松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年5月14日(日)
説教題「愛と赦し」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第2章5~11節

悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。

旧約聖書: イザヤ書55:6~11

聖書には、とてつもなく広い世界が広がっています。それに対して、私たちが持っている私の世界は、どうしても限定された狭い世界になってしまいます。私たちは物事を判断する時、どうしても自分の範囲内で考えてしまうところがあります。私たちは自分の経験を大事にします。自分の知っていることを大事にします。自分のできることの範囲を考えます。もちろんそれは大事なことかもしれませんが、聖書を読む時、御言葉を聴く時にはそれは当てはまりません。私の世界で、聖書のすべて理解しきれるわけではないのです。

このことを表すかのように、エフェソの信徒への手紙には、こうあります。「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」(エフェソ三・一八~二一)。

ここには、キリストの愛がいかに広いか、長いか、高いか、深いか、ということが言われています。キリストの愛も、自分の頭で分かる程度にしか理解できない私たちかもしれません。しかし、キリストの愛の中にすっぽりと入ってみる。そうすると、その広さ、長さ、高さ、深さが分かってくる。そのことを言い表している言葉です。

聖書を読んでいると、そこから御言葉を聴いていると、いろいろなことが分かります。自分がこれまで考えてもみなかったことを、考えさせられます。聖書を読むと、自分の世界を広げることができる。言い換えると、自分が変わっていく。今の自分のままではいられなくなるのです。

聖書の中に、罪という言葉があります。聖書は、読者を罪のままでいることを許していません。変わることを要求します。その変わる秘訣も書いてくれています。罪とは何でしょうか。罪とは、神の律法に従い得ないこと、そのように言うことができます。もっと簡単に言うならば、聖書に書かれていることと外れた生き方をしている、ということです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所にも、私たちの生き方の道しるべが記されています。私たちの教会生活のことが記されています。赦しなさい、愛しなさい。聖書の最も大事なことが言われ、私たちに変わるように要求している、そんな聖書箇所なのです。

今日の聖書箇所の最初の五節にこうあります。「悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。」(五節)。「悲しみの原因となった人」という人が取り上げられています。今日の聖書箇所の言葉遣いからすると、これは一人の人です。元の言葉では、「彼」「この人」という言葉が使われているからです。

パウロは、先週の聖書箇所で「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました」(四節)と書いているように、この問題に関して、涙の手紙を書きました。この涙の手紙自体は、どういう内容が書かれたのか、今の私たちでは知る由がありませんが、おそらくこの涙の手紙の中で、この人のことを具体的に書いたのだと思います。

どういう問題を起こしたのか、具体的にはやはりよく分かりません。パウロがコリント教会を創設して、教会を去った後、おそらく指導的な役割を果たしていたのだと思います。そういう中で、パウロの権威を否定するのです。パウロはかつては教会の迫害者だったではないか、使徒だなんてとんでもない、という具合だったのでしょう。そして、単にパウロからコリント教会員を離れさせただけではなく、キリストの十字架による救いから離れさせてしまった。そういうことがあり、涙の手紙をパウロは書いたのです。

九節のところにはこうあります。「わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。」(九節)。パウロが書いた涙の手紙は、コリント教会の人たちに効果があったようです。パウロの涙の手紙を読んで、この問題を引き起こした人を退けたのです。六節のところにはこうあります。「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。」(六節)。コリント教会の人たちはパウロから試された、いわば試験やテストを受けたことになりますが、その問題を起こした人を退けましたので、一応、合格することができたと言えるかもしれません。

しかし、本日、私たちに与えられた聖書箇所では、もはやその人の名前など具体的に挙げられていません。もうあの罰で十分だとパウロは言います。それどころか、その人を赦しなさい、愛しなさいということが言われていきます。罰するどころか、赦し、愛するのです。コリント教会の人たちの赦しと愛が問われているのです。

愛という言葉もそうですが、赦しという言葉も、聖書によく出てくる言葉です。例えば、ある時、主イエスの弟子が主イエスに尋ねます。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」(マタイ一八・二一)。これに対し、主イエスは言われます。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」(マタイ一八・二二)。

赦しに関する非常に有名な箇所でもありますが、実はここで使われている赦しという言葉と、今日の聖書箇所に出てくる赦しという言葉は、元のギリシア語では違う言葉なのです。今日の聖書箇所に出てくる言葉は、確かに「赦す」と訳せるのですが、もともとは「恵み」という言葉に由来する言葉です。普通に訳せば「施す」「贈与する」というような意味で、つまり「恵みを与える」という意味なのです。それが転じて「赦す」という訳になっています。

このことから、赦しとはどういうことがよく分かると思います。赦し、赦すと言われて、私たちはどういうことを考えるでしょうか。赦すのだから、まあ、あなたのことを不問に付す、そういうことを思い浮かべるでしょう。あるいは水に流す、お互い様なのだから、水に流しましょう、というようなことを思い浮かべるかもしれません。しかし赦しはそれだけにとどまらないのです。まあ、いいよ、と言って赦してやるだけでなく、その相手に恵みを与えることなのです。

赦し、愛せということが、七節から八節にかけて言われています。「むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。」(七~八節)。

ここではパウロはどういうことを言いたいのでしょうか。単にこの人のしたことを不問に付すとか、この人の心のケアをしてあげなさい、ということに留まらず、一緒に教会生活をこれからもすることができるように、ということだと思います。人間的な親しさのことではありません。一緒に礼拝ができるか。一緒に讃美をすることができるか。一緒に祈ることができるか。そのことが問われています。もしもこの人が教会から脱落してしまったとしたら、それはむしろあなたがたの責任だ、パウロはそこまでのことを言っているのです。

