松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年6月18日(日)
説教題「人生の方向転換をしよう」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第3章12~18節

このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

旧約聖書: 出エジプト記34:29~35

今年は、宗教改革五百年の記念の年です。五百年前、教会を改革する運動が始まっていき、カトリック教会から離れてプロテスタント教会が生まれました。カトリック教会ではさほど関心が寄せられているわけではないでしょうけれども、プロテスタント教会にとっては大事なことです。今年はいくつかの記念行事などが計画されています。

しかし、今年だけ記念行事をして、それっきりとなってしまうのでは困ります。私たちプロテスタント教会は、いつでも宗教改革の精神に立ち戻らなければなりません。なぜ、教会を改革しなければならなかったのか。その精神に戻ることがいつでも大事なのです。

一五一七年一〇月三一日のことと言われていますが、マルティン・ルターという人が、ドイツのヴィッテンベルクという町の門に、九十五箇条の提題を掲げました。その提題が話題となり、議論を呼び、教会の改革運動が始まっていったのです。

歴史は何でもそうですが、いつ始まったのかと言うことがなかなか難しいのです。もっと前から改革運動があったと言えばそうでしょうし、そういう予兆もあったのです。しかしこの九十五箇条の提題が、大きなきっかけとなり、教会改革が始まっていったのは事実です。

この九十五箇条の提題は、文字通り、九十五箇条の言葉が並んでいるわけですが、その最初の第一条はこのように言葉です。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、「悔い改めなさい…」と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである」。悔い改めについてです。五百年前の改革は、罪の悔い改めから始まったことを、プロテスタント教会の私たちはいつでも心に刻んでおく必要があります。

悔い改めとは、向きを変えることです。今まで神さまの方を向かず、背を向けていたのを改め、神さまの方に向き直ることです。日本語では「悔い改める」と訳されていていますが、元の言葉のニュアンスとしては、そういう意味があるのです。

今日の聖書箇所で、「向き直る」という言葉が使われています。一六節のところです。「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。」(一六節)。この一六節で使われている言葉は、聖書でしばしば使われている「悔い改める」とは違う言葉ですが、しかし内容としては同じことを表しています。主の方に向き直る、それが今日の聖書箇所での鍵となる言葉、キーワードです。

今日の聖書箇所では、向き直るということのほかに、いろいろな変化が言われています。覆いが取り除かれるとか、古い契約から新しい契約になるとか、いろいろなことが言われていますが、どれも主の方に向き直ることに関連しているのです。


悔い改めるというのは、何よりも罪を悔い改めるということです。今日の聖書箇所には「罪」という言葉がありませんが、罪に関連する言葉が出てきます。「覆い」という言葉が何度も繰り返し使われています。この覆いのことを、罪と言い換えている説教者もいます。

また、一四節のところに「鈍い」という言葉が出てきます。元の言葉では「固い」という言葉です。固い心を持っている、頑なな心と言った方がよいでしょう。罪を認めない、開き直る、悔い改めない、そういう頑なな心です。

こういう罪に関連する言葉とともに、今日の聖書箇所ではモーセのことが取り上げられています。モーセと言えば、旧約聖書に出てくるあのモーセのことで、エジプトでの奴隷生活を抜け出す際の出エジプトのリーダーです。その脱出の際に、長きにわたって故郷を目指しての旅をつづけましたが、旅の最中に十戒を授かったことでも有名です。

今日の聖書箇所では、まさにモーセが十戒を授かった時のことが踏まえられていますが、十戒を最初に授かった話は、出エジプト記第二〇章に記されています。モーセがシナイ山に登る。そこで二枚の板に書かれた十戒を神からいただくのです。

ところが、シナイ山から下山すると、イスラエルの民が偶像である金の子牛を刻み、それを拝んでいた。モーセというリーダーがシナイ山に登っている間、見えなくなり、不安を覚えたイスラエルの民が、金の子牛という偶像を刻んで拝んでいたのです。モーセはそれを見るやいなや、怒りを発し、二枚の板を砕いてしまいます。

そして今日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の出エジプト記第三四章のところでは、再び二枚の板が神から与えられます。十戒が刻まれていた板です。その際に、驚くべきことに、モーセの顔が光を放っていたと言うのです。驚いたイスラエルの人たちはモーセの顔に覆いをかける。民の前では覆いをかけていたけれども、神の前に出るときには覆いを外すということをしたのです。

パウロは、そういうモーセの箇所を引用して、今日の箇所を書いていきました。出エジプト記の意味を超える、新しい意味をそこに込めたと言ってよいでしょう。今日のコリントの信徒への手紙二の箇所では、「しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。」(一四節)とあるように、古い契約には覆いがかかったままだと言われています。罪のために、こういう覆いがかけられてしまったのです。

ここに出てくる「古い契約」とは、旧約聖書の律法のことであり、何よりも十戒のことですが、なぜ十戒には覆いがかけられてしまったのでしょうか。それは、十戒の一番大事なところが、おろそかにされてしまったからです。

これはイスラエルの人たちだけの問題ではありません。私たちの問題でもあります。旧約聖書に出てくる十戒を、私たちはどのように受けとめているでしょうか。何のためにこの十戒が与えられたのでしょうか。私たちはどのようにこの十戒と向き合ったらよいでしょうか。

先ほども申し上げた通り、十戒は旧約聖書の出エジプト記第二〇章のところに記されています。最近の説教でも申し上げましたが、十戒は第二〇章三節以降のところから、第一の戒め、第二の戒め…、というように続いていきます。二節のところが、十戒の本文が始まっていく前の「前文」と呼ばれる箇所です。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」(出エジプト二〇・二)。

