松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2018年1月14日(日)
説教題「愛は無報酬」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第11章7~11節

それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました。あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません。なぜだろうか。わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです。

旧約聖書: 申命記7:6~8

「伝道にマニュアルはない」という言葉があります。私がずっと以前から聞いてきた言葉です。皆さまも聞かれたことがあるかもしれません。あるいは聞いたことがなかったとしても、その通りだと思われるでしょう。

自分が信じて洗礼を受けた時のことを思い起こしてみてくださると、よいと思います。自分の目の前にマニュアルが差し出されて、あなたはこの通りに行えば、信じて洗礼を受けることができます、と言われたわけではないでしょう。自分に対して、何らかのマニュアルが当てはめられたわけでもないでしょう。人それぞれ、信じて洗礼に至る道は様々です。そんなマニュアルなど存在しなかったのです。

今度は自分が伝道したい、という番になります。伝道するにはどうしたらよいですか、と聞かれることがあります。一般論で答えることはできません。教会の礼拝や集会に連れてくるとか、聖書を一緒に読むとか、その人のために祈るとか、いろいろな答えをすることができますが、それだけをやればその人が信じて洗礼を受けてくれるかと言うと、そんなことはないのです。こうすれば相手を信じさせることができるというマニュアルは存在しません。

私の松本東教会での八年を思い起こしてみても、確かにマニュアルを書くことなどできません。あの人のために、いろいろと手を尽くした、後は祈るだけ、そういう状況の中、信じて洗礼を受けてくださった方もあります。また別の人には、祈りすらしていなかったけれども、思いがけずに洗礼を申し出られた方もあります。いろいろな方があるのです。

しかし、マニュアルというわけではありませんが、伝道するために、敢えてこれが必要だということを挙げるとすれば、それは「愛」です。この人に伝道したい、そう思うならば、その人のことを愛しているはずです。この人に伝道したい、イコール、この人を愛しているということに、置き換えることができるのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所には、パウロの過去のコリント教会への伝道の話に加えて、愛が語られています。一一節にこうあります。「なぜだろうか。わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです。」(一一節)。はっきりと愛していることは言っていませんが、しかしストレートにそう言うよりも、愛していることをさらに強調している表現になっています。

この一一節に至るまで、今日の聖書箇所でパウロが語っているのは、伝道する際の生活費のことです。今日の聖書箇所の内容は後で触れますが、パウロは別の箇所でこんなことを書いています。「同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。」(Ⅰコリント九・一四~一五)。

「主は…指示されました」とあります。主イエスが何を言われたのでしょうか。弟子たちを伝道に派遣するにあたり、こう言われました。「旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。」(マタイ一〇・一〇)。主イエスは伝道にあたり、伝道の拠点となる家を探せ、と言われます。その家を拠点にし、生活に必要な物をもらいながら、伝道せよと言われたのです。

しかし、パウロの伝道の様子は、これとは少し違うようなところがあります。例えば、テサロニケ教会に宛てて書かれた手紙の中にこうあります。「兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。」(Ⅰテサロニケ二・九)。

また、同じテサロニケ教会に宛てた別の手紙に、こうあります。「また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。」(Ⅱテサロニケ三・八)。

コリント伝道ではどうだったのでしょうか。使徒言行録にその時の様子が記されています。コリントで、アキラとプリスキラという夫妻に出会います。アキラとプリスキラとは「職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。」(使徒18:3)。また、コリントの信徒への手紙一の中に「苦労して自分の手で稼いでいます」(Ⅰコリント四・一二)とあります。

テサロニケ教会でもそうだったようですが、どうもパウロはコリント教会では、コリント教会から報酬などは得ていなかったようです。今日の聖書箇所の七節にこうあります。「それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。」(七節)。コリントでは「無報酬」だったことがはっきりと語られています。

八節では「わたしは、他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました」とあるように、他教会から「かすめ取る」という強烈な表現まで使われています。

どこからかすめ取ったのかは、続く九節で明らかにされています。「あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです。そして、わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。」(九節)。

このように、パウロはコリントでは、最初は自活して、そして次第に生活費を、他教会からではありますが、得るようになったのです。主イエスが言われた言葉とは少し違うような感じがするかもしれません。

ある聖書学者が、パウロがなぜこのような行動をとったのか、それを分かりやすく説明してくれています。「恐らく、パウロが去った後のマケドニアの教会からは、喜んで援助を受け入れたと思われる。それによって、パウロは宣教に専念することができたからである。しかし、最初に新しい町に行った時には、パウロは自分の生活のために働かなければならなかった。そうすることによって独立することができて、まだ日も浅いキリスト者に負担を負わせることがなくなったからである」。

例えば、外国の地で伝道する宣教師のことを考えてみてくださるとよいと思います。宣教師の人たちは、いきなり現地の人たちに負担を負わせるようなことはしません。最初は本国からの援助によって伝道していきます。そして教会がきちんと立っていく中で、自活していくようになります。パウロとしても同じ思いだったと思います。

