松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2018年3月4日(日)
説教題「キリストの言葉である証拠」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第13章1~4節

わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったら、容赦しません。なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。

旧約聖書: 申命記21:22~23

一昨日の三月二日の金曜日に、世界祈祷日の集会が行われました。松本では、日本基督教団だけではなく、教派の違う全部で十の教会が集まって世界祈祷日の集会を行っています。全部で五十名くらいは来られていたでしょうか。私たちの教会からも十名弱の方が参加をしてくださいました。

世界祈祷日では、世界中が同じ式文を用いて祈りの時を持っています。毎年、この国のために祈るという国が定められています。今年はスリナムという中南米の国でした。式文の表紙のところには、「スリナムからのメッセージ。すべて神の造られたものは、とてもよい」と印刷されていました。

この式文に沿って、世界祈祷日の集会が行われていきましたが、一つだけ私が残念に思ったことがありました。別に会の持ち方が残念だったというわけではありません。その式文に沿って、最初のところで、讃美歌第二編の一六一番を歌いました。「輝く日を仰ぐとき」と歌い始める讃美歌です。第二編の一六一番を開いて見ると、全部で五節までの歌詞が載せられています。世界祈祷日の式文の中にも、五節全部の歌詞が印刷されていましたが、一節と二節と四節だけを歌うとされていて、三節と五節が飛ばされてしまいました。五節もそうですが、特に三節の歌詞が飛ばされてしまった。このことをとても残念に思ったのです。

一節はこのように歌い始めます。「輝く日を仰ぐとき、月星眺むるとき、雷鳴り渡るとき、真の御神を思う」。「すべて神の造られたものは、とてもよい」に確かに沿っている讃美歌の歌詞だと思います。二節も同じような調子で歌っていきます。「森にて鳥の音(ね)を聞き、聳(そび)ゆる山に登り、谷間の流の声に、真の御神を思う」。問題の三節の歌詞はこうです。「御神は世人を愛し、一人の御子を下し、世人の救いの為に、十字架に架からせたり」。

今年の世界祈祷日のテーマは、「すべて神の造られたものは、とてもよい」であり、式文の中でも創世記第一章の言葉が読まれていきました。神が天地万物をお造りになり、私たち人間を造られた。神のお造りになったものは極めてよかった。そのように記されています。

また、創世記第一章二六節に、「すべてを支配させよう」という言葉があります。これは人間に造られた世界を「すべてを支配させよう」という神の言葉ですが、この言葉は「支配する」というよりも、「管理する」という意味合いが含まれている言葉です。人類はこれまでその点をはき違えてしまった。今もなお管理することができていない責任、その罪を告白し、きちんと管理するための責任を果たすために何をするか、そのことが問われる集会でもありました。

もちろん、このことも大事なことでしょう。そしてその視点からすると、第二編一六一番の三節の歌詞が飛ばされてしまった、その意図は何となく察することができます。「すべて神の造られたものは、とてもよい」ということから少し外れるように思えるからです。

しかし三節の歌詞を改めて味わってみますと、神が造られたこの世を見る見方が変わってくると思います。ヨハネによる福音書の主イエスのお言葉を思い起こしてもよいでしょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ三・一六)。

私たちのこの世界は、確かに人間がきちんと管理することができていない世界ですが、神が独り子を送ってくださった世でもあります。神が私たちの世界を見捨ててはおられないということが分かるのです。クリスマス以降、神が独り子を送ってくださった世として、私たちは受け取り直すことができる世になりました。そして十字架という一本の木が立てられた世として、受け取り直すことができる世になりました。まさに讃美歌第二編の一六一番の三節は、そのことを歌っている讃美歌ではないかと思います。

本日、私たちに与えられた聖書箇所の四節のところに、「十字架」のことが出てきます。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。」(四節)。

キリストが弱いと言われています。ここでの弱さとは何でしょうか。あの人は強い人だとか、弱い人だとか、人間レベルでの強さ、弱さが言われているわけではありません。キリストは神の子でありながら、人間の肉をまとい、私たちと同じ人間になってくださいました。人間になるということは、必ず死ななければならないということも意味します。しかもキリストは人間の罪を背負い、十字架における死を死なれました。そのような十字架の死を引き受けてくださったことを、弱さと表現しているのです。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の申命記にこうあります。「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。」(申命記二一・二二~二三)。

これは単なる死刑の際の定めとも読めそうですが、使徒パウロは単純にそう読みませんでした。コリントの信徒への手紙二の著者であるパウロは、ガラテヤ教会に宛てて、このように書きました。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。」(ガラテヤ三・一三)。

「…と書いてあるからです」、どこに書かれているのか、申命記の第二一章に書かれているのです。キリストが木にかけられ、人間が受けるべき罪の呪いを引き受けてくださった。十字架の死が、キリストの弱さとしてそのように描かれているのです。

けれども、今日の聖書箇所の四節には続きがあります。キリストは弱いだけで、終わっているのではないのです。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」(四節)。キリストは十字架の死を死なれましたが、「神の力によって生きておられる」という言葉が続いていきます。そしてパウロたちもキリストと共に生きている、という言葉が続いていくのです。

新約聖書の至るところに、キリストの復活のことが語られています。キリストの復活を表現するのに、聖書は非常に丁寧に語っています。「キリストは復活した」ではなく、「キリストは復活させられた」という表現になっています。聖書を丁寧に読むと、そのような表現になっていることが分かります。キリストは単に復活したのではない。復活させられた。神の力によって。それが、今日の聖書箇所の「神の力によって生きておられるのです」という表現です。そして、今なお生きて働いておられるのです。

