松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年5月28日(日)
説教題「キリストの推薦状として生きる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第3章1~3節

わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。

旧約聖書: エゼキエル書11:14~21

先週は東海教区の総会があり、出かけてきました。私は教区の書記として、準備にあたって臨んだ総会でありましたが、任期の二年を終えることができました。今後のことを考え、書記だけでなく、教区の様々な務めから降りさせていただきました。お支えくださった皆様に感謝申し上げます。

教区総会で、いろいろなことがなされましたが、准允を受けられて補教師になられた方が二名、按手を受けて正教師になられた方が二名、おられました。補教師の方が教会に赴任すると伝道師と呼ばれます。正教師の方が教会に赴任すると牧師と呼ばれます。按手を受けるとは、すなわち牧師になることにも等しいと言えるわけですが、そのようにして新たな牧師が二名生まれた総会でもありました。

按手というのは、牧師にとって重大なことです。私も按手を受けた時のことはよく覚えております。牧師になるためのプロセスというのは、一概には言えないところがありますが、日本基督教団ではだいたいにおいて、こういうプロセスをたどることになります。伝道者としての志が与えられて、神学校に入学します。神学校で学びをして、卒業をします。試験を受けます。それに合格すると准允を受け、補教師(伝道師)になります。さらに一定期間が経つと試験を受け、それに合格すると按手を受けて、正教師(牧師)になります。

そういうプロセスを歩む中、自分は牧師としての使命に召されているのだろうかと、問い続けることになります。按手を受けて牧師になるわけですが、按手を受けた後も、そこでおしまいというわけではない。牧師であることを問い続ける歩みが続いていくのです。

牧師として、支えになることがいくつもあります。按手を受けたというのが、何よりの支えになるでしょう。按手というのは、使徒言行録にも書かれていますが、伝道の務めにあたらせるために、手を置いてその職務にあたらせるということです。その按手を受けたことは、牧師としての何よりの支えです。

あるいは、誰かが自分を推薦してくれたということが、支えになるかもしれません。例えば私は、神学校の学長の推薦を受けて、松本東教会に赴任しました。松本東教会が神学校に牧師の推薦を依頼し、その依頼を受けて、学長が私を推薦したのです。その推薦が支えになるかもしれません。

しかし支えはそれだけにはとどまりません。本日、私たちに与えられた聖書箇所で、パウロはコリント教会の人たちに対して、「あなたがたが推薦状だ」というようなことを言っています。「あなたがた」とは教会員のことですが、牧師にとって、教会員の存在そのものが、牧師であることの証しになる。パウロは今日の聖書箇所でそのようなことを言っているのです。

今日の聖書箇所には、「推薦」という言葉が何度も繰り返し出てきます。改めて、推薦ということについては考えていきますが、最初の一節のところにこうあります。「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。」(一節)。

「ある人々のように」という人たちが出てきます。どういう人たちなのかは具体的によく分からないところがあります。けれどもこの人たちがどういう人たちだったのか、新約聖書学者が教えてくるのは、コリント教会の初代牧師であったパウロの権威を否定し、本来の信仰から離れさせてしまった人たちのことではないかと言われています。パウロのことを、あの人は本当に使徒なのか、あの人は本当に伝道者なのか、かつては教会の迫害者だったではないか、という具合にパウロを非難してきた人たちのことであろうと言われています。

この「ある人々」は、パウロに反対するわけですが、どうも「推薦状」に関することで批判をしていたようなのです。当時の習慣として、ユダヤ人が他の集会に訪れる際には推薦状を持って行った、そういう習慣があったようです。これはユダヤ人だけに限らないでしょう。自分が知らない地へ行く、誰かからの推薦状を携える。そしてこの人物に間違いはないということを、証ししてもらったのです。パウロは旅をして回る伝道者でした。コリントにもやって来て伝道をした。その際の推薦状のことが問題になっているのです。

しかしパウロがここで言っているのは、紙に墨で書かれたような推薦状ではなく、もうすでにあなたがた自身が推薦状になっているということです。「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。」(二節)。

パウロはコリント教会の初代牧師です。コリント教会の多くの人たちは、パウロの伝道によってキリストを知り、キリストを信じて、キリスト者になったのです。つまり、コリント教会の人たちの心の中に問いかけていることになります。あなたがた自身が一番よく知っているはずではないか、私があなたがたに正しく信仰を伝えたことを、そこからなぜ離れてしまったのか、パウロはそう訴えているのです。その意味で、あなたがた教会の人たちが、墨で紙に書いたような推薦状ではないかもしれませんが、もうすでに推薦状になっているのです。

今日の聖書箇所に出てくる「推薦状」という言葉は、「推薦の」「手紙」という二つの言葉です。今日の説教の説教題を「キリストの推薦状として生きる」と付けましたが、「キリストの手紙として生きる」と言ってもよいのです。コリント教会の人たちだけでなく、私たちも「キリストの手紙として生きる」ことになります。

この手紙について、三節のところにこうあります。「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」(三節)。手紙を書く主語は「キリスト」です。キリストが手紙を書かれます。「神の霊」が大事な働きをします。そういう動作を受けるのが私たちです。

改めて「推薦」ということに関して考えてみたいと思います。この世の一般的な推薦は、どのようになされるでしょうか。例えばあるグループに入ろうとする。入るための条件として、そのグループにすでに属している誰かの推薦を受けなければならない、ということがあると思います。あるいは教会の場合でも、推薦が必要な場合があります。伝道者としての志が与えられて、神学校に入学しようと思う。その場合、所属教会の牧師の推薦状が必要になります。そのように、推薦をする人と、推薦をされる人がいる。その推薦によって、両者が同じところに立とうとするのです。

