松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2018年3月11日(日)
説教題「信仰の適格者」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第13章5~10節

信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています。わたしたちは、あなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。遠くにいてこのようなことを書き送るのは、わたしがそちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです。

旧約聖書: エレミヤ書17:5~14

「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。」(五節)。本日、私たちに与えられた聖書箇所の最初のところに出てくる問いかけです。そのように問いかけられて、皆さまはどのようにお答えになるでしょうか。

自分が信仰を持っているかどうかを問われている問いでありますが、この箇所には翻訳上の問題があります。ある新約聖書学者がいます。私は毎週の説教準備の中で、聖書箇所を元の言葉で読み、また様々な翻訳を読み比べるということをしています。この新約聖書学者の翻訳や解説も必ず読んでいますが、この新約聖書学者は、必ずしも教会の信仰を前提としない読み方をするようなところがあります。

しかしこの箇所で、この新約聖書学者はこのように書いているのです。まずこの箇所の私訳を、このようになしています。「自分自身を検査しなさい。自分が信仰の中にあるのかどうかを」。このニュアンスをよく汲み取っていただきたいと思いますが、自分が信仰を持っているかどうか、ではなく、自分が信仰の中にあるのかどうか、ということなのです。

そしてこの新約聖書学者は、この箇所の注解をこのように書いています。「「中にある」はパウロがこういう場合に好む前置詞。いかにもパウロ的な概念だから、なるべく直訳しないといけない。「信仰」というのは、パウロにとっては、個々人が所有するだけのものではなく、個々の信者を超えた巨大な事柄であって、だから個々の信者はその「中にある」のである。従って、こういう含蓄のある表現を口語訳のように「あなたがたは…信仰があるかどうか」と訳しては、台なしになってしまう」。

台無しになるかどうかは別にして、この箇所に関しては、この新約聖書学者が言っている通りだと思います。とても大事なことを教えてくれています。英語の聖書でこの箇所を読みますと、you are in the faithというように訳されています。あなたが信仰の中にいるかどうか、ということなのです。とても大事なイメージです。

信仰を持つ、持たないという表現があります。自分には信仰があるのだろうか。その信仰を心の中にちょっと持つとか、逆に今まで自分が持っていたその信仰を放り出すかのように捨ててしまうというイメージを持つこともあるかもしれません。しかし聖書が言っている信仰とは、実はそういうものではないのです。信仰は持つものではない。私たちが所有するようなものではない。与えられるものです。

まだ洗礼を受けておられない方を、求道者と言うことがあります。求道者の大きな悩みの一つは、信仰をなかなか持つことができないということです。信じたいけれども、信じることができない。どうしたら信じることができますか、どうしたら信仰を持つことができますと、牧師としてそのように問われることがあります。

その際に、私が答えることは、このイメージの転換です。信仰は自分が持つものではない。持てるものでもない。与えられる以外にない。そのことが分かると、祈る以外になくなります。信仰を与えてください、信仰を持つことができますように、そのように祈っていく。そうすると不思議なことに、与えられるのです。それが信仰というものです。

この新約聖書学者が言うように、信仰という巨大なものの中に自分がすっぽり入れられている、それが大事です。そのことが前提で、今度は自分自身の内を見つめると何が見えてくるでしょうか。自分自身の性格がこうだとか、こんな性質があるとか、そういう人間的なことを言っているのではありません。この手紙を書いたパウロはこう言います。「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。」(五節)。

私たちは自分自身のことをよく分かっているでしょうか。私たちは、なかなか他人に理解してもらえないという悩みを抱えています。どうも自分が受け入れてもらっていないのではないか、自分の居場所がないと感じるような時があります。その時は、周りの人たちから、自分のことをよく理解してもらっていないのです。人と距離が生まれ、孤独になります。その孤独の中で、誰も自分のことを理解してくれない。自分のことを一番よく知っているのは自分だけだ、そのように思うところがあります。

しかし聖書はこれとはかなり違う理解を示しています。本当に自分自身のことを、あなたはよく知っているかとの問いかけに対して、実は知らないのではないか、という答えが示されているのです。

同じパウロがローマ教会に宛てて書いた手紙の中に、こういう言葉があります。「わたしは、自分のしていることが分かりません」(ローマ七・一五)。なぜ分からないのか。こう続いていきます。

「自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。…そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。」(ローマ七・一五、一七~二一節)。

今日の聖書箇所にも、善と悪という言葉が出てきます。善をなそうという意志はあるが、しかし善をなすことができず、望まない悪をしている。そういう自分のなしていることが分からない、とパウロは言うのです。そのパウロが自分自身の中を見つめた時、自分の中に「罪」という巨大なものが住みついていることに気付く。その「罪」のせいで、一本まっすぐ筋を通して生きられない自分自身を発見する。それがパウロの人間理解です。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、エレミヤ書です。こういう言葉が出てきました。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。」(エレミヤ一七・九)。人間の心がとらえ難く病んでいることが言われています。エレミヤだけのことではありません。人間、皆がそうだと言うのです。誰も自分自身のことが分からない。

しかし続けてこのように言われていきます。「心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである。」(エレミヤ一七・一〇)。自分自身のことがよく分かっていない人間自身をとらえてくださるのは、神ご自身だと、神が名乗りをあげてくださっています。

