松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2018年2月11日(日)
説教題「神の力は人の弱さの中で働く」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第12章1~10節

わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

旧約聖書: ヨブ記2:1~10

「証しをしてください」と言われたら、どうするでしょうか。証しとは何か。証しを定義をするのも、いろいろな定義の仕方はあるのかもしれませんが、一般的に言えば、自分の体験を踏まえながら、神の恵みや主イエスの救いを指し示すことです。

このように証しでは、自分の話を多かれ少なかれすることになりますが、とても難しいのは、自分を消して、神を鮮やかにしていくことです。場合によっては、自分のことが色濃く表れすぎてしまい、神のことが薄くなってしまう、そういう危険もあるからです。

アメリカの牧師が、ある本の中で、証しについて、こんなことを言っています。この牧師が今までに聞いてきた証しは、ワンパターン化しているのではないか、と言うのです。この牧師は、ワンパターン化した証しを、このようなものだと言っています。

「私は惨めな人間でした。道を見失い、犯した罪に苦しみ悩んでいました。あらゆることを試みてみましたが、どれもうまくいきませんでした。私は、そのとき主イエスを見出し、どうぞ私の生活にお入りくださいとお願いしました。そのときから、私の人生は喜びに満ちあふれたものになったのです。」(ウィリモン『教会を必要としない人への福音』、一四頁)。

この本は、このようなことを語りながら、一つの問題提起をしている本です。『教会を必要としない人への福音』というタイトルが付けられた本です。アメリカの最近の状況を表しているタイトルでもあります。当たり前のように日曜日に教会へ行く、最近ではそういう前提が崩れてしまった。一方では神を信じながら、教会へ行かない、教会を必要としていない、その現実を踏まえての本です。

そういう状況の中、牧師が語る説教もまた、いつもパターン化しているのではないかと、この牧師は言います。「あなたには問題があります」、いつもこのパターンに当てはめて、説教を語り、伝道しようとするのです。何の問題も感じていないような人たちに、「あなたには問題があります」、そのようにワンパターンに語りかけてしまう。本当にそれでいいのだろうとかという問題提起です。

ワンパターン化した証しもまた、同じです。「私は惨めな人間でした」というところから証しが始まらないと、証しではないような気がしてしまう。この牧師は、自分にはこのような証しができないと言います。そして自分が今までしてこなかった証しを、この本の中でやり始め、その証しの最後ところをこのように結んでいます。

「簡単に言うならば、私は何の用意もないままで、信仰に捕えられたのです。キリスト信仰の言葉のなかに、それまでの私が聞きたいと望んでいた強靭なチャレンジ、高いところから来る呼びかけ、強い声を聞き取り、私は驚かされたのです。」(二九頁)。

特に自分が何かをしたわけではない。イエスさまを受け入れようと自分の中で決心したわけでもない。むしろ何も用意のなかった自分だったけれども、信仰に捕えられた。そういう証しをこの牧師はするのです。

証しというのは、とても難しいところがあります。自分の体験談を語っていきます。その体験談は、自分だけのものです。誰かと完全に共有することはできません。しかしそれでも、キリスト者のバラバラの体験談の中に、誰もが共通していることがあるはずです。礼拝の説教で語られることも、特定の誰かだけに当てはまることではなく、すべての人に当てはまることが語られます。個人的な体験談に留まらない、神の恵みが誰にも共通して与えられているからです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所には、使徒パウロの二つの証しが記されています。今日の聖書箇所は、コリントの信徒への手紙二の第一二章一~一〇節ですが、一つの証しが、前半の一~五節のところにあります。そしてもう一つが、後半の七~一〇節のところに記されています。

コリントの信徒への手紙二から御言葉を聴き続けて、一年が経ちました。いよいよ終盤です。この手紙を読んでいますと、この時のコリント教会には、パウロにとっての論敵たちがいたようです。パウロはこの教会の初代牧師でしたが、今は離れて別の地で伝道しています。しかしパウロが最初に伝えた正しい信仰から教会員たちを逸らしてしまう、そういう論敵たちがいたようです。