聖書で使われている「推薦」という言葉、元のギリシア語では、二つの言葉の合成語になっているもので、「共に」「立つ」というような意味があります。二人の人、つまり推薦する人と推薦される者が、共に同じところに立つのです。

しかしパウロは共に立つといっても、人間同士が立たせ合うことを考えているわけではありません。そのような人間レベルの話ではなく、三節の言葉にあるように、キリストが神の霊によって立たせる。これが人間が立ち上がることができる出発点です。パウロもそうでした。教会やキリストを迫害する迫害者から、その罪を赦されてキリスト者になり、伝道者になり、コリント教会の初代牧師になりました。コリント教会の人たちもパウロの伝道者としての働きによってキリスト者になったかもしれませんが、そもそもはキリストが神の霊によって、コリント教会の人たちを立たせたのです。

このようにしてパウロもコリント教会の人たちも共に立つことができるようになりました。そして「推薦状」に、「手紙」になるのです。すべてのキリスト者がそうです。手紙の差出人はキリストです。宛先は、どこでしょうか。宛先は「すべての人」です。そういう手紙になるのです。

この「推薦」という言葉は、コリントの信徒への手紙二で頻繁に使われている言葉です。例えば、第一〇章一二~一七節のところに出てきます。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。」(一〇・一二)。ここにも、今日の聖書箇所に出てくる「ある人々」のことが出てきます。互いに墨で紙に書かれた推薦状を書き合うようにして、値打ちを比較し合っていることが言われています。

しかしパウロは、そういう推薦状によって誇るのではなく、誇る限度を超えてはならないと言います。「わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。わたしたちは、あなたがたのところまでは行かなかったかのように、限度を超えようとしているのではありません。実際、わたしたちはキリストの福音を携えてだれよりも先にあなたがたのもとを訪れたのです。」(一〇・一三~一四)。

そして「誇る者は主を誇れ」(一〇・一七)と言い、最後のところでこう言います。「自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。」(一〇・一八)。ここでも自分のことを必死に推薦しようとするのではなく、キリストが神の霊によって書いてくださった手紙に徹することを、パウロは言っているのです。

そうなると問題になってくるのは、この手紙にはいったい何が書かれているか、ということです。パウロやコリント教会の人たち、そして私たち自身が手紙というわけですが、この手紙の内容が何かということです。

もう一度、確認をしたいと思いますが、手紙の差出人はキリストです。受取人はすべての人です。そうなると、手紙の内容は、私たち自身のことではないはずです。むしろ、私たち自身が手紙として、自分の存在そのものによってこの手紙を運ぶということになります。手紙を読んだ人は、私たちのことが分かるのではなく、キリストのことが分かる。先週の説教の「キリストの香り」だと言ってもよいわけです。手紙の中身は、私たちのことではなく、キリストのことが書かれているのです。

私たちはキリスト者として、どこか立派でありたいと願うところがあります。少なくともキリスト者らしく歩みたいと願う。そしてもしも自分が立派でないことを恥ずかしく思うならば、キリスト者であることを隠そうとさえ思うようなところがあります。

キリスト者としての歩みの中で、いろいろな戦いがありますが、人間的な立派さで飾ろうとするところに、闘いがあると私は思います。人の立派さで自分を飾ろうとする、そういう立派さが際立つと、キリストの影が薄くなってしまうようなことがあるかもしれません。むしろ自分の罪や弱さを素直に認め、自分こそキリストの救いがどうしても必要であり、神の霊の導きなくしては生きていけない、そのことを心から認めて、神の救いを信じる。それが「キリストの手紙」になるということです。

三節のところに、「石の板」「心の板」という言葉があります。おそらくこういう表現は、旧約聖書から出てきたものだと思います。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書のエゼキエル書にも、似たような表現があります。「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。」(エゼキエル一一・一九)。

エゼキエル書の別の箇所や、エレミヤ書にも似たような表現があります。石から肉へ。石のようなかたくなな、罪を認めようとしない心から、肉の心へ、罪を素直に認め、神に立ち返る心へ、神が変えてくださるということです。パウロは、旧約聖書でよく知られていた表現をここで用いたと言えるでしょう。

ただし、パウロは単に石から肉へという表現だけを使っているのではなく、「板」という言葉も付け加えました。「石の板」から「肉の板」へ、ということです。エゼキエル書にはない表現ですが、「石の板」というのは、十戒の箇所をご存知の方ならば、すぐに思い浮かぶと思います。神から十戒、十の戒めを授かった時、二枚の「石の板」に書かれていたのです。このことから、「石の板」とは十戒をはじめとする律法のことであり、パウロはこの後のところで「古い契約」(一四節)という言葉を使っています。

それに対して「心の板」。「心の板」とは、私たちの心に刻まれた福音のことを表しているのでしょう。福音とは、よき知らせという意味ですが、キリストが私たちの罪を背負い、十字架にお架かりになり、私たちの身代わりになってくださり、罪を赦してくださったことです。そういう救いを「心の板」に刻まれたということです。そのことが刻まれることによって、「キリストの手紙」になるのです。

パウロもコリント教会の人たちも、そして私たちも「キリストの手紙」である。責任重大です。二節のところには「すべての人々から知られ、読まれています」とあります。三節のところには「公にされています」ともあります。責任重大です。

しかしこの責任を自分で負おうとするならば、私たちは間違えてしまいますし、責任を負いきれません。自分で推薦状を必死に書こうとするのではなく、人から推薦状をもらおうと躍起になるのでもなく、むしろ素直にキリストの救いを受け入れ、神の霊の導きを受けて生きる。その歩みこそが「キリストの手紙」としての歩みなのです。