松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年5月21日(日)
説教題「キリストの香り」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第2章12~17節

わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが、兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました。神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。

旧約聖書: レビ記1:1~17

コリントの信徒への手紙二から御言葉を聴き始めて、二か月が経ちました。最初の説教がなされたのは、三月一九日のことになります。それから二か月、今日は第二章の終わりのところにまで至りました。

この二か月間、いろいろな方から感想を伺うことがあります。その中で、この手紙を書いた「パウロのイメージが少し変わった」という感想が、一番多かったように思います。パウロはたくさんの手紙を書き、力強いことを言っています。力強い働きをしています。そういうことから、私たちはパウロの力強さを感じ、パウロを信仰深い、とても強い人だと思うところがあります。確かにそういう面もありますが、それがすべてではない。パウロにも、弱さがあるのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所に、小見出しが付けられています。「パウロの不安と安心」という小見出しです。いつも申し上げていますが、こういう小見出しは、聖書にもともとあったわけではありません。便利な時もありますが、あまり小見出しが的確でない場合もあります。今日の聖書箇所の中に、確かに不安という言葉はありませんが、安心という言葉はなく、あまり安心などとは言えないような状況かもしれません。しかし不安の中にあっても、決して失われない者、パウロを「強くしている」ものがある。そのことが語られていると思います。

この時のパウロの状況はどのようなものだったのでしょうか。一二~一三節にこうあります。「わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが、兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました。」(一二~一三節)。

先週までの説教でも申し上げてきましたが、この時、コリント教会を創設したパウロと、コリント教会の人たちとの関係は、ぎくしゃくしたものでありました。パウロがコリント教会のことを立て直そうとしましたが、うまくいかず、「涙の手紙」を書きました。

その手紙をテトスに持たせたのだと思います。テトスをコリント教会に派遣した。パウロとしては、そのことが気になって仕方ないのです。テトスを受け入れてくれたか、それともテトスのことも拒否されてしまったか、一体どうなったのか、気がかりで仕方なかった。トロアスという場所でテトスに会えるかと思ったけれども会えなかった。ますます気がかりになる。それどころか不安で仕方なかった。そういう状況の中に置かれているのです。

テトスの訪問の結果がどうだったのか。私たちも気になることかもしれません。テトス訪問の結果は、実は第七章六節以下になって語られます。つまり、今日の聖書箇所からしばらくの間、パウロはその結果をすぐには示さないのです。不安の中に置かれたことを、まず書いているのです。

コリントの信徒への手紙二の研究者たちが書いた文章を読みますと、いろいろなことが言われていますが、第二章一三節から第七章五節を続けて読むと、すっきりとつながることが指摘されています。私たちもつなげて読んでみたいと思います。

「わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが、兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました。」(一二~一三節)。「マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」(七・五~一〇)。

こういうことから、新約聖書学者たちは、もともとつながっていたものを、パウロが不安だと言っているところで分割し、第二章一四節から第七章四節までの内容を、その間に入れたのではないかと考えています。

私たちが何らかの文章を書く時のことを考えてみるとよいと思いますが、私たちもいろいろなことを考えて文章を書きます。こういうことを書こうと思う、あんなことも書こうと思う、そのようにたくさんの素材をまず考えるのです。そして今度は、その素材をどのように組み合わせるかということを考えていきます。Aという素材とBという素材があったとすれば、Aを先に書いてBをその後に加える、というように考えるかもしれません。あるいは、Aをどこかで分割し、そこにBを加えるように文章を作っていくかもしれません。

パウロがしたのはまさにそのようなことだと思います。パウロの不安をまず書いた。すぐには結果を書かなかった。パウロ自身も、ずいぶん長い間、不安の中に置かれたと思います。その不安の中で考えさせられたこと、思わされたことがあった。そのことを長々と書いていった。それが、第二章一四節から第七章四節までの内容ということになります。

パウロは不安の中で何を考えていたか。最初の一四節のところにあるように、「神に感謝します」(一四節)ということから始まっています。また、キリストの香りということも、今日の聖書箇所に出てきます。第四章のところには、「土の器」という言葉が出てきます。パウロが神からいただいた宝を、自分自身のことを指している「土の器」に入れている。神の器であることに徹しているのです。第六章一節には「神の協力者」とあります。不安の中にあっても、それでも変わらないことを挙げていっているのです。

一四節のところに、こうあります。「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。」(一四節)。

「勝利の行進」とあります。これは古代ローマ帝国でよく行われていた、凱旋式のことを表していると言われます。凱旋式というのは、ご存知の通り、戦争で勝利を収める、市民は最初その知らせだけを受けるわけですが、戦ってきた人たちが帰ってくる、その際になされるセレモニーです。戦いのリーダーの凱旋将軍が白馬に乗った車に引かれてくる、一緒に戦った兵士たちが歩く、それだけでなく、戦いに敗れた兵士たちを鎖でつないで歩かせる。そのようなセレモニーを行うことによって、本当に勝利をしたことを味わうことになるのです。

パウロはこの箇所で、そのイメージを持ち出して語っていることになります。凱旋将軍はもちろんキリストのことを指しているのでしょう。問題はパウロやコリント教会の人たち、私たちは凱旋の列のどこを歩いているか、ということです。「勝利の行進に連ならせ」としか書かれていません。凱旋の列にはいろいろな人がいるわけです。

将軍キリストと一緒に戦った兵士の中にいるのか。キリストと苦難を共にし、戦ってきたのなら、その中にいるでしょう。それとも鎖につながれている兵士の中にいるのか。キリストは十字架において罪との戦いを戦ってくださり、勝利をしてくださいました。私たち人間が手助けをしたというわけではありませんから、キリストはお一人で戦ってくださった、勝利をしてくださった。その勝利によって、私たちが罪から解放されて、キリストの僕として、僕は奴隷という言葉ですから、キリストの奴隷として鎖につながれて、凱旋の列を歩いている、そういうようにも考えることができるのです。