この論敵たちは、おそらく自分たちの強さを誇っていたのだと思います。今日の聖書箇所もそうですが、ここしばらく、誇りという言葉がたくさん使われています。人間の誇りのことですが、いったい何を誇っていたのでしょうか。論敵たちは自分の強さを誇っていました。こんな体験をした、あんな体験をした、そういういわば証しをしていたわけです。

それに対して、パウロはどうだったでしょうか。二週間前に御言葉を聴いた第一一章の終わりのところでは、パウロは自分の過去の体験談をしていますが、それらはすべて、自分の弱さのことです。パウロはあえて自分の弱さを誇り、しかしそれでも神に救われてきた恵みを語っていくのです。

これがパウロのスタンスです。しかし今日の聖書箇所の前半部分では、パウロも敢えて自分の強さを誇ろうとします。「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。」(一節)。無駄だと言いながら、パウロは強さを誇ろうとする。おそらく、コリント教会の論敵たちも、同じように誇り、証しをしていたのだと思います。

一節から五節のところの証しは、何を語っているのでしょうか。一節の「見せてくださった事」というのは、「幻」のことです。パウロは自分がかつて見た幻と啓示の話をしようとしています。しかも一四年前の出来事です。皆さまは一四年前の出来事を覚えておられるでしょうか。一四年前でなくても、一五年位前の出来事でも、何でもよいのですが、強烈な体験というのは、時間が経っても忘れないものです。

「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は…」(二節)という形で語られています。その人は第三の天にまで挙げられるという体験をします。当時の考え方として、天はいくつからの層から成ると考えられていたそうです。三層とか、七層とか、そういう数字まで考えられていたようですが、パウロも第三の天にまで挙げられた、一人のことを知っていると語っています。

自分以外の第三者の話をしているようですが、ほとんどの聖書学者は、これはパウロ自身の体験だろうと考えています。確かにその通りだと思います。自分自身のこととしてはっきり語るのではなく、どこか遠慮がちに、第三者のことのようにして、語っているのです。

パウロにも、こういう証しをすることに、躊躇が明らかにありました。話としてはすごい話です。「彼は楽園にまで引き上げられ…」(四節)とあります。天国に行ってしまったような話ですが、しかしパウロの思いとしては、こんな話をしても、誰かが救われるわけではない、あくまでも個人的な証しだ、という思いがあったのだと思います。論敵たちはおそらくこんな話ばかりをして、自分のすごさを誇り、パウロを非難していたのだと思います。だからパウロも敢えて、今日の聖書箇所の前半でこういう話を、躊躇しながら語っているのです。

でも、パウロが本当にしたい証しは、今日の聖書箇所の後半のもう一つの証しです。その証しは七節後半から一〇節にかけて記されていますが、その前の六節から七節前半にかけてこうあります。「仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。」(六~七節)。

「啓示」という言葉が使われています。これは複数形ですので「もろもろの啓示」と言った方がよいでしょう。先ほどの一節の啓示は単数形でした。パウロが一四年前に見た「啓示」のことです。そういう一四年前の啓示や、他にもあんな啓示、こんな啓示が与えられると、自分が信仰深いような人間だと思い、誇る思いに浸ってしまうかもしれません。しかしパウロが本当にしたい証しは、七節後半のところから始まる証しなのです。

「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」(七節)。「とげ」という言葉が使われています。とげとは何でしょうか。「わたしの身に」というのは「わたしの肉体に」ということですから、肉体に刺さる「とげ」のことです。

聖書学者はいろいろな可能性を考えています。例えば、パウロが抱えていた病、ずっと患っていた持病のようなものを考えている人もいます。あるいは、何らかの怪我のようなことを考えている人もいます。あるいは、心が病めば、その影響が体にも表れているということから、パウロが心を病んでいたのではないかと考える人もいます。いずれにしても、はっきりしたことは分かりません。しかし分からないところにも、意味があると思います。私たち人間に突き刺さる「とげ」の問題なのです。

しかもこのとげがサタンからやって来たとパウロは言います。本日、私たちに合わせて与えられたのは、旧約聖書のヨブ記です。ヨブは不幸に見舞われます。なぜ不幸が襲い掛かったのか、サタンも出席していた天上での会議が原因ですが、ヨブ本人にとって、なぜ自分にこんな不幸が襲い掛かるのか、天上の会議など知らないわけですから、まったく理解不能だったわけです。

