松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2018年1月21日(日)
説教題「偽りの中に真実を貫く」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第11章12~15節

わたしは今していることを今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。

旧約聖書: 詩編12

「継続は力なり」という言葉があります。聖書の中で使われている言葉というわけではなく、一般的な言葉です。何事でも続けていくことが大事であり、地道に続けていけば、小さなものが積み上がって大きな力となる、というような意味の言葉です。確かにその通りと、誰もが納得するような言葉だと思います。

私たちの信仰生活にとって、この言葉はどうでしょうか。やはり当てはまるところがあると思います。信仰の「生活」でありますから、長く続けていく、いや、一生続けていく必要のあるものです。洗礼を受けられる若い方々に必ず申し上げていることの一つは、これから先、何十年も、いや、一生、信仰生活が続いていくということです。

私たちの信仰生活は、継続していくものがたくさんあります。日曜日の礼拝がまずそうです。その他にも、食前の祈り、朝の祈り、夜の祈りなど、祈りの生活がそうです。さらに聖書に親しみ、聖書を読んでいく。そういうことも挙げることができます。他にも挙げることができるでしょう。

そういう信仰生活を続けていく中で、場合によってマンネリ化してしまうこともあるかもしれません。洗礼を受けた直後の新しい気持ちを失って、マンネリ化してしまった、そういう悩みを抱えたことのある方もあるでしょう。

もちろん、いつも新しい思いで祈ったり、聖書を読んだりすることができればよいのでしょうけれども、しかし誤解を恐れず言えば、マンネリ化は決して悪い事ではないと思います。違う言葉で言えば、きちんと習慣になっている、ごく自然のことになっている、当たり前のこととなっている、それは信仰生活をしていく上で、とても大事なことだと思います。

今日の日、私たちが「今していること」(一二節)は、礼拝に来ていることです。信仰生活をしている私たちにとって、問われているのは、これを継続していくことができるか、ということです。もちろん、高齢になり、体の自由や交通の自由が利かなくなり、教会の礼拝に来られなくなることもあるでしょう。その場合、教会が御言葉を携えて、聖餐を携えて、その方々のところを訪問します。「今していること」を生涯にわたって続けていただくように、教会が牧会的な配慮をしているのです。

私たちは歳をとるにつれて、いろいろなことを考えるようになります。家族に迷惑を掛けないように、人様に迷惑を掛けないように、そんなことを考えたりします。あるいは歳を重ねて弱った自分の姿を他人に見せたくない、そんなことも考えるかもしれません。

そのような自分の思いもあるのかもしれませんが、ここで問われるのが、自分のそのような思いと、今まで継続してきたことと、いったいどちらが大事なのか、ということです。信仰生活において、今までずっと継続して御言葉を聴いてきた、聖餐に与ってきた、そのことがどれだけ私たちにとって大事なことでしょうか。「今していること」を生涯にわたって続けていただきたいと思います。たとえ歳を重ねたとしても、死の瞬間まで、「今していること」を大事にしながら、歳を重ねていただきたい。そのような信仰生活をしていただきたいと思います。

本日、私たちに与えられた聖書箇所の最初のところに、このようにあります。「わたしは今していることを今後も続けるつもりです。」(一二節)。この手紙を書いた使徒パウロが、「今していること」とは何でしょうか。「今後も続けるつもり」のこととは何でしょうか。

ここでの文脈を少し振り返ってみる必要があります。先週と先々週、私たちはコリントの信徒への手紙二の第一一章から御言葉を聴いてきました。パウロはコリント教会の初代牧師でしたが、今この時はコリントを離れています。しかしコリント教会に、パウロのことを非難する論敵たちがいたようです。そういう人たちのことを、とても激しい言葉ですが「偽使徒」(一三節)と呼んでいます。

こういう偽使徒たちは、パウロが最初に語って福音から逸らさせてしまう人たちだったようです。少し振り返ってみると、第一一章の三節にこうあります。「ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」(三節)。

エバが欺かれたように、コリント教会の人たちが「偽使徒」たちによって欺かれてしまったのではないかと心配しているのです。また、七節にこうあります。「それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。」(七節)。コリント教会に対して負担をかけずに、無報酬で働き、コリント教会を愛してきたことをパウロは語っています。

こういう文脈を踏まえると、パウロが「今していること」とは、狭い意味では、コリント教会のために、これからも無報酬で働くことであるかもしれません。しかしそれだけでなく、もっと広い意味で考えれば、福音を宣べ伝え、伝道をしていくこと、神のために働き、神の栄光のために、これからも礼拝をし続けること、そういうことも明らかに含まれていたでしょう。これらのことは、「今していること」でもあるし、これからも続けていくことであると、パウロは断言しているのです。

「偽使徒」というのが、どういう人たちだったのか、パウロはあまりはっきりそのことを語っていません。それゆえに、今の聖書学者や説教者が頭を悩ませているところがありますが、どうもこの「偽使徒」たちは、パウロが無報酬で働いていることを非難していたようです。あの人は報酬を得ることができないほどの取るに足らない働きしかできていない、というような非難の仕方です。

それに対して、自分たちは報酬を得て、それなりの働きをしているという自負があったのでしょう。「偽使徒」たちは、そのような自分を自慢するようなプライドに生きていた人でした。その点で、初代牧師のパウロの存在が邪魔だったのです。

一二節後半のところを読みますと、こうあります。「それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。」(一二節)。そのような「偽使徒」たちの誇りや働きを絶ち切るために、パウロが取った方法は、今していることをし続けるということだったのです。それがパウロの闘い方です。

