松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2018年1月7日(日)
説教題「我慢と忍耐」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第11章1~6節

わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。あの大使徒たちと比べて、わたしは少しも引けは取らないと思う。たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。そして、わたしたちはあらゆる点あらゆる面で、このことをあなたがたに示してきました。

旧約聖書: 創世記3:1~19

新しい年を迎えました。先週の月曜日から、主の年二〇一八年が始まりました。それぞれに新年最初の一週間を送ってきました。先週の月曜日に元旦礼拝を行い、ここでも御言葉を聴きましたが、今日は最初の日曜日の礼拝です。今年も昨年と同じように、いや、昨年にも増して、御言葉を聴く一年でありたいと願います。

新年最初の礼拝の説教の説教題は「我慢と忍耐」です。一年の最初から、このような説教題が付けられたことになります。去年の一年間を振り返ってみると、どのような年だったでしょうか。人それぞれ違いがあるでしょう。しかし誰にとっても、我慢と忍耐を強いられる一年だったのではないかと思います。皆が思い通りの一年を過ごせたわけではないのです。我慢と忍耐が必要です。そして今年の歩みも、まだ始まって一週間足らずですが、我慢と忍耐が強いられるのは確実なことです。

ところで、「我慢と忍耐」という説教題です。なぜこのような説教題を付けたのか。本日、私たちに与えられた聖書箇所に「我慢」という言葉があるからです。クリスマスの期間中、私たちがいつも御言葉を聴き続けているコリントの信徒への手紙二から少し離れ、ルカによる福音書から御言葉を聴きました。今日から再びコリントの信徒への手紙二に戻ることになります。

今日から第一一章です。一節から六節までを先ほど朗読しましたが、この短い聖書箇所の中に、三回、「我慢」という言葉が出てきます。一節と四節です。

「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。」(一節)。「なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。」(四節)。

このように今日の聖書箇所では、「我慢」という言葉が三回で、「忍耐」という言葉は出てきません。しかし聖書の中には、「我慢」よりもはるかに多く、「忍耐」という言葉が多用されています。

「我慢」という言葉は、とても面白い言葉です。もともとは「我を頼んで自らを高いものとし他をあなどる」という悪い意味の言葉だったそうです。しかしそこから転じて、「我が強い」、「負けん気が強い」、そして「その気の強さをよしとして、よい意味で耐え忍ぶことをいうようになった」そうです。「我慢」も「忍耐」も、こらえることは同じなのですが、「我慢」はその漢字が表す通り、自分を軸としてこらえるということなのです。

そういう理由もあるのでしょう、聖書の中では「我慢」という言葉があまり使われることはありません。圧倒的に「忍耐」です。聖書が言っている「耐える」ということは、自分を軸とするわけではないからです。私たちが用いている新共同訳の新約聖書では、わずか十箇所ほどにしか出てきません。「忍耐」の方が、圧倒的に数が多いのです。

それでは「忍耐」とはいったい何でしょうか。「忍耐」という言葉が出てくる箇所を調べてみると、「苦難」、「信仰」、「希望」、「喜び」などという言葉と共に使われていることが分かってきます。例えば、ローマの信徒への手紙にこうあります。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ローマ五・三~四)。

聖書のある辞書を見ますと、「忍耐」という項目に、このようなことが書かれています。「忍耐とは、単に「耐えしのぶ」ことではない。ただあきらめるのではなく、燃えるような希望をもって物事に耐える心のことである。それも、一か所にじっと座って耐える心ではなく、そのことが永遠の栄光に導くことを知って、耐える心である。終わりを待つ不屈の忍耐ではなく、夜明けを待つ輝く希望の忍耐である」。

聖書の「忍耐」というのは、「我慢」という言葉が表しているように、自分の力によって忍耐するのではないのです。人間に何かをする力がない、そのために忍耐をする、そして神が何とかしてくださる、そのことを積極的に待つ、それが聖書の言う「忍耐」なのです。

ところが、今日の聖書箇所には「我慢」が三度も使われています。「忍耐」という言葉が聖書の中で多用されているのに対し、「我慢」は新約聖書で十回ほどしかないと、先ほど申し上げました。それだけに、今日の聖書箇所は貴重な箇所とも言えるかもしれません。

改めて四節ですが、こうあります。「なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。」(四節)。

ある人が、今日の聖書箇所の解説を、このように書いています。「コリントの信徒への手紙二の第一一章において、「我慢」という言葉をパウロは皮肉を込めて使っている。特に四節は辛辣である」。

やがて御言葉を聴くことになります一九節、二〇節にもこうあります。「賢いあなたがたのことだから、喜んで愚か者たちを我慢してくれるでしょう。実際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています。」(一一・一九~二〇)。

ここでも皮肉が込められています。つまり、こういうことです。本来ならば我慢すべきでないのに、よく我慢しているね、とパウロは皮肉を込めて言っているのです。誉め言葉ではありません。本来の道から逸れているのに、よく逸れたままで平気でいられるね、と言っているのです。

そんなに「我慢」することに長けているあなたがたのことだから、私の愚かさも我慢してくれ、と一節で言っているのです。「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。」(一節)。これも皮肉ですが、あなたがたの「我慢」によって、私の話をきちんと聴いてほしい、この手紙をきちんと読んでほしい、とパウロは言っているのです。

このように考えていきますと、コリントの信徒への手紙第一一章には、変な我慢をしてはいけない、きちんと正さなければならない、ということが書かれているのです。なぜパウロはそこまで強い口調で言うのか。事柄が事柄だけに、そう言っているのです。

二節のところにこうあります。「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。」(二節)。

「熱い思い」という言葉が使われています。この言葉は、「熱情」とも言われます。旧約聖書の出エジプト記にこういう言葉があります。

「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」(出エジプト二〇・四~六)。

これは、十戒の場面です。第二の戒めです。「熱情の神」と言われています。もっと言うならば、嫉妬する、妬むということです。外国語の聖書では、はっきりそういう言葉が使われている聖書が多いのです。神を夫、イスラエルや人間のことを妻になぞらえて考えますと、妻がもし夫である神を捨てて、他の男のところに行くのであれば、神は嫉妬する、妬むというのです。非常に激しいことが書かれていますが、神がそれほどまでに私たちのことを思っていてくださるということです。

パウロもそういう言葉で、今日の聖書箇所を語っています。神があなたがたをそれほどまでに愛してくださるように、私パウロもまたそうである。だからこそ、大変に心配をし、心を傷め、このように激しい言葉で、激しい思いをもって、この手紙を書いているということにもなります。

今日の聖書箇所の二節の言葉で言えば、夫がキリストになります。コリント教会は「純潔な処女として一人の夫と婚約させた」妻ということになります。パウロは仲人のような存在とも言えるでしょう。パウロは伝道者として、コリント教会を整えたはずでした。

ところが、コリント教会はそこから逸れそうになっている。いや、逸れてしまっている。三節にこうあります。「ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」(三節)。

エバのことが取り上げられています。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の創世記第三章に記されている話です。創世記の第二章の終わりのところを読みますと、アダムに対して、