松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2018年2月25日(日)
説教題「人を造り上げるために」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第12章19~21節

あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。

旧約聖書: 申命記4:1~14

本日の説教の説教題を「人を造り上げるために」と付けました。これは一九節の言葉がもとになっています。「あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。」(一九節)。

この手紙を書いたのは、使徒パウロです。コリント教会に宛てて手紙を書いています。パウロは、自己弁護が目的ではないと言います。そうではなく、あなたがたにこのように手紙を書いているのも、あなたがたを造り上げるためだと語っているのです。

「造り上げる」という言葉が出てきています。これは単純に言うと、「建てる」という言葉です。建築です。大工が家を建てるときなどに使われる言葉です。その言葉を、家ではなく、あなたがたを、人を造り上げるというように、人に当てはめて使っているのです。

私たちは様々な言葉を語ります。口からいろいろな言葉が出てきます。その言葉に愛があるでしょうか。自分が語った言葉に愛があったかどうか、そのことを判定する方法があります。それは、その言葉を聴いた人が造り上げられたかどうか、あるいは、その言葉にとげがあって、相手を刺してしまい、相手が造り上げられなかったか、そのことで判定するのです。

今日の聖書箇所の二〇節のところに、こうあります。「わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。」(二〇節)。

この二〇節には、全部で数え上げると八つですが、八つの悪徳、罪が挙げられています。一つ一つを詳しく解説するようなことはしません。これらのことに関して、思い当たるところもあるでしょう。これらのことは、「造り上げる」とは正反対のことです。

新約聖書のヤコブの手紙に、こういう言葉があります。「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。」(ヤコブの手紙三・一)。多くの人が教師になるな、という書き出しから始まり、その理由が述べられていきます。「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」(三・二)。

過ちの最大の原因が、言葉であることが言われています。そして、このように続いていきます。「同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」(三・五~一〇)。

いかに言葉を整えるか、私たちにとっても大事なことです。二千年前のコリント教会にもこういう問題があったのです。二〇節にあるように、言葉が乱れ、思いも乱れていた。しかしコリント教会だけでなく、どの教会でも大なり小なり抱えている問題でしょう。

そういう教会に対して、パウロは「造り上げる」ということを語っていきました。この「造り上げる」という言葉、パウロがよく使った言葉でもあります。特にコリント教会に宛てて書いた手紙の中でよく見られ、コリントの信徒への手紙一でも、多く使われています。

コリントの信徒への手紙一の第一四章の最初のところにこうあります。「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。」(Ⅰコリント一四・一~五)。

第一三章のところで、愛を語ってきたパウロです。第一四章に入ると、これも第一三章と切り離すことができない内容ですが、「異言と預言」の問題を語っていきます。異言とは何か、預言とは何か。ここでは詳しく話をすることはできませんが、いずれも神の言葉です。しかし異言は周りの人が聴いていてもよく分からない言葉であり、預言は周りの人もよく分かる言葉です。今で言う説教と言い換えても差し支えないでしょう。

パウロは、異言を全否定しているわけではありませんが、預言を語りなさいと言います。通じる言葉で、神の言葉を語りなさい、と言うのです。なぜか。理由は明らかで、その言葉が、人を造り上げるからです。そしてそれだけではなく、教会の人が造り上げられるということは、教会そのものも造り上げられる、パウロはそう語っていくのです。人を造り上げることと、教会を造り上げること、「教会形成」とも言われますが、それは同じことなのです。人も教会も言葉によって造り上げられるのです。

二〇節前半のところには、「期待」という言葉があります。「わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。」(二〇節)。

ここで使われている「期待」という言葉は、「望む」という言葉です。期待通りの人であるか、それは自分の望み通りの人であるか、ということです。今日の聖書箇所の前後のところを読めば、パウロがこの時、コリント教会に三度目の訪問をしようとしていたことが分かります。この時点で、すでにパウロとコリント教会がすれ違っていたわけですが、実際に訪問が実現した時にも、両者の期待がすれ違ってしまうのではないか、そういう懸念をパウロが抱いていたことになります。

大事なのは、私たちが何を望むのか、何を期待するのか、そのことが問われています。特に松本東教会は、四月から新たな教師を迎えようとしています。今の教師である私に、あるいは四月からの新たな教師に、何を期待しておられるでしょうか。私たちの具体的な問題でもあります。私も皆さんに期待していることがあり、新たな教師も期待していることがあるでしょう。その期待、望みが一致することが大事になります。