パウロの言葉遣いから、いったいどちらなのか、あまりそのことははっきりしません。多くの説教や新約聖書学者たちの書いたことを読んでみましたが、意見が二つに割れているのです。しかもどちらにも一理あるのです。

しかしどちらもであったとしても、結局は同じことを表しているのだと思います。なぜなら、凱旋式自体の目的は、あくまでも勝利を知らしめるものだからです。将軍と一緒に戦った兵士も、戦いの勝利を証しするために一緒に歩くのでありますし、鎖につながれている兵士も、やはり戦いの結果を証しするものだからです。列のどこに加わっていようとも、キリストの勝利を証ししていることになるのです。

そのことを、今日の聖書箇所では、キリストの香りを放つと表現しています。今日の説教の説教題を、「キリストの香り」と付けました。先週一週間、教会の前にその説教題が掲げられていたことになります。それをご覧になった方がおられ、この説教題のことが、先週の平日の集会で話題になりました。自分はキリスト者として、キリストの香りを放っているだろうか、という話題です。

確かに「キリストの香り」と言われれば、まずそのことが気になるかもしれません。キリストの香りを放って、キリスト者らしい言動によって、伝道することができる、まず私たちはそういうことを考えてしまうかもしれません。

しかし、今日の聖書箇所をよく読むと、それとは少し違うことが言われているのが分かります。一五節のところに、「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです」とあります。香りによって伝道するということよりも、私たちの香りが神に献げられると言っているのです。

同じような表現が、フィリピの信徒への手紙にもあります。「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。」(フィリピ四・一八)。ここでは献金あるいは献品のことが言われていますが、それらがかみに献げられる「香ばしい香り」であると言われているのです。これも神への献げ物の香りです。

神に献げられる香りということに関して、本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書のレビ記にも、そのことが記されています。この聖書箇所の朗読を先ほどお聞きになられて、一体この聖書箇所は何だ、と思われた方もあるかもしれません。牛や羊や山羊や鳥を献げる時のことが言われています。しかもかなり具体的です。

何のためにこのようなことをしているのか。「罪を贖う儀式」(レビ記一・四)とありますように、罪を犯してしまった者が、罪の赦しを得るために、こういう礼拝をする必要があったのです。当時の家畜は、人間にとっての財産でした。罪を犯したならば、自分の財産を献げ、いわば自分で代価を支払って、罪の赦しを得ていたのです。そういう儀式です。

その儀式を行う際に、その家畜を焼き尽くす。牛を焼き尽くさずに、残った肉の部分を食べるわけではなく、焼き尽くす。その際に出る香りを、「宥めの香り」(レビ記一・九、一三、一七)とするのです。その香りを神に献げるのです。

新約聖書のエフェソの信徒への手紙にこうあります。「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」(エフェソ五・二)。旧約聖書では、罪を犯したならば、自分の家畜を献げることによって、自分で自分の罪の責任を負っていましたが、人間はいつまで経っても、罪を犯し続けてしまいました。ちっとも罪の問題が解決しなかったのです。そんな中、キリストが罪を代わりに負ってくださり、屠られる家畜になってくださり、宥めの香りになってくださった。こういう旧約聖書の背景が分かれば、キリストの十字架もより分かってくると思います。

キリストが私たちの罪の赦しのために、宥めの香りになってくださったのです。私たちが身に帯びている香りも、この香りです。別の香りではありません。何か麗しい香りを私たち自身の力によって放つ必要はありません。キリストの香りを、混じり気なく身に帯びるのです。

キリストの勝利の行進に連なっている者は、もうすでにこの香りを帯びているのです。一緒に戦った兵士もそうです。鎖につながれている兵士もそうです。皆がキリストの勝利を証ししている。キリストの香りを放っているのです。

凱旋式を見ている周りの人たちがいます。その人たちのことが、一五~一六節のところで言われています。「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。」(一五~一六節)。

もちろん私たちが他者の救いを決めたり、滅びを決めたりするわけではありません。他者が香りを嗅いだ結果、どうなるのかは私たちの範疇にはありません。しかし私たちを通して、キリストの香りが放たれる事実を、パウロは言っているのです。

最後の一七節にこうあります。「わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」(一七節)。売り物にせず、とありますが、逆に考えると、売り物にする者たちがいたということにもなります。神の言葉は無償で、タダでいただいたものです。それを用いて利益を得ようとする、自分の都合のよいようにしようとすることが言われています。

このことを香りから考えてみると、よく分かると思います。「誠実」という言葉もありますが、これは「純粋」ということです。キリストの香りをいただき、その香りに何も混ぜない、そういう純粋さが大事なのです。受け取ったものを、まっすぐにそのままにする、そういう誠実さが大事なのです。

それではどうすれば誠実なのか。パウロが不安の中にあって、まず最初に言った言葉に、私たちも立ち返ることができます。「神に感謝します」(一四節)。パウロがまず、最初に言った言葉です。私は凱旋将軍であるキリストによって救っていただいた者、勝利の列に連ならせていただいている者、そのことへの感謝を献げること、それが純粋で誠実なことです。それを抜きにして、キリストの香りを放とうとか、何かをしてやろうと思うことはできません。

キリスト者の歩みというのは、まず、神さまありがとうから始まっていきます。一緒にキリストの兵士として戦っていようとも、鎖につながれていようとも、キリストの勝利の列に加わっている者なのです。それがすべての不安に打ち勝つ力になるのです。