パウロがなぜコリントでこのように伝道したか。他にも理由があったと、聖書学者たちは考えています。当時は、有名な哲学者がいると、教えを説いて、高額な報酬を得ているということがあったそうです。パウロとしては、自分がそれと同じだとは思われたくないという理由がありました。コリントはギリシア的な考え方の深い地域でもありました。主イエスは「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ10:10)と言われました。パウロは真剣にその言葉を受けとめたのでしょう。

パウロは状況に応じて伝道しました。「伝道にマニュアルはない」と申し上げましたが、パウロにとってもそうだったのです。コリント教会に対しては、最初に自活して伝道しました。報酬も求めませんでした。無報酬です。そのうちに他教会からの援助を受けて、伝道に専念できるようになりました。今この時も、コリント教会からは援助を受けてはいませんでした。

しかし他の教会でもこれと同じようにしたわけではありません。それぞれの教会で行動が違ってきます。なぜでしょうか。それは、相手を愛しているからです。愛をもって伝道をするからです。「なぜだろうか。わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです。」(一一節)。相手を機械のように思い、愛なしのマニュアルを当てはめるのではなく、相手を愛し、伝道に最もよい方法をそれぞれの相手に対してなしていくのです。

パウロは別の手紙で、このように書いています。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。」(ローマ一三・八)。この言葉は、直前にある箇所からの続きです。「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」(一三・七)。

きちんと自分の義務を果たせ、貸し借りがあってはならない、まずそのように言われます。その上で、しかし愛は別である、と言われるのです。愛は、貸し借りでは、損得では、決して測ることができない。場合によっては無報酬であることもある。いや、報いを求めない無報酬こそが本当の愛であると言えます。

先週から、コリントの信徒への手紙二から御言葉を聴くことを再開しました。第一一章です。パウロのコリント教会への痛烈な言葉も記されています。どうもパウロに反対する者たちがいて、コリント教会の人たちが、パウロが最初に伝えた正しい信仰から逸れているところがあったからです。しかしそういう痛烈な言葉の中にも、パウロのコリント教会への愛が語られています。私がコリント教会を愛していることを、愛して無報酬で働いてきたことを、何とか分かって欲しいというパウロの思いです。

先日、ある文章を読みました。ドイツでの話です。ドイツの中世の面影が残る田舎町での話ですが、ある料理人がいます。この人は優れた賜物が与えられていた人で、二十代の時にすでに一流の料理人になっていました。この人は言います。「わくわくしたし、光栄でした。でも、何かが物足りなかった」。

そこで、地元に戻り、小さな料理教室を始めます。ある時、その料理教室に来ていた人が、暗い悲しそうな顔をしていました。その人は、ホスピスの介護スタッフをしていた人です。どうしたのか、と尋ねると、こういう答えが返ってきました。ホスピスの入所者で、死ぬ前にもう一度、ドイツの郷土料理の匂いを嗅ぎたい、そう言い残して、結局、匂いを嗅ぐことができずに死んでいった人がいる、とのことでした。

これを聞くと、自分ならすぐにできたのに、そう思い、すぐにそのホスピスに電話をかけて、死にゆく人に思いでの食事を提供する、そのボランティアを無報酬で行うようになりました。

ご存知の通り、ホスピスでは死にゆく人たちの最期の看取りをすることになります。もう食べることもできない、匂いだけしかかげない、そういう人もいますので、盛り付けにも細心の注意を払うようです。あるいは、食欲がまったくなかったのに、思い出の料理を驚くほど平らげて、死んでいく人もいるようです。

この文章の最後のところで、「幸せって?」という質問がなされました。この料理人はこう答えます。「料理を超えた、人と人との感情のつながり」。この無報酬のボランティアを通して、最期まで人と人が心でつながることができると実感し、それが幸せだと答えたのです。

今日の聖書箇所の言葉で言えば、この「感情」のつながりは「愛」によるつながりということになります。パウロとコリント教会との間は、この愛が切れかかっていました。しかしパウロは、自分がコリント教会を愛していることを知って欲しいと訴えるのです。いや、その思いは神がご存知である、という言い方です。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、申命記第七章の箇所です。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」(申命記七・六~八)。

旧約聖書を読んでいると、なぜイスラエルが選ばれたのか、ということをたくさん思わされます。いくらイスラエルが神を裏切っても、神がイスラエルをいくら怒られたとしても、それでも神はイスラエルを見捨てず、何度も繰り返しやり直すことをお許しになるのです。なぜでしょうか。その理由を説明するただ一つのことは、神の愛です。「あなたに対する主の愛のゆえに」(申命記七・八)。その根拠は愛である。事実その通りで、それ以上の理由はないのです。

「伝道にマニュアルはない」と申し上げてきました。マニュアルはないかもしれませんが、そこに愛はあります。神の愛があり、神の愛を受けた人間の愛があります。私たちは伝道されました。そこに愛があったからです。私たちは信じて洗礼を受けました。なぜそのように導かれたのか。そこに愛があったからです。それ以上の理由はありません。すべての根源が愛なのです。「そこに愛があるから」、この言葉によって私たちは歩んでいくことができるのです。