松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2018年3月18日(日)
説教題「祝福の挨拶を交わそう」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第13章11~13節

終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

旧約聖書: 詩編118:19~29

礼拝の最後に祝祷があります。「祝祷」という言葉からすると、祝福を祈ることだと思われるかもしれません。しかしどちらかと言えば、祝福そのものです。教会によっては「祝福派遣」と言う場合があります。礼拝を終えて、一週間の生活へと送り出されるにあたり、祝福を受け、派遣されていく、そのような意味があります。私たちの教会では「祝祷」と言っていますが、まさに意味としてはその意味なのです。

祝祷のやり方としては、二つのスタイルがあります。両手を挙げるスタイルと、右手のみを挙げるスタイルです。松本東教会では右手を挙げるスタイルですが、どちらも聖書的な根拠があります。

両手を挙げるのは、ルカによる福音書の最後のところに、主イエスが天に上げられる場面があります。主イエスが手を挙げて祝福されながら、天にあげられたと記されています。この「手」という言葉は「両手」という言葉です。

あるいは、旧約聖書のレビ記に、アロンという人物が出てきます。モーセと共に働きを担った人です。このアロンが手を挙げて祝福をしている。ここも「両手」という言葉が使われています。それらの聖書箇所が根拠となって、牧師が両手を挙げて祝祷をするということになります。

右手を挙げるスタイルはどうなのか。マタイによる福音書第二五章に、裁きの時に、すべての者が右と左に分けられるという話があります。右側にいる人たちが祝福された人たち、左側にいる人たちが呪われた人たちです。自分はいったいどっちなのだろうと思われるかもしれません。しかし礼拝の祝祷では、右手が挙げられています。あなたがたはすでに右側の者たちである、そのことが確定している中での祝福となるのです。それが右手を挙げて祝福するという聖書的な根拠です。

祝福という言葉は、もともとはよき言葉を語る、という意味があります。よき言葉が誰から誰に語られるのか、いくつかのパターンがあります。人から神に対してよき言葉が語られる場合、それは「讃美」と訳されます。私たち人間が神を褒め称えるのです。神から人に対してよき言葉が語られる場合、それは「祝福」と訳されます。神が私たちに対して、あなたは幸いだ、と語ってくださる。私たちの存在を肯定してくださる言葉です。

祝福の言葉は、聖書の中に様々な言葉があります。礼拝の最後の祝祷のところで、祝福を告げる言葉として、多くの教会で用いられているのが、本日、私たちに与えられた聖書箇所の最後のところにある言葉です。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」(Ⅱコリント一三・一三)。

父なる神、子なる神、聖霊なる神が出てきます。三位一体の根拠の聖書箇所の一つと言われることがあります。マタイによる福音書の最後のところで、主イエスが弟子たちを派遣される際に、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」(マタイ二八・一九)という言葉も、三位一体の根拠の一つです。

しかし、今日の聖書箇所での祝福を告げる言葉は、父・子・聖霊という順番ではなく、主イエスが先頭に来ています。この手紙を書いたパウロは、何もここで三位一体を示すために、この最後の祝福の言葉を書いたわけではありません。それではなぜ主イエスが先頭に来ているのでしょうか。それは、私たちの信仰生活において、主イエス・キリストがとりわけ大事だからです。

例えば、二番目に「神の愛」という言葉があります。私たちはどのようにして神の愛を知ったのでしょうか。自分の力によって知ったのでしょうか。そうではありません。主イエスが示してくださったのです。主イエスは神が父であることを強調されました。子をこよなく愛する父として、また、私たちの必要や不必要を本当によくご存知の父として、神のお姿を表してくださいました。

家を飛び出し、放蕩の限りを尽くして、悔い改めて家に帰って来た息子を、そのまま息子として受け入れてくださる、そういう父だと主イエスが示してくださいました。ご自分の独り子をお与えになるほどに世を愛してくださる、そういう神の愛を主イエスが示してくださいました。私たちが神の愛を知ることができたのも、主イエスが示してくださったからなのです。

三番目に「聖霊の交わり」という言葉があります。これもまた主イエスとのかかわりなしには成り立たないものです。主イエスが十字架にお架かりになる直前に、聖霊を送ると約束してくださいました。その聖霊を受けて、私たちは主イエスが語られた言葉を理解し、信じることができるようになりました。主イエスを信じる、と告白することができたのも、この聖霊の働きです。

このようなかけがえのない祝福を受けて、私たちは礼拝から一週間の生活へと派遣されていきます。こんな話があります。ある教会での話です。祝祷がなされ、礼拝が終わります。その礼拝に出られていたある方が、教会を出るところに階段があり、そこで転んでしまって骨折されてしまった。入院をすることになりました。

後日、牧師が入院先を訪問しました。そうすると、骨折された方が牧師にこう言われたそうです。「先生の祝祷、私には効果がなかったみたい」。もちろん冗談でこのように言われたわけですが、そのような言葉が出てきた。牧師はそれを聞いて、「それは誤解です」と言って正したそうです。

祝福というのは、ちょっとよいことが起こるとか、骨折などの悪いことが起こらないようになるとか、そういうものではありません。ちょっとした御利益とか、家内安全とか、無病息災とかが言われているのではない。そうではなく、私たちの存在そのものが、神によってよしとされていることです。

