松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2018年2月18日(日)
説教題「忍耐と愛を尽して」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第12章11~18節

わたしは愚か者になってしまいました。あなたがたが無理にそうさせたのです。わたしが、あなたがたから推薦してもらうべきだったのです。わたしは、たとえ取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちに比べて少しも引けは取らなかったからです。わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています。あなたがたが他の諸教会よりも劣っている点は何でしょう。わたしが負担をかけなかったことだけではないですか。この不当な点をどうか許してほしい。わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたに負担はかけません。わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。わたしが負担をかけなかったとしても、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったということになっています。そちらに派遣した人々の中のだれによって、あなたがたをだましたでしょうか。テトスにそちらに行くように願い、あの兄弟を同伴させましたが、そのテトスがあなたがたをだましたでしょうか。わたしたちは同じ霊に導かれ、同じ模範に倣って歩んだのではなかったのですか。

旧約聖書: エゼキエル書34:23~31

本日、私たちに与えられた聖書箇所の最初のところに、「愚か者」という言葉があります。「わたしは愚か者になってしまいました。あなたがたが無理にそうさせたのです。」(一一節)。

この「愚か者」という言葉、あるいは「愚か」という言葉は、パウロが今日の聖書箇所に至るまで、度々、使ってきた言葉でもあります。第一一章の最初のところにこうあります。「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。」(一一・一)。

同じ第一一章の一六節、一七節にもこうあります。「もう一度言います。だれもわたしを愚か者と思わないでほしい。しかし、もしあなたがたがそう思うなら、わたしを愚か者と見なすがよい。そうすれば、わたしも少しは誇ることができる。わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話すのです。」(一一・一六~一七)。

一九節にもこうあります。「賢いあなたがたのことだから、喜んで愚か者たちを我慢してくれるでしょう。」(一一・一九)。二一節にもこうあります。「言うのも恥ずかしいことですが、わたしたちの態度は弱すぎたのです。だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。」(一一・二一)。

先週の聖書箇所でもある第一二章六節にもこうあります。「仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。」(一二・六)。そして今日の聖書箇所の一一節でも、「愚か者」という言葉が使われていることになります。

コリントの信徒への手紙二の第一一章と第一二章の様々な箇所を、今、ページを開きながら見ていただきました。こんなにも「愚か者」という言葉が使われています。誰かのことを指して、「愚か者」と言っているわけではありません。自分自身を指してこれらのことを言っているのです。自分が愚か者であると言いながら、愚か者と思わないで欲しいとも言っています。パウロが果たして愚かなのか、愚かではないのか、なんだかよく分からなくなってしまいますが、これは決して人間的なことを言っているわけではないのです。

同じパウロが書いたコリントの信徒への手紙一があります。第一章のところで、やはり「愚か」という言葉が何度か使われています。「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(Ⅰコリント一・二一)。

私たち人間は、自分たちの知恵で神を知ることができなかった。それではどのようにして神を知り、信じることができたのか。それは「宣教という愚かな手段」と言われています。神の知恵に比べれば、愚かな知恵しか持ち合わせていない愚かな人間が用いられて、伝道をなしていき、神を知り、信じることができるようになった。パウロはここで、こういう表現を用いて「愚かさ」を語るのです。

こうなると、人間は誰も誇ることができません。人間は皆、愚かなのですから。パウロはこのように言います。「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント一・三一)。パウロはこのようなスタンスで、自分のことを「愚か者」と呼んでいることになります。

この「愚か者」という言葉は、本日の聖書箇所から御言葉を聴き取るための一つのキーワードになります。パウロが繰り返し、自分が「愚か者」だ、「愚か者」になると語ってきましたが、どういうところが愚かなのでしょうか。

今日の聖書箇所で、パウロは一方では、自分が使徒であることを強調して語っています。使徒というのは、「遣わされた者」という意味のある言葉です。誰によって遣わされるのか。神によって、キリストによって遣わされた者であり、第一世代の伝道者たちの間では大事にされてきた言葉です。ペトロをはじめとする主イエスの直接の弟子たちが「使徒」と呼ばれました。パウロも自分のことを「使徒」と言っているのです。

一一節に「大使徒たち」という言葉があります。これはおそらく皮肉が込められている言葉で、コリント教会にいたパウロのことを非難する論敵たちのことを指している言葉であると思われます。そういう論敵たちのいるパウロがこだわってきたのが、自分が使徒であることです。コリントの信徒への手紙二の冒頭のところに、こうあります。