神がすでにこのように救い出してくださった、だからあなたがたは、この十の戒めを守って、神の民として生活しなさい、ということが後に続いていくのです。その神を忘れてしまうこと、神から離れてしまうことが罪なのです。

そのように、十戒には、神に救われた人間としての生き方が書かれています。十戒の前文を忘れるわけにはいかないのです。前文を忘れてしまって、十の戒めの一つ一つを吟味することはできません。わたしは神によって救われた人間として、十の戒めを守っているだろうか、そう吟味しなければなりません。

例えば、十戒の第二の戒め、偶像を刻んではならない、これを守ることができているか。神に救われたにもかかわらず、神を忘れ、神以外のものに信頼を寄せ、様々な偶像を刻んでいる私たちの姿を思い浮かべることができてしまいます。

第六の戒め、殺してはならないはどうでしょうか。単に殺人をしたことがないというだけでなく、神に救われ、生かされている者として、隣人を愛して、きちんと生かしているか、残念ながら隣人を殺してしまっている私たちの姿を思い浮かべることができてしまいます。

そういう意味で、古い契約である十戒と照らし合わせて、自分自身を吟味していくとき、私たちにはいつも覆いがかけられているのです。前文で言われているように、神に救われたにもかかわらず、神を愛し、隣人を自分のように愛することができていない私たちの姿が、浮かび上がってしまうのです。

コリントの信徒への手紙二に戻りますが、改めて一四~一六節をお読みいたします。「しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。」(Ⅱコリント三・一四~一六)。

十戒の戒めの一つ一つを守ることができないだけではなく、最も大事な部分である前文すら見えなくなってしまう、そういう覆いがかけられていた。しかし主の方に向き直れば、そういう覆いが取り除かれるということです。十戒で言えば、十戒の前文に戻るということでしょうが、さらに主の方に、キリストの方に向き直る、そうすると何が見えるか。神に救われたことが見えます。罪が赦されたことが見えます。キリストによって罪が取り除かれたことが見えます。そういう覆いが取り除かれたことが分かるのです。

一七節のところには、霊という言葉が出てきます。「ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。」(一七節)。いきなり、唐突に出てくるように思えます。しかし、コリントの信徒への手紙二の中で、繰り返し使われてきた言葉でもあります。

例えば同じ第三章の六節のところ、「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」(六節)。主とは文字のことです、と言っているのではありません。主とは肉のことです、と言っているのでもありません。

そしてさらに続けて、「主の霊がおられるところに自由があります」とあります。どういう時に自由を感じるでしょうか。何でもできる自由を言っているわけではありません。私たち人間は弱いもので、何でもできると欲望のままになり、却って不自由になることがあります。

ここで言われている自由とはそういう自由ではなく、今までは覆いがかけられていて不自由だった、そして何よりも罪に束縛されて不自由だった。そういう不自由さから、主イエスが私たちの罪を赦してくださり、私たちを解き放ってくださるということです。

そうなると、主イエスを信じる信仰が大事になります。主イエスが二千年前にこの地上におられた、その時の肉が大事というよりも、主イエスを信じる信仰が大事になるのです。

最後の一八節のところに、こうあります。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(一八節)。ここに、キリスト者の歩みが、しかも成長の歩みが記されています。

主と同じ姿に、つまりキリストと同じ姿になることが言われています。本当でしょうか。本当であるとすれば、どうしたら同じ姿になることができるのでしょうか。それは、この箇所でも書かれている通り、鏡であることに徹することです。

この手紙を書いたパウロは、かつてコリントの信徒への手紙一の中でも、鏡について書きました。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」(Ⅰコリント一三・一二)。昔の鏡は、今の鏡とは違って、ぼやけているところがあります。はっきりとは見えません。

しかし自分の顔ははっきり見えなかったとしても、光に関しては違います。たとえおぼろであったとしても、光を当てられれば、しっかりと反射させることができます。そういう鏡のことがここで言われています。

モーセのことを思い起こしていただくとよいでしょう。モーセは光り輝く顔になりました。その顔をしかし覆ってしまいました。私たちはその覆いが取りのけられるのです。自分から光を放つ必要はありません。受けた光を鏡としてそのまま反射させればよいのです。神の恵みを頑なにならず、素直に、ストレートに反射させるのです。

鏡はそのまま主のお姿を映し出すことができます。私たちは鏡であることに徹するのです。自分から光を放つ必要はありません。ただ反射させる。そのようにして、主と同じ姿に変えられていく。ある説教者は、こう言います。「すべてのキリスト者がモーセになるのだ」と。パウロは念を押すように、「これは主の霊の働きによることです」と最後に言っています。

教会の改革者ルターは、九十五箇条の提題の最初のところで、全生涯が悔い改めだと言いました。一度悔い改めたらもうおしまいではない。何度も、日毎の悔い改めです。ルターが言ったことは、宗教改革の引き金になった言葉は、いつでも正しいのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所も、悔い改めること、向き直ることから始めるようにと説いています。私たちの人生の方向転換の道がここにあります。十戒の文字に向かうのではありません。その文字を切り貼りするのでもありません。そうではなく、主の方に向き直る。十戒の前文の言葉にもう一度立ち返る。神がまず私たちを救ってくださった、そのことから始める。

私たちは、神に悔い改めた時に、本当に変わることができるのです。本当に自分が悪かった。神に対しても人に対しても誠実ではなかった。十戒に照らし合わせて、自分の罪を、覆いがかかっていたことを素直に認める。そして主の方に向き直る。これが私たちの出発点であり、いつでも悔い改めて戻ってくるべき原点です。

それなしに、いきなり倫理を求めることはできません。私たちの生活を整えることも、キリスト者の歩みも続いていきません。キリストが拓いてくださった道があります。悔い改めの道であり、赦しの道であり、救いの道です。私たちが本当に生きるべき道がこの道なのです。