あるいはこういうふうに言ってもよいかもしれません。祝福を受けて、一週間の歩みに出かけていき、たとえその週のうちに召されることがあったとしても、神の祝福のうちに死ぬことができる。生きるにも死ぬにも、あなたは幸いな者、神からそう言っていただいている中、私たちは歩むことができるのです。たとえどんなことが起ころうとも、この祝福の中で生き、死ぬことができるのです。

今日の聖書箇所の一一~一二節にかけてこうあります。「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。」(一一~一二節)。

ここに書かれていることは、もう手紙の最後の部分になります。手紙の本文としては、先週の聖書箇所の一〇節のところで、すでに終わっているとも読めます。最後の挨拶になりますが、祝福が告げられる教会での、祝福された交わりがここに語られています。

「終わりに、兄弟たち、喜びなさい」(一一節)とあります。カトリック教会の翻訳の聖書にフランシスコ会訳の日本語訳があります。その聖書では、ここの箇所はこうなっています。「最後に、兄弟たち、それではお元気で」。「喜びなさい」という言葉は、終わりの挨拶の言葉でもあるようです。

挨拶というのは、とても面白いものです。挨拶の言葉に、いろいろな意味が込められています。「おはようございます」と私たちは言います。こんなに早くからご苦労様です、あなたは勤勉ですね、そのような意味が込められていると言われています。

英語でGood-Bye(グッバイ)という挨拶があります。これはGod be with youの短縮形であると言われています。あなたと別れるけれども、神があなたと共にいてくださるように、神の祝福があるように、そういう挨拶の言葉です。「それではお元気で」という、ごくありふれた挨拶の中に、あなたがたが喜んでいられるように、という思いが込められていることになります。

しかしパウロは単に終わりの挨拶をしているのではなく、本当に喜びなさいと言っているのだと思います。「完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」(一一節)という言葉が続いていきますが、それと同列に並べられた「喜びなさい」という言葉です。

「喜びなさい」とパウロが言います。パウロは誰に対して喜びなさいと言っているのでしょうか。教会の人たちに対してです。一人に対してではありません。ここでの言葉を正確に訳すとすれば、「あなたがたは喜びなさい」です。喜べるかどうかは、一人の問題ではなく、みんなの問題です。教会の問題です。

「聖なる口づけ」(一二節)という言葉が出てきます。当時の礼拝で行われていた習慣のようです。一一節での言葉と共に、そのような教会の共同体において、神の祝福が現れていく。みんなが集まる教会で祝福が溢れてくる。「愛と平和の神があなたがたと共にいてくださる」という祝福溢れた共同体になるのです。

先週の木曜日、オリーブの会が行われました。信仰の初歩的なことを学ぶことができる会です。毎回テーマが決められています。先週のテーマは「聖書から益を受けるためには」というテーマでした。

そのテーマについて、みんなで話し合いましたが、最後のところで、私からこのように申し上げました。「聖書を読むコツは、みんなで聖書を読むことです」。みんなで聖書を読む、というのには、幅広い意味があります。実際に複数の人で聖書を読むことも、みんなで聖書を読むことです。牧師を交えて、疑問に思ったり納得できないようなことがあれば、質問をしながら読む。これもみんなで聖書を読むことです。

さらには、みんなで聖書を読むというのは、教会の読み方に則って読む、ということにもなります。たとえ家で一人で聖書を読んでいたとしても、それは教会の一人として聖書を読むことになります。教会の読み方とは、教会の信仰に則って読む読み方です。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」を信じる読み方です。

私がその読み方をし、あの人もその読み方をし、みんながその読み方をしている。たとえ厳しい言葉が書かれている聖書箇所であっても、自分にとって痛い言葉が書かれている聖書箇所であっても、そういう読み方をすることができる。そのようにして、祝福が溢れる教会共同体になるのです。

来週の日曜日は、私にとって松本東教会での最後の日曜日になります。三月の長老会で、最後の礼拝の後をどのようにするか、話し合いましたが、礼拝後に短く祈りの時を持っていただくことになりました。その際に、ある長老が讃美歌を一曲歌ってはどうか、ということになりました。

どの讃美歌を歌うか。そのように問われた私は、讃美歌の四九四番をリクエストしました。この讃美歌が私の愛唱讃美歌だからというわけではありません。私にとって、松本東教会で思い出深い讃美歌だからです。この讃美歌は、ご高齢者の訪問の際によく歌いました。特に私の一年目は葬儀が相次ぎました。召された方々の中に、この讃美歌を愛唱されている方々が多く、病室で、ご自宅で、あるいは召されてから葬儀の礼拝で、四九四番を共に歌ってきました。みんなでこの讃美歌を歌い、死を迎え、死を看取ってきたのです。

先日、ある教会員の方を訪問した際に、同行していた方がこう言われました。年老いていくと、だんだん周りの友だちとは疎遠になる。年賀状のやり取りをしていても、それがだんだんと途切れてくる。けれども、教会の仲間はそうではない。死の時まで一緒に歩むことができる。私もそれを聞いて、その通りだと思いました。

今日の聖書箇所で言われているのは、「あなたがた」の歩みが、このような歩みであるということです。決して一人だけの歩みではありません。教会の仲間たちと共なる歩みです。神が教会に与えてくださるこの祝福のうちに、皆がここに生きて、そして死んでいくことができるのです。皆さんの歩みが、また教会の歩みが、そのような歩みであることを願っています。