「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(一・一~二)。

これは手紙の冒頭部分の挨拶のところです。この手紙が「使徒とされたパウロ」から書かれたことが語られています。コリントの信徒への手紙二だけでなく、パウロが書いた手紙のほとんどが、このような書き出しで始まっています。自分が「使徒」であることを強調しているのです。

今日の聖書箇所の一二節にも、こうあります。「わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています。」(一二節)。しるし、不思議な業、奇跡というのは、奇跡をワンセットにして言う時の定型句のような言葉だそうです。

パウロが使徒として奇跡をなしてきた。具体的にどういう奇跡なのかはよく分かりません。使徒言行録を読みますと、例えばパウロがトロアスという町で、礼拝中に三階の窓から転落死してしまったエウティコという青年を生き返らせるという奇跡の話が記されています。そういう奇跡のことがここに表されているのかもしれません。

しかしパウロが今日の聖書箇所で強調しているのは、こういう奇跡の話ではありません。あるいは他の聖書箇所でも、こんな奇跡をなして、あんな奇跡をすることができた、「どうだ、すごいだろ」というように、自分を誇るようにそんな自慢話などパウロは少しもしていないのです。

むしろパウロが今日の聖書箇所で強調していることは、あなたがたに負担をかけてこなかったということです。「あなたがたが他の諸教会よりも劣っている点は何でしょう。わたしが負担をかけなかったことだけではないですか。この不当な点をどうか許してほしい。わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたに負担はかけません。」(一三~一四節前半)。

そして続けてこのように言っていきます。「わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。」(一四節後半~一五節)。パウロは愛をもって、コリント教会の人たちに、自分自身を与え尽くしてきたことを語っていくのです。

自分を与え尽くす歩みというのは、どういうことでしょうか。ある時に、状況ははっきり覚えていませんが、ある集会での出来事だったと思います。その場におられた方々で、主イエスがどのような歩みをなしてきたか、そういう話になりました。自分のところにやって来る者たちを拒まずに受け入れたこと、罪人や虐げられていた人たちと一緒に食事をされたこと、そして最後には十字架で自分の命まで献げてくださったこと、そういう主イエスの様々な歩みが挙げられていきました。

そういう話の中、ある方がこう言われました。「そういうイエスさまの歩みは、ちょっと周りから理解され難いよね」。私はその発言を聞いて、このように答えました。「本当にその通りだと思います。だからこそ理解されずに、十字架に架けられてしまったのだと思います」。

主イエスの歩みには、眩しすぎるほどの愛があります。誰をも黙らせてしまうほどの正しさがあります。自分たちとはあまりにも隔たっている。罪深い世の中の基準とはあまりにも違いすぎる。だから、理解されずに、十字架で殺されてしまった。そのように言うこともできるでしょう。

しかし主イエスはなぜ与え尽くすことができたのでしょうか。その理由は一つしかありません。主イエスに愛があったからです。パウロもまた、この主イエスの愛に倣い、コリント教会を愛する愛に生きたのです。

パウロのコリント教会に対する愛は、誤解されてしまいました。一五節以下にこうあります。

「わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。わたしが負担をかけなかったとしても、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったということになっています。そちらに派遣した人々の中のだれによって、あなたがたをだましたでしょうか。テトスにそちらに行くように願い、あの兄弟を同伴させましたが、そのテトスがあなたがたをだましたでしょうか。」(一五~一八節前半)。

「だます」という言葉があります。「貪る」という意味の言葉です。貪欲とも言われます。必要以上に欲しがる、人間の罪を言い表している言葉です。しかしパウロにそういう貪欲はないのです。むしろ、私は与え尽くしているではないか、何もあなたがたから受けていないではないか、とパウロは言うのです。

この愛は、親が子を愛する愛だと言われています。いつの時代でも、親が子を愛さないような出来事が起こります。しかし主イエスは言われます。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。」(ルカ一一・一一~一三)。

親は子を愛する愛を知っているはずだと主イエスは言われるのです。なぜ親は子を愛するのでしょうか。この子の世話を今、しておけば、将来自分が老いたときに老後の世話をしてくれるからでしょうか。そうではありません。そこに愛があるから。それ以上の理由はないのです。

一五節のところに、「あなたがたの魂のために」という言葉があります。これはどういうことでしょうか。しばしば言われることですが、教会は「魂への配慮」をするところだと言われます。あるいは「牧会」ということも言われます。プロテスタント教会では「牧師」と言われます。英語ではpastorと言い、もともとは羊飼いという意味です。羊の群れを養う羊飼い。草のあるところに連れて行き、水のあるところに連れて行き、羊を養うのです。牧師は神の言葉によって、羊たちに語りかけ、羊たちを養っていきます。それがまさに「牧会」であり、「魂への配慮」と言うことができます。