二千年前のパウロとコリント教会との間の期待がすれ違ってしまったわけですが、どのようにすれ違ってしまったのでしょうか。続く箇所を読まなければなりません。「争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。」(二〇~二一節)。

「本音と建前」という言葉があります。ある辞書を見ましたら、本音と建前について、このように書かれていました。「何かしらに対する人の感情と態度との違いを示す言葉である。しばしば日本人論に見出される言葉でもある」。日本人というのは、本音を隠して建前を立てるのが上手なのかもしれません。

しかしこれは何も日本人だけの話ではないと思います。二千年前のコリント教会の人たちも、建前を立てるのが上手でした。しかも信仰的な建前です。例えば、自分たちにはこんな信仰的な知識がある、そのように建前を立てていました。あるいは、自分達はこういうすばらしい霊的な体験をした、そのような建前も立てていました。一方でそういう建前を立てながら、しかし他方で本音はそれとは違ったのです。二〇節後半にあるような八つの罪が噴出していたのです。

私たちはどうでしょうか。教会生活や信仰生活をするにあたって、何らかの建前を立てなければいけないのでしょうか。心の中でそう思っていなくても、いかにも信仰者らしい発言をしなければならないのでしょうか。もちろんそうではないでしょう。本音と建前などということが言われずに、私たちの本音が語られなければならない。それでは、その本音とはいったい何でしょうか。

先ほどもお読みした二一節で強調されていることは、コリント教会の人たちが悔い改めていない、ということです。悔い改めるというのは、自分の罪を認めて、ごめんなさいと言うことです。悔い改めるということは、建前を立てないということになります。逆に悔い改めていないということは、何らかの建前を立てていることにもつながります。

矢内原忠雄という人がいました。キリスト者で、戦前・戦中に東京大学の経済学部の教授になった人ですが、当時の国家主義と対立し、東大を辞めさせられます。戦後、再び東大に招かれ、東大の総長までした人です。私たちの松本東教会でも、この矢内原忠雄という人を、東大を辞めさせられてからでありますが、説教や講演に何度か招いたこともあります。

松本東教会でなされたものとは別の説教ですが、ある礼拝の説教で、矢内原忠雄はこのように語りました。「私に明白な二つの自覚がある。一つは、私は罪人であってキリストの十字架のもとに立たねば生きていけない人間であるという事である。これは限りなく恥ずかしき自覚であるが事実だから致し方ない。この自覚は私をして世界の誰よりも謙遜に、誰よりも柔和たらしめずにはおかない。私が充分謙遜でなく柔和でないのはこの自覚が不徹底であって、そのこと自体が私の罪人であることの証拠である」。

矢内原忠雄の一つの大きな自覚、それが、自分が罪人であって、キリストの十字架抜きには生きていけないということです。自分に罪があるということを素直に認め、悔い改めている言葉です。

パウロは、今日の聖書箇所の一九節のところで、造り上げる愛を語っているわけですが、こう言っています。「わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています」。とても大事な言葉です。神さまの御前で、「キリストに結ばれて」とありますが、キリストの中で、ということです。

神の前で、キリストの中で、私たちは何を語るのでしょうか。建前を語るのでしょうか。神さまもキリストも、私たちの心の中を、本音をご存知です。語ることは、矢内原忠雄と同じ言葉を語る以外にはありません。私は罪人であって、キリストの十字架なしには生きていけません。そう語る以外にないのです。

そのようにして、私たちの語る言葉は整えられていきます。こんな私だけれども、キリストがいてくださる。そんなあなたにも、キリストがおられる。これが教会で語られる言葉です。人を造り上げ、教会を造り上げる言葉です。建前の言葉ではなく、キリスト者なら誰でも語ることができる言葉です。私たちキリスト者の本音の言葉です。

新たな年度に向けて、いろいろな望み、期待があるかもしれません。皆さまの望みは、このような造り上げる言葉である神の言葉を取り継いで欲しい、ということであるはずです。私の皆様に対する望みも、神の言葉を聴いて生かされる者であって欲しいということ、ただそれだけです。そのような教会の歩みが守られますように。