松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年5月7日(日)
説教題「愛の決心」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第2章1~4節

そこでわたしは、そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました。もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばせてくれるでしょう。あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。

旧約聖書: ホセア書11:1~9

「悲喜こもごも」という言葉があります。悲しみと喜びという漢字に「こもごも」を付けた言葉です。私たちは悲しみや喜びを経験しながら人生の歩みをしていますが、「悲喜こもごも」、その意味としては、悲しみと喜びがかわるがわるにやって来る、という意味です。

自分自身のことを考えてみるとよいと思いますが、私たち人間は様々な感情を抱きます。悲しみや喜び、それ以外にもたくさん挙げることができるでしょう。いつも同じ感情ばかりで、私には悲しみはない、逆に喜んだことがない、という人はいないわけで、私たちは悲しみも喜びも経験します。

それらが、かわるがわるやって来るとも言えますし、同時に複数の感情を抱いていることもあると思います。人間は複雑な心を持っています。一方ではこういうことを悲しんでいるけれども、他方では別のことを喜んでいる。そういう感情が同居している場合もあると思います。

昨日、教会員のお連れ合いの葬儀を行いました。多くの教会員も葬儀の礼拝に出席をしてくださり、感謝しております。葬儀というのは、当たり前のことかもしれませんが、人間の感情で言えば、悲しみが主たる感情です。愛する者との別れですから、当然のことです。しかも今回の場合は、七七歳で思いがけず、突然、倒れられ、死を迎えた。早すぎる別れと言えるでしょう。

しかし先週はゴールデンウィークでもありました。もともとご家族が集まる予定がありました。家族の皆が集う中、最期の看取りをすることができた。ご家族もそのように受けとめることができました。愛する者を失った悲しみがもちろんあるわけですけれども、そのような中でも、家族そろって最後の看取りをすることができた。そういう感謝の思いもあるわけです。

そもそも葬儀においては、悲しみの最中で、神からの慰めの言葉を聞き取るのです。愛する者を失う悲しみの中にも、この愛する者を神が私たちの間に与えてくださった、そのことを受けとめ、感謝して、讃美を献げるのです。悲しみ一辺倒ではなく、前向きな思いとして受けとめるべきことを受けとめるのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所には、パウロやコリント教会の人たちの感情が記されています。悲しみという言葉があります。喜びという言葉があります。まさに「悲喜こもごも」と言ってもよいと思われる内容です。一節から二節にかけて、こうあります。「そこでわたしは、そちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました。もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばせてくれるでしょう。」(一~二節)。

毎週の説教で申し上げていることですが、この手紙を書いた使徒パウロ、コリント教会の設立者でもあったパウロは、コリント教会を再訪問する計画を立てましたが、この計画を断念しました。状況が悪かったからです。今、自分がコリント教会に行ったとしても、コリント教会の人たちを悲しませる結果に終わるだろう。そのことで訪問を取りやめたのです。三節前半にこのようにある通りです。「あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。」(三節)。

聖書は、悲しみについてもしっかり語ります。信仰を持ったから悲しみがなくなる、などとは言いません。悲しみを無理やり喜ばなければならないと語るわけでもありません。むしろ、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマ一二・一五)というように語ります。それが本当の教会の姿でありますし、人間としての本来の姿でもあると思います。

先ほど朗読した二節のところに、悲しみと喜びの両方の感情が出てきます。「もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばせてくれるでしょう。」(二節)。ここで言われていることを、よく把握していただきたいと思いますが、パウロがもしコリント教会の人たちを悲しませるとするならば、パウロの喜びもまた同じコリント教会の人たちによる以外にないと言っているのです。今はコリント教会の人たちのことを思い、悲しみの感情を抱かなければならないかもしれないけれども、しかし同じ人たちによって、喜びの感情をも抱くことができると、パウロは言っているのです。

そのような喜びの確信を、パウロは三節後半のところで、こう言っています。「わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。」(三節)。

ある説教者が、この箇所の説教で、「信仰とは待つことである」と言っています。今は悲しみかもしれない。しかし神が必ず喜びに変えてくださる。パウロ一人だけのことではなく、コリント教会の人たちと一緒に、喜ぶことができる。その時を待つ、それが信仰なのだというのです。

そしてこの説教者はさらに続けて、「信仰とは信頼することである」とも言っています。その時を待つために、待ち続けるために、信頼して待ち続けなければなりません。信仰とは待つことであり、信頼して待ち続けることなのです。

続く四節の前半にはこうあります。「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。」(四節)。この手紙は、「涙の手紙」と言われています。手紙自体は残っていませんが、パウロはコリントの信徒への手紙一とコリントの信徒への手紙二だけではなく、何通かの手紙をコリント教会に送ったようです。その中の一つ、涙ながらに書いた「涙の手紙」のことが言われています。

この「涙の手紙」のことは、第二章四節だけではなく、第七章八節のところでも語られています。「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」(七・八~一〇)。