今日の聖書箇所に書かれていることは、まことに厳しいことであります。一三節から一五節にかけて、厳しい言葉が連続しています。「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」(一三~一五節)。

「偽使徒」、「サタン」という言葉まで使われています。当時のコリント教会にそういう者たちがいたと、パウロははっきり語っています。びっくりするようなことかもしれません。今の時代の教会も、私たちの教会もそうだと言うのでしょうか。周りを見回してみて、いったい誰がそういう人なのだろうかと疑ってしまったり、特定のあの人がそうなのかと考え始めなければならないのでしょうか。そうであれば、私たちも間違いを犯すことになるでしょう。

先ほど、三節をお読みしました。エバが蛇にそそのかされてしまった話が記されています。これにおいても、エバを探し始めたら間違いを犯すことになるでしょう。私たちもエバのようになる可能性が大いにあるし、いや、実際、私たち自身がエバであると言わざるを得ません。

しかもこの蛇は、今日の聖書箇所によれば、「光の天使」を装ってやって来る、と言うのです。エバの誘惑の話は創世記第三章に記されています。絵画では、善悪の知識の木の下で、蛇がエバを誘惑している絵が描かれることがあります。その時に描かれる蛇は、いかにも悪そうな蛇の姿をしています。しかし本当に蛇は、悪そうな姿をしていたのでしょうか。

この創世記の話をもう少し膨らませた書物があります。もちろん、これは聖書の中に含まれるような書物ではありません。『アダムとエバの生涯』というタイトルが付けられた本です。あまりこだわる必要はありませんが、興味深いことの一つは、『アダムとエバの生涯』の中では、蛇が「光の天使」を装っているということです。エバにとって、いかにも感じのよさそうな天使がやって来て、声を掛けたということになります。パウロが今日の聖書箇所の言葉を書いたとき、頭の中にあったも、このような話だったかもしれません。

サタンそのものが、いかにも悪そうな姿で現れる、そうであれば、誰もがすぐに気づきます。騙されないように、警戒をします。しかし「光の天使」だった場合はどうでしょうか。あなたが「今していること」よりも、もっていいことがある。人のよさそうな天使が、いかにももっともらしい理由を付けて語って来たら、私たちもエバと同じ道をたどることになります。神の戒めを守るよりも、神のようになれる、「今していること」とは違うことをしてごらんよ。それが蛇の誘惑であり、「光の天使」を装っているサタンの誘惑です。

四節のところにも、こうありました。「なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。」(四節)。皮肉を込めて、パウロは、よく我慢しているね、と言っているのです。この四節で明らかなように、「今していること」とは違うものになってしまう、まがいものになってしまうのです。

「偽使徒」たちによって、このようになってしまうわけですが、一五節の後半にこうあります。「彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」(一五節)。ここで語られていることは、ごく簡単に言えば、神の裁きです。神がストップをかけられることです。彼らは「今していること」を続けて行うことができないのです。

この時のコリント教会の状況は、悪化していました。パウロが最初にいた頃よりも、状況はずっと悪化していたでしょう。パウロはそれを認めながらも、慌てふためいている様子はありません。まったくありません。コリント教会を愛し、熱い思いを抱きながらも、実に冷静です。

ある説教者が、今日の箇所の説教でこのように言っています。「信仰者は、目先のことであわてるべきではありません」。これは信仰者の確信です。パウロはコリント教会の現状に、ほんの少しだけ慌てながらも、根本的にはまったく慌てていないのです。「今していること」、自分としてはそれをそのまま続けていくし、彼らはそれができない、その確信に立っているのです。

この説教の後、讃美歌三五八番を歌います。「こころみの世にあれど」という讃美歌です。讃美歌が載っているページの左上や右上のところを見ますと、これはアイルランドの讃美歌であることが分かります。アイルランドから世界各地へ広がり、とても愛されている讃美歌です。

日本語にも翻訳されました。外国の讃美歌を翻訳する場合、元の歌詞の言葉をそっくりそのまま正確に表している讃美歌はほとんどないと言えます。メロディに合わせて歌詞を作る必要もありますし、よい意味で作詞者の信仰が込められることもあります。この讃美歌もそうでありまして、元の讃美歌と日本語の歌詞ではだいぶ意味合いが異なるところがあります。けれども信仰的な土台は同じであります。

私はアイルランド語はまったく分かりませんが、アイルランド語の歌詞を眺めていますと、英語の歌詞とかなり近い対応関係がありそうです。英語で見てみますと、最初のところはBe Thou my Visionと歌い出します。讃美歌の左上のところに書かれている通りです。Thouというのは、古い英語で「あなた」という意味です。「あなたはわたしのヴィジョン(幻)」ということで、ヴィジョンや幻は、神がこれから先のことを示してくださるものです。

このように、この讃美歌はBe Thou…というような歌詞が多く出てきます。「あなたは私の知恵」「あなたは私のまことの言葉」「あなたは私の偉大な父」などが出てきますが、最後のところでは、このように歌います。「たとえどんなことが起ころうとも、あなたは変わることない私のヴィジョン(幻)」。

日本語では「こころみの世にあれど」と歌い始めます。とても素敵な讃美歌の歌詞とメロディだと思います。「たとえどんなことが起ころうとも」、「今していることを今後も続けるつもりです」、その確信に立った讃美歌です。私たちはその信仰に生き、誘惑に負けず、変わることなく、歩み続けることができるのです。