言わなくてもよいのではないか、そうかつては思っていたと言われました。皆さまもいろいろなことをお感じになれていると思います。

別の教会での話ですが、初めて礼拝に来られた方が、やはり牧師の悔い改めの祈りを聞いた。まるで私たちが人殺しをしたかのような祈りだった。そこでびっくりして、お祈り中、目をつぶっていなければならないのは承知の上で、祈りをしている牧師を見てみると、どうもこの人は人殺しをしそうな人には見えない。

けれども考え直したそうです。確かに、自分も人を殺しているかもしれない。心の中で、この人がいなければ自分の人生、どんなにうまくいっていたか、そう思ってしまうことがある。人を生かすのではなく、人を殺す方に自分も傾いている。そのことに気付かされた。

この人が感じたように、私たちも古い文字によって、人を殺したり、人から殺されたり、生かし損なっている歩みがある。それがまさに罪として私たちに迫ってくるのです。

ところが、そういう罪の歩みをしていた私たちのところに、イエス・キリストが来てくださった。十字架による新しい契約を結んでくださった。主イエスが罪をすべて背負ってくださる。私たちが主イエスを信じることによって罪赦される。双方の間で結ばれた新しい契約です。

そしてこの新しい契約に仕える新しい務めが、パウロにも私たちにも与えられています。私たちの務めは、ただこの一点に懸かっています。人を罪に定める務め、古い文字によって人を殺す務め、人のことを裁く務めが私たちに与えられているのではありません。ともすると私たちはそんなことばかりをしてしまいますが、私たちには与えられている務めではないのです。私たちには新しい契約に仕える務めだけです。

今日の旧約聖書のエレミヤ書に、神が新しい契約を結んでくださることが記されています。

「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(エレミヤ書三一・三一~三四)。

ここでは、新しい契約が具体的にどんなものか、記されていないところがありますが、キリスト教会の私たちは、この新しい契約がイエス・キリストによって結ばれた契約だと信じています。最後の晩餐で結んでくださった新しい契約です。この新しい契約によって、私たちは罪赦され、生かされているのです。

今日はペンテコステ、聖霊降臨日です。神の霊が注がれ、私たちの教会に罪赦された新たな命の息吹が吹き込まれていることを、覚えたいと思います。