なぜパウロはこういうことをコリント教会の人たちに改めて言わなければならなかったのでしょうか。今日の聖書箇所の最初のところから、確認していきたいと思います。

「わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。」(一節)。パウロは過去二回、コリント教会に訪問したことがあったようです。一回目はコリント教会を建てたとき、二回目は再訪問したけれども、亀裂が生じた訪問になってしまったようです。

「二人ないし三人の証人の口によって確定されるべき」とあります。これは、旧約聖書の申命記や新約聖書のマタイによる福音書でも使われている表現ですが、大事なことは複数人によって確定すべきだという考え方です。私たち日本人も、三という数字をそのように使うことがあります。「仏の顔も三度まで」「三度目の正直」「二度あることは三度ある」という慣用句があります。一回や二回程度では、まだ確かと言えないけれども、三回となると、それなりに確かになってくる、という意味での三です。パウロも三度目の訪問にあたって、かなり思い入れも強かったようです。

二節のところには、「容赦しません」という言葉も出てきます。「以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったら、容赦しません。」(二節)。

三度目の訪問をするにあたり、パウロが懸念していたことがありました。先週の聖書箇所になりますが、お互いの期待がすれ違っているのではないか。嘆き悲しむことになるのではないか。そういうことが語られています。

しかしこの三度目の訪問をするにあたり、訪問前に書かれたのが、この手紙です。なぜこのような手紙が前もって書かれているか。来週の聖書箇所になりますが、一〇節にこうあります。「遠くにいてこのようなことを書き送るのは、わたしがそちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです。」(一〇節)。

そのために、パウロはよく考え直してほしいと思っているのです。コリント教会の人たちの状況はこうでした。「なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。」(三節)。証拠を求めている、パウロが語っている言葉が、本当にキリストの言葉なのか、パウロに対してキリストが生きて働いておられるのか、その疑いが生じ、証拠を求めているのです。

これは、私たちにとっても大事な問いかけであると思います。皆さまは今、説教を聴いています。キリストが語っておられるものとして聴いておられるでしょうか。それとも単に人間が語っているだけの言葉とお考えでしょうか。教会の中にキリストが生きて働いておられることを、信じているでしょうか。コリント教会の人たちは、この時、その点で揺らいでしまったのです。

だから証拠を求めている。証拠を求められたパウロはどうしたでしょうか。これが証拠だ、ズバリその証拠を示したでしょうか。そうではありません。三節後半から四節にかけてこう言っています。「キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」(三節後半~四節)。

この箇所に、「あなたがたに対しては」(三節、四節)という言葉や、「あなたがたの間で」(三節)という言葉があります。「あなたがた」というのは、コリント教会員やコリント教会のことを指しているわけですが、あなたがたコリント教会の現実をよく見てみなさいとパウロは言います。教会の現実の中に、その証拠が現れているではないかとパウロは言うのです。教会を見れば分かる、ということです。

少し角度を変えて、このことを考えてみたいと思います。教会が伝道する時のことを考えてみましょう。伝道の最終ゴールとも言えるのが、その方に洗礼を授けることです。洗礼を受けてもらうことです。この地点を目指して伝道するわけですが、伝道とは何でしょうか。何かを説明して、相手を説得させることと思われるかもしれません。もちろんそういうことが必要な場合もあるかもしれませんが、伝道の本質ではないと思います。

そうではなくて、伝道とは、まず連れてくることだ、そう言っても差し支えないと思います。あるいは連れて来なくてもよい、その人の所へ行ってもよいのです。とにかく同じ時を過ごす。お話をするだけでもよいかもしれませんし、一緒に聖書を読んだり、讃美歌を歌ったり、祈りをしたり、そのようにして同じ時を過ごすのです。

私の松本東教会の経験ですが、礼拝の時間を一緒に過ごしてきた方、あるいはオリーブの会や家庭集会などで一緒に時間を過ごし続けてきた方は、必ず洗礼を受けます。オリーブの会や家庭集会はやがて礼拝につながっていかなければなりませんが、必ずつながっていき、洗礼を受けます。

なぜ皆が洗礼を受けるようになるのか。それは信仰を理解するようになったからでしょうか。そうではありません。ご本人たちになぜ洗礼を受けたのかと聞いても、あまりはっきりした答えは返ってこないかもしれません。唯一、言うことができるのは、キリストが生きて働いてくださったからです。

パウロが言おうとしているのも、まさにそういうことです。不思議なことに、神を信じる者が教会に起こされる。それが、キリストが生きて働いておられる証拠だと、パウロは言うのです。二人または三人、あるいはそれ以上の人たちが集まるところに、そういう「あなたがたの間に」、「あなたがたに対して」、神が生きて働いておられることが、現実に見られる。それが証拠なのです。

これは何も洗礼に限ったことではありません。神の言葉である説教が語られ、説教が聴かれている。そこから慰めや励ましを受けている。二人、または三人、あるいはそれ以上でもよいわけですが、そういうところで祈りが献げられている。どれも教会の現実です。そういう場で、キリストが生きて働いておられることが見えてくるのです。

キリストは目に見えないお方です。しかし教会の交わりの中で、その働きが見えてくるのです。ヨハネの手紙一の冒頭に、こういう言葉があります。

「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。」(Ⅰヨハネ一・一~四)。

この手紙を書いた著者は、キリストを実際に目で見て、手で触れることができたのでしょう。しかし読者たちにとって、今やキリストを直接目で見て、手で触れることができない時代になりました。この著者は、自分が目で見て触れたものを、あなたがたも目で見て触れるように、とは言いません。そうではなく、たとえ目で見て手で触れることができなかったとしても、その交わりの中に入るように、といいます。

教会はこの交わりのあるところです。キリストが生きて働いておられる証拠が満ちているところです。この世にあって、この世のどんなところとも違う場です。その場に加えられて、キリストが生きて働いておられることを、実感して歩むことができるのです。