一一節のところに、突然、サタンのことが出てきます。「わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。」(一一節)。「サタンのやり口は心得ているからです」というのは、私たちは心得ている、ということです。私たちとはパウロとコリント教会の人たちです。そういう共通理解があったのです。今の私たちは、「サタンのやり口」を心得ているでしょうか。

サタンを、本当に実体のある者として考えるかどうかは別にして、聖書が言っているサタンの目的ははっきりしています。人間を神から離れさせることです。そういうサタン的な力が働いていることを、否定することはできないでしょう。私たちも実感があるはずです。今日の日曜日、礼拝に行ってみても得るものはないよ、別のことをしていた方がいいじゃないか、そういう誘惑の声と闘いながら、今日来られた方もあるかもしれません。そういうサタンの力があることは否定できません。

サタンが最も得意とする誘惑は、こういう誘惑であると思います。キリストの十字架による救いがあるにもかかわらず、私なんか救われるはずはないと思ってしまう。あの人なんか救われるはずがないと思ってしまう。あるいは、今のとは逆で、私にはすくなど要らない、神やキリストなど要らないと思ってしまうことです。そういうように思ってしまったならば、それはサタンに支配されてしまっているということになります。

パウロも、コリント教会の人たちも、サタンのやり口をよく心得ていた、はずでありました。コリント教会には次々といろいろな問題が生じていました。そのたびに、サタンの力を思い知ったのでしょう。また、サタンに力にやられてしまった。しかし立ち直り、しかしまたやられてしまった。サタンに力を知りながらも、またサタンに敗北してしまう。パウロもここで改めて、「サタンのやり口」を書いているのでしょう。

このことを今日の聖書箇所の文脈で考えていきますと、もし問題を起こして罰を受けたこの人が教会から追い出されてしまったら、あるいは悲しみに打ちのめされてしまったら、それはサタンの勝利ということになります。教会の敗北です。こう考えると、この問題は私たちにとっても身近な問題になります。愛せない、赦せない、そういうところで、サタンが勝利を収めてしまうのです。

それでは、私たちはどうしたらよいでしょうか。どうすれば赦せるようになるでしょうか。パウロは今日の聖書箇所で、その秘訣を書いてくれています。一〇節のところにこうあります。「あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。」(一〇節)。

この箇所では、赦しにおいて教会で一致することが言われていますが、何よりも強調されているのは、「キリストの前で」という言葉です。「キリストの前で」赦す。「わたしの前で」赦すのでも、「わたしたちの前で」赦すのでもありません。「キリストの前で」です。

ここで使われている「前で」という言葉は、聖書ではよく使われている表現ですが、実は「顔」という言葉です。キリストの顔の前で、面前で、キリストが見てくださっている中で、キリストのまなざしが注がれている中で、ということです。

私が神学生だった時代の話です。毎日、神学校のチャペルで礼拝をしていますが、大学院になると礼拝の説教を担当するようになります。私が初めてチャペルでの礼拝の説教を担当した時のことです。説教の内容として、キリストのまなざしが注がれているという話をしました。

そうしましたら、チャペル礼拝が終わった後、当時の学長にチャペルを出たところで呼び止められました。説教について、何らかのことを言われるのだろうと思いましたが、ちょっとそこで待っていなさいということを言われ、学長が自分の部屋に戻り、一分くらいしてすぐに戻って来られました。そうしたら手に一冊の小さな本を持っておられ、「目には目を」と一言だけ言われ、その本をプレゼントしていただきました。『主イエスの目差し』(山内眞、東神大パンフレット)というタイトルが付けられた本です。

この本の中には、学長がなさった講演や論文がいくつか載せられています。最初のものは、入学式の際に新入生たちに語られたメッセージです。その最初のところにこうあります。「いずれにしましても、その主の目差しと、続く「わたしについて来なさい」との主の招きの言葉の双方からなる主イエスの側のアクション、それが、そもそもことの起こりとなり、それを受け、それに応えるかたちでペテロたちの「従う」という行動がもたらされている。」(『主イエスの目差し』、六頁)。

主イエスのまなざしと招きの言葉が最初にある。それがあって初めて、私たちの行動が後から伴ってくるということです。伝道者、牧師になるという志が与えられ、入学してきた神学生たちへのメッセージの言葉です。

今日の聖書箇所で、赦しなさい、愛しなさいと言われています。しかし、赦せない、愛せない、そういう心の声と相変わらず闘っている私たちであるかもしれません。しかし聖書は私たちに変わることを求めています。赦すために、愛するために、キリストのまなざしがあり、キリストの招きがあることを、何よりもまず思い起こしたいと思います。

コリント教会の人たちは、パウロから今日の聖書箇所に言われている通りに、手紙を受け取りました。この手紙を読んでどうしたでしょうか。コリント教会の人たちも、赦すこと、愛することを、うめきながら悩んだかもしれません。私たちも同じであります。私たちが人を赦すために、自分も赦されなければならない存在であることを、まず知る必要があります。そして自分もまた、「キリストの前」で赦されたことを知らなければなりません。

実際に私たちはそうされた者なのです。そのことから始めることができるのです。そのことに気付くことができる。それを土台として歩むことができる。それが聖書の力です。私たちが変わることができる道がそこにあります。「キリストの前」から、赦しの道が、愛の道が始まっていくのです。