この「牧会」や「魂への配慮」に関して、様々な本が出版されています。その中で、一つご紹介したい本があります。加藤常昭先生が翻訳された本で、日本語では『慰めの共同体・教会』というタイトルが付けられた本です。もとのドイツ語の本のタイトルは、「牧会的に説教する」というタイトルが付けられています。説教が羊を養う「牧会」である、そういう意味ももちろんあります。しかし礼拝説教だけでなく、場合によって個々の人たちに対して、膝と膝を突き合わせるようにして御言葉を語っていく場合もあります。礼拝説教だけでなく、教会におけるあらゆる「牧会」の場面を考えて書かれた本です。

この本の終わりの方に、こういうタイトルが付けられた章があります。「キリスト者の共同体における<喜ばしい交換>について―他者のために代わって語り、代わって配慮し、代わって祈ることによる代理の働き」。「交換」というのは、自分に与えられている神からの何らかの恵みを、他者にも分けてあげることができる、ということです。

その章の中に、こういう文章があります。「信じたいと思っているが、信じる力を発揮することができない人間がいる。このような人びとには、自分の代わりに誰かが信じてくれるといいという期待が、その内心に潜んでいると言えないだろうか。…いつか再び、そのひとが自分で占めることができる場所を取っておいてあげるということなのである」(三二三~三二四頁)。

ここに書かれているのは、例えばこういうことです。信じることができない人がいるとします。まだ洗礼を受けていない求道者であったり、あるいは信じて洗礼を受けたけれども、今その信じる心を失ってしまっている人でも、どちらでも構いません。そのように、信じることができない人がいるとします。その人に対して、教会はどう対応するでしょうか。それでは、さようなら、信じることができるようになったら、またいらっしゃい、そういう対応をするのでしょうか。そうではありません。私があなたの代わりに信じているから、いつかあなたも信じることができる、その日のために、あなたのためにきちんと場所を取って置くから、そういう対応を教会はすることができるのです。

これは信じることに限りません。祈れない、そういう場合も同じです。祈れない、祈りの言葉が出て来ない、祈る心を失ってしまった、そうであるならば、代わりに祈ってあげればよいのです。聖書を読めない、それでは代わりに読んであげる、一緒に読んであげる。御言葉を聴けない、それでは代わりに聴いてあげる。そういうことが、まさに「牧会」であり、「魂への配慮」なのです。

パウロはコリント教会の人たちの「親」でありました。親として、子であるコリント教会の人たちに、魂への配慮をしているのです。皆さんはどうでしょうか。皆さんは「親」でしょうか。「子」でしょうか。

私たちは、最初は「子」でありました。いきなり「親」だったわけではありません。私たちが信じることができたのも、先に信じていた人たちがいたからです。私たちに先立って信じてくれた人たちがいて、私たちの代わりに信じてくれていたのです。そういう「親たち」がいました。ずいぶん私たちは、そういう「親たち」によって祈られてきたはずです。自分が想像している以上に、多くの「親たち」によって祈られてきた。そして私たちは「子」から「親」になっていきます。そのようにして、教会が共同体として建てられていくのです。

最後の一八節後半にこうあります。「わたしたちは同じ霊に導かれ、同じ模範に倣って歩んだのではなかったのですか。」(一八節)。「同じ模範に倣って歩んだ」とありますが、元の言葉のニュアンスとしては、このように言うよりも、「歩調を合わせて歩んだ」と理解した方がよいでしょう。私パウロも、テトスも、歩調を合わせて歩んだ。そしてコリント教会のあなたがたも、歩調を合わせて歩もうと言っているのです。

教会は一つの羊の群れです。一つの群れの中には、いろいろな羊がいます。それゆえに、教会の歩調は非常にゆっくりです。この世の中の会社や組織とは違うのです。この世の組織では、トップの人がいて意思決定がなされ、迅速に皆がそれに歩調を合わせなければなりません。教会はそうではありません。羊が一匹もおいていかれることのないように、歩調を合わせていきます。それがまさに、牧会であり、魂への配慮です。

教会は、一つの信仰によって、一つの御言葉を聴き、一つの羊の群れとして歩んでいきます。そのような歩みをなしていく中で、松本東教会に今いる皆さまが、「親」になっていっていただきたいと思います。「親」になることは、難しいことではありません。御言葉を聴き、信じ、祈っていくことです。自分のためだけにではなく、教会のため、人のために祈っていくことです。「親」として、羊飼いや他の羊のために祈り、場合によっては、おいていかれそうになっている羊に寄り添い、共に歩んでいっていただきたいと思います。そのような松本東教会の歩みが続いていきますように。