仮に天上の会議をヨブが知っていたとしても、なぜ自分にこの災いが振りかかるのか、その理由はやはり分からないわけです。ある人が、人間がこのような苦難を追っている理由は「永遠の謎」と言いました。確かにそれはその通りだと思います。パウロ自身にとってもそうでした。なぜサタンの使いである「とげ」がやって来るのか、パウロにとっても「謎」だったのです。

パウロは、このとげの問題をどのように解決しようとしたのでしょうか。とげを送り込んできたのはサタンですから、サタンにとげを送り込まないように、とげを抜いてくれるように、サタンにお願いしたのではありません。「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました」(八節)。ヨブ記でもそうですが、サタンの領域は限られています。サタンの領域は、神の領域にすっぽり包まれているのです。

しかもここでは「主に願いました」とあります。「神に」願ったのではなく、「主に」願った。どうでもいいような違いかもしれませんが、ある人はこの違いについて、こう言っています。主とは主イエスのことですが、十字架のとげを知っているキリストにパウロは祈った、その意味は大きいと、ある人は言っています。

「三度主に願いました」。三度というのは、文字通りの三度ということではなく、何度も何度も繰り返しという意味です。おそらく必死に祈り続けたのだと思います。その祈りの中で聞こえてきたのが、こういう言葉でした。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(九節)。

祈りの結果は、ノーでした。「とげを抜いてください」と何度も必死に祈ったわけですが、主から返ってきた答えは「とげと向き合いなさい」というものだったのです。

私たちは「とげ」と向き合っているでしょうか。私たちは、いつでもハッピーでいたいと思っています。いつも心穏やかに平安でいたいと思っています。今日の聖書箇所の一節から五節に書かれているような、奇跡のような、すばらしい信仰の体験をしたいと思っています。しかし今日の聖書箇所では、そういうことが重要だということは一言も書かれていません。むしろ書かれているのは、きちんと「とげ」と向き合いなさい、そういう自分を受け入れなさいということです。

「とげ」が刺さっている人間、「とげあり」の人間、それが人間の姿です。パウロだけではありません。特定の誰かだけそうなのでもありません。人間誰もがそういう姿をしているのです。

コリントの信徒への手紙一の第一五章の終わりのところに、こういう言葉があります。「「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり…」(Ⅰコリント一五・五四~五六)。

ここで使われている「とげ」という言葉は、「針」とか「とげのついた棒」とか「毒針」という意味のある言葉で、今日の聖書箇所に出てくる「とげ」とは厳密には同じ言葉ではありませんが、しかし人間を苦しめるものとして、同じように理解することが許されるでしょう。人間に突き刺さっている「とげ」、それは病や苦難でもあるかもしれませんが、死であり、罪でもあります。

コリントの信徒への手紙二で使われている「とげ」は、単数形でありますから、「一つのとげ」です。一本のとげが刺さっている人間として、私たちは自分のことをそのような自分として受け入れなければなりません。

パウロの証しは、このとげが刺さったままの証しです。かつてはとげが刺さっていました。しかしイエスさまに祈ったら、とげが抜かれました、今はハッピーです、という証しではありません。今日の聖書箇所を読む限り、あるいは他の箇所を読んでみても、パウロからとげが抜かれた様子はありません。相変わらずとげの刺さったままで、その状態を受け入れて、その後も歩みを続けたのでしょう。

最後の一〇節にもこうあります。「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(一〇節)。これも「とげ」が刺さっていないと言うことができない言葉です。

私たちは「とげ」があると、まず最初は自分で抜こうとするかもしれません。しかし抜けません。今度は、「とげ」があることを、自分のせいにしたり、他人のせいにしたり、神のせいにしようとするかもしれません。しかしそれでも何の解決にもなりません。

そうではなくて、自分自身が「とげあり」の人間であることを素直に認め、それでも自分に働いてくださる神の恵みを信じて歩むことができるのです。それこそが、ここでパウロがしている証しです。パウロは本当はこの証しをしたかったのです。そしてその証しは私たちの証しでもあります。誰もがすることができる証しなのです。「なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(一〇節)。