このエレミヤ書の箇所の最初のところで、二本の木の譬えが記されています。一本の木は呪われた木、もう一本の木は祝福された木です。どこが違うのでしょうか。木それ自体の性質や強さが違ったからでしょうか。そうではありません。木が自分のことを、自分には太い幹があるとか、たくさんの枝が生え出でているとか、青々とした葉っぱをいっぱいつけているとか、そういうことではないのです。むしろ木の外の環境が大事ということです。水のほとりに植えられたかどうか、それが大事なのです。木の外からやって来る要因です。生きた水がやって来るかどうかです。

先ほどのローマの信徒への手紙の箇所で、パウロは自分自身のことがよく分からないと言いながら、このように書いていきます。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(ローマ七・二四~二五)。

相変わらず自分自身のことがよく分からないままだったとしても、しかし惨めな人間であった自分自身のことを、キリストによって救われた自分自身として受け止め直しているのです。一方では、罪という巨大なものが潜んでいる自分であることを認めながらも、他方では、信仰という巨大なものにすっぽり包まれて、キリストに救われた自分自身をも受け入れているのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所で、パウロが特に強調していることは、信仰という巨大なものの内に入れられていること、そしてその前提で自分自身の内を見つめた時、自分の内にキリストがおられるということです。確かに私たちには自分自身があまりよく分からないところがあるかもしれません。しかし自分自身をよく吟味してみたときに、このことが見えてくるはずだとパウロは言うのです。

そのような私たちは失格者ではなく、適格者だと言います。「あなたがたが失格者なら別ですが…。わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています。」(五~六節)。信仰という巨大なものの内に自分が入れられていること、そして自分の内にキリストがおられること、これだけでもう適格者なのです。人間的に内面が清いとか、そういうことではありません。私たちも適格者である、それが聖書の言っていることです。

一昨日、東京神学大学の卒業式が行われました。神学校での学びを終えて、二十数名の方々がこれから教会や学校に赴任をしていきます。その卒業式に、教会の方々と数名で、出席をしてきました。卒業式では、学長をはじめ、様々な方々から、卒業生への励ましの言葉が述べられました。その中から二つのことをご紹介したいと思います。

まずは学長が言われたことですが、聖書の味が分かる伝道者になって欲しいという励ましの言葉がありました。聖書のここが美味しい、まず自分がそのことが分かり、そのように聖書を読む。そしてその味わった味を教会員と共に味わう。そういう伝道者になって欲しい、ということが言われました。

続けてお話をされた方が、このようなことを言われました。日本基督教団の正教師試験という試験があります。牧師になるための試験です。卒業生たちもやがてこの試験を受けることになります。ところが、最近の合格率が五〇パーセントほどだそうです。試験を実施する委員の方々に、なぜそんなに合格率が低いのかと尋ねたそうです。そうすると返ってきた答えは、本来ならば大前提となっていることが大前提になっていない。それは聖書を読むことが不足しているということでありました。

聖書を読んでいない、これは何も牧師だけの問題ではありません。牧師は元信徒です。少なくとも数年とか、一定期間は信徒であり、その後、志が与えられて信徒から伝道者になっていきます。当然、信徒が聖書を読まなければ、牧師を志してみても、聖書の読みが浅いということになってしまいます。聖書を読む、その大前提を大事にして欲しいということが、励ましの言葉として語られました。

励ましの言葉を述べられたお二人ともが、聖書のことを語られました。聖書をよく読んで欲しい、その味を伝えて欲しい、と。その聖書が読んでいて分かることは、今日の聖書箇所の表現を借りて言うならば、私たちが失格者でないこと、適格者であること、そのことが分かってきます。

なぜ私たちが失格者ではないのか。心の中に信仰をちょっとだけ持っているからではありません。そうではなく、今日の聖書箇所で強調されているように、私たちが信仰の内に入れられていること、そしてイエス・キリストが私たちの内にいるからなのです。この前提で聖書を読むこと、聖書を味わうこと、そしてその味わいを伝えていくこと、それが大事なのです。パウロが今日の聖書箇所で伝えたことも、まさにそのことです。

今日の聖書箇所に、善と悪という言葉も出てきます。悪とはいったい何でしょうか。善とはいったい何でしょうか。今日の聖書箇所には、善と悪がいったい何か、具体的なことは書かれていないかもしれません。

少し前の聖書箇所になりますが、こういう言葉があります。「争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。」(一二・二〇~二一)。

また、来週の聖書箇所になりますが、こういう言葉もあります。「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。」(一三・一〇)。善と悪とは、これらの箇所に具体的に記されていると言えるかもしれません。

ここに書かれている善と悪で、とても大事なことがあります。これらの善悪は、決して一人の問題ではないということです。一人のキリスト者としてのプライベートな倫理的な事柄ではないのです。「わたし」が清く正しく美しく生きる。そうではなく、教会の共同体としての「わたしたち」の事柄です。

今日の聖書箇所で使われている「わたしたち」「あなたがた」という言葉を大事にしていただきたいと思います。信仰はプライベートなものではありません。私と神さまだけの関係ではありません。私たちの事柄です。教会のみんなの事柄です。九節にこうあります。「わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。」(九節)。

このようなあなたがたを造り上げたいという思いが、続く一〇節に込められています。「遠くにいてこのようなことを書き送るのは、わたしがそちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです。」(一〇節)。

教会の私たちは、信仰という巨大なものの中に皆が入れられた者です。そして私たち一人一人の内に、キリストが宿っていてくださいます。私たちはこの前提で教会生活をすることができますし、礼拝することができますし、聖書を読むことができます。皆で共にこの恵みを味わうことができるのです。