松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2018年1月28日(日)
説教題「誇り高き弱さ」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第11章16~33節

もう一度言います。だれもわたしを愚か者と思わないでほしい。しかし、もしあなたがたがそう思うなら、わたしを愚か者と見なすがよい。そうすれば、わたしも少しは誇ることができる。わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話すのです。多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう。賢いあなたがたのことだから、喜んで愚か者たちを我慢してくれるでしょう。実際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています。言うのも恥ずかしいことですが、わたしたちの態度は弱すぎたのです。だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存じです。ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、わたしは、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした。

旧約聖書: 詩編56

聖書を読んでいますと、驚くような言葉と出会うことがあります。今の自分のままでは、とても理解することができないような言葉です。言葉や文章それ自体は、意味も明確で、意味としてはよく分かるのですが、とても内容に納得ができない、とても自分には無理だ、そういう言葉に出会うことがあります。

しかし私は思います。そういう言葉があるのが、聖書が聖書である理由なのだと思います。聖書には私たちがすらすら読んで納得できることばかりが書かれているとすれば、それは何の面白味もないかもしれません。時間つぶしの書物でしかなくなります。しかし立ち止まって考えざるを得ない、自分が変わっていくことを求められている、それが聖書の力であり、聖書を読む大きな意義であると思います。

そのような驚くべき言葉を、たくさん挙げていくことができますが、そういう言葉の中で特徴的なのが、逆説のような言葉です。例えば、主イエスはこう言われました。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ五・三)。これはマタイによる福音書の言葉ですが、ルカによる福音書では「心の」という言葉が取れて、「貧しい人々は、幸いである」となっています。どちらで考えてもよいのですが、いずれにしても逆説の言葉です。どうして貧しいことが幸いなのか、私たちはそんなことを幸いなどとは思わないのに、誰でもそう思います。

あるいは、「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録二〇・三五)という言葉も挙げることができます。これも主イエスのお言葉です。普通なら、たくさん受けた方が幸いだと考えるでしょう。与えてばかりだと、自分のものがなくなってしまうのですから、不幸せになってしまいます。ところが、与える方が幸いだと主イエスは言われるのです。これも立ち止まって考えざるを得ません。

私たちが次回、御言葉を聴く箇所が、コリントの信徒への手紙二の第一二章になります。この第一二章にも、「弱いときにこそ強いからです」(一二・一〇)という言葉があります。これも明らかに正反対の言葉が並べられています。これもいったいどういうことなのだろうかと思わされる逆説の言葉だと思います。

聖書を読んでいて、こういう異質の言葉に出会ったら、私たちはどうするでしょうか。二つの道があります。一つは、自分の知っている知識や経験で、その言葉をなんとか飲み込もうとする、なんとか消化しようとすることです。矛盾するようなことが書かれているけれども、これをこういうふうにうまく解釈すれば、なるほど、そんなふうにスッキリさせることができる、これが一つの方法です。しかしこの方法だと、自分自身には何の変化も起こりません。

もう一つの道があります。それはこういう異質の言葉に出会ったら、まずは立ち止まって考えてみて、自分を顧みて、自分が変わっていく道です。「受けるよりは与える方が幸いである」と聞いて、今の自分にはとても与えることができない、そう思うならば、すでに受けているものを思い起こしてみたり、何を自分は与えることができるのかを考えてみたり、そのようにして自分が変わっていく道をたどっていくことです。

私たちキリスト者は、「砕く」という表現をしばしば使います。私の罪の思いを打ち砕いてください、とか、石のように頑なな心を打ち砕いてください、などと祈ることもあるでしょう。とても不思議な表現です。しかし大事なことだと思います。私たちが打ち砕かれることによって、変わっていくことができるからです。

今日の説教の説教題は「誇り高き弱さ」です。この説教題は、今日の聖書箇所の内容から、このような説教題を付けたわけですが、これもまた二つの矛盾する言葉が並べられています。逆説です。

本日の聖書箇所は、第一一章の一六~三三節です。比較的長い区切り方となっています。一月の第四主日を迎えていますが、一月は第一主日、第二主日、第三主日と、コリントの信徒への手紙二の第一一章から御言葉を聴いてきました。先週までの三週間は、一~一五節までが三週間分でしたから、比較的短く区切って御言葉を聴いてきたことになります。ですから、今日は先週までのように細かな解説をすることができませんし、読めば内容もすぐに分かりますので、その必要もないでしょう。

先週までに私たちが聴いてきたのは、パウロに論敵たちがいたということです。「偽使徒」とまで呼ばれていました。今日の聖書箇所の二一節にこうあります。「言うのも恥ずかしいことですが、わたしたちの態度は弱すぎたのです。だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。」(二一節)。「だれかが」とありますが、これが論敵たちのことです。

二二節以下にもこうあります。「彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。」(二二~二三節)。ここにも「彼ら」という言葉があります。これも論敵たちのことです。このように今日の聖書箇所でも論敵たちのことが意識され、論敵たちと比較をしながら、パウロは自分のことを語っていっています。

このようにしてパウロの苦難が書かれています。今日の聖書箇所に書かれていることの中には、使徒言行録の中にも書かれていることと重なり合うこともありますし、その中には出てこないこともあります。

そういうパウロが経験した苦難を語りながら、しかし論敵たちの存在が次第に消えていっています。そしてパウロの苦難が語られながらも、次第にパウロを支えてくださったキリストが鮮やかになっていく。そういう書かれ方がなされています。こういう弱さの中でも、自分はキリストによって支えられた、パウロが言いたいのはそういうことなのです。