「涙の手紙」のことに触れつつ、ここでも悲しみと喜びを語っています。特に悲しみについて、悲しみを二つの悲しみに分けて語っています。一つの悲しみは、最後のところに出てきましたが、「世の悲しみ」です。これは「死をもたらします」と激しい言葉で言っています。そういう悲しみがある一方で、もう一つの悲しみは、「神の御心に適った」悲しみです。この悲しみは、「取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ」ると言われています。

驚くべきことかもしれませんが、聖書はきちんと悲しむべき悲しみは悲しめ、と言っているのです。もちろん死に至る、救いようのない悲しみを悲しむというのではありません。悲しむべき悲しみをきちんと通り抜け、悔い改め、救いへと至る。その喜びを喜ぶ。パウロは神が必ずそのような道をくぐり抜けせてくださると信じて、そのように確信しているのです。

四節の後半のところで、パウロが訪問しなかった理由のことが述べられています。「あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。」(四節)。訪問しなかった理由は、愛であるというのです。

今日の聖書箇所の一節の「決心」という言葉と合わせて、今日の説教の説教題を「愛の決心」といたしました。パウロの決心であり、コリント教会を愛し抜こうという決心です。

今日の聖書箇所において、もちろん今日の聖書の箇所だけではないのですが、特に今日の聖書箇所において、パウロのコリント教会への深い愛が見られます。パウロの愛はどのような愛だったのか。多くの人が指摘していますのは、パウロの愛が、コリントの信徒への手紙一第一三章に基づくということです。この箇所で、パウロはこのように愛を語っています。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(Ⅰコリント一三・四~七)。

教会の結婚式でも読まれる箇所です。実は昨日の葬儀でもこの箇所を朗読いたしました。本物の愛とはいかなる愛なのか。それを知りたければこの箇所を読めばよく分かるわけです。そして、今日の聖書の箇所で、コリント教会を愛する愛は具体的にどのような愛なのか。まさにパウロがこの愛を体現しているということになります。

ただ今お読みしたコリントの信徒への手紙一の第一三章は、忍耐で始まる愛から語り始められていますけれども、忍耐一辺倒で終わっているわけではありません。八節以下のところ、このようにあります。「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。」(Ⅰコリント一三・八~一一)。

そして特に一二節のところにこうあります。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」(一三・一二)。

とても面白い表現だと思います。「はっきり知られているように」とは、神が私たちのことをはっきり知っていてくださるということです。「はっきり知るようになる」とは、私たちが神を知るようになる、やがてそうなるということです。今はまだ一方通行かもしれませんが、やがては一方通行ではなくなる。顔と顔とを合わせてとありますが、やがてそうなる希望の中に生きることができるのです。

今まではずっと神からの一方通行だったのです。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、旧約聖書のホセア書です。ここにも愛という言葉が出てきますが、神から人間に対して、一方通行かのような愛が語られています。神がこれほどまでに人間を愛してくださる、しかし人間はその愛に応えることができない、その愛に気付きすらしない、そんな切ないほどの神の愛が語られています。

ホセア書第一一章一~四節にはこうあります。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに、彼らはわたしから去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて、歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを、彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた。」(ホセア一一・一~四)。歩くことを教え、神が身をかがんでまで食べさせてくださり、こんなにまでイスラエルを愛してくださった神の愛が語られています。

しかし人間は神に背き続ける。そういう人間に対する裁きが、五~七節で語られています。「彼らはエジプトの地に帰ることもできず、アッシリアが彼らの王となる。彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち、たくらみのゆえに滅ぼす。わが民はかたくなにわたしに背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも、助け起こされることは決してない。」(ホセア一一・五~七)。

しかしそういう裁きの言葉に続いて、神が決して人間を見捨てられないことが続いていきます。「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」(ホセア一一・八~九)。憐れみに胸を焼かれるほどの愛、それほどまでの神の愛、一方通行の愛が語られていきます。

パウロも、このような神の愛を受けて、愛の決心をしたのです。もはや一方通行ではありません。特にパウロ個人が優れた愛の持ち主だったとか、そういうわけではありません。パウロはまず神から愛をいただいた。それゆえに愛に生きるのです。愛の決心です。

パウロは「決心」という言葉を使い、別の箇所でこのように言っています。「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(Ⅰコリント二・二)。神の独り子、イエス・キリストを十字架につけてまで、肉を裂き、血を流すほどに、胸を焼かれるほどに、神が愛を注いでくださった。そのキリスト以外、何も知るまいと決心したのです。

パウロの愛の決心もここに源があります。神の愛を知り、神の愛を受けて、神の愛に生きる者となったのです。神は愛する私たちを決して悪いようにはされません。悲しみから喜びの道を拓いてくださいます。悲しみのただ中にあっても、喜びを備えてくださいます。その確信のもとで、私たちも愛の決心に生きることができるのです。