パウロの誇り方は、このように弱さを誇ることです。自慢できるような話ではないかもしれません。先週の水曜日、祈りの会の最後のところで、みんなでお茶を飲んでいた際に、私たちの松本東教会からも、伝道者の志が与えられて神学校に行く人が生まれるとよいね、というような話をしていました。パウロは伝道者です。こんな苦労話を書かれてしまったら、誰も伝道者にならないのではないかというような書かれ方です。

ずっと昔の話ですが、私がある青年修養会に参加した時のことです。夜の時間だったと思いますが、「献身の奨め」という時間がありました。参加している青年たちに、伝道者になることを奨める内容で、ある牧師がその話をしてくださいました。その牧師は最初にこう言われました。「私は皆さんに伝道者になることを奨めません」。そのように語り始められましたので、みんな大笑いをしてから、その話が始まっていきました。

ところが、話を聞いているうちに、皆が真剣になっていくのです。伝道者は、自分がなりたいからとか、自分が誇れるからとかではなく、ただ神がその使命に召されることが伝わってきたからです。話をしてくださったその先生もはっきりと言われましたが、伝道者になると、むしろパウロのようにいろいろな目に遭うことになる、いろいろなことが飛び込んでくる、そう言われました。しかしそれでもよい、いやむしろ、そのようにして自分の弱さを味わいながらも、神の恵みを覚えていく、伝道者の歩みをそのように真剣に聞いたことを思い起こします。

伝道者が、この世の中のやり方に従って誇るならば、自分が教会をいくつ建てたとか、何人に洗礼を授けたとか、自分の知識や経験をひけらかすとか、そういう誇り方をすることになるだろうと思います。それが世の誇り方です。

しかしパウロの誇り方は違うのです。こういう苦難にも遭ったけれども、それでも自分は生きている、いや、生かされている。その姿を語りたい。いや、その自分の姿を語るよりも、生かしていてくださっているキリストのことを語りたい。パウロの今日の聖書箇所の語り方は、その語り方で徹底しています。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所は、詩編第五六編です。これはダビデの詩編です。最初の一節のところにこうあります。「指揮者によって。「はるかな沈黙の鳩」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。ダビデがガトでペリシテ人に捕えられたとき。」(詩編五六・一)

詩編にはこういう表題が付けられることも多いのですが、ダビデの人生になぞらえて作られている詩編であることが分かります。詳しい解説はできませんが、ダビデは何の落ち度もないのに、妬みのため、命を狙われる苦悩の時を過ごしました。詩編第五六編は、その時のことを祈っている祈りです。

ところで、カルヴァンという教会を改革した人がいます。私たちの教会のルーツをたどっていくと、カルヴァンが改革したスイスのジュネーブの教会に辿り着きますが、このカルヴァンが詩編注解の序文のところで、わずかながら自分自身のことを語っています。カルヴァンという人は、あまり自分自身のことを語らなかった人です。「神のみに栄光あれ」という言葉を好んで使い、自分が誉れを受けないように、そのことに心を配り、あまり自分のことを語らなかったのでしょう。

そんなカルヴァンではありますが、詩編注解の序文のところで、わずかにではありますが、カルヴァンが自分自身のことを語っている内容が出てきます。なぜ詩編注解の序文に自分のことが出てくるのか。それは、詩編がダビデの生涯になぞらえられて、語られているものが多いからです。読者もまた、そのように自分自身をダビデになぞらえて、この詩編を味わうようにと勧めています。その流れの中で、自分自身のことをわずかながら書いているのです。

カルヴァンも自分自身のことを語ることを躊躇しました。パウロもそうだったでしょう。一七節のところにこうあります。「わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話すのです。」(一七節)。これから自分のことを話すが、「主の御心に従ってではなく」とさえ言っています。パウロとしては、コリント教会の人たちに自分の思いを伝えるために、最後の手段としてこのように言っているのでしょう。そして自分自身のことを語りながらも、キリストが自分を支えてくださったことを、コリント教会の人たちに伝えようとしているのです。

「神のみに栄光あれ」、そのようにカルヴァンは語りました。パウロももちろん同じ思いです。そして私たちも同じ思いを共有することができます。人間的にはどんなに誇ることができなかったとしても、神を誇ることができる。むしろ人間的な誇りがある方が、かえって邪魔をしてしまうかもしれません。

そういうパウロの姿を示しながら、コリント教会の人たちにパウロは言います。「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。」(Ⅰコリント四・一六)。「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」(Ⅰコリント一一・一)。コリント教会に宛てて書いた手紙の中で、パウロは少なくとも二回、そのように言っています。私に倣う者になりなさい、私の真似をあなたがたはしなさい、ということです。

すごい言葉ですが、この言葉も誰もが言える言葉です。人間的な誇りを振りかざし、私の真似をしてごらんと言うのではありません。こんな罪の破れを抱えている私かもしれないけれども、こんな苦難を抱えている私であるかもしれないけれども、私もキリストの恵みの内に生かされている。あなたも私の真似をしてごらん、あなたもキリストに生かされてごらん、そういう勧めです。

キリスト者の歩みは、そういう逆説が成り立つのです。人間的な事柄としては、いくら矛盾しているように思えても、神がおられるからこそ、その逆説が成り立つ。私たちはその逆説の恵みの中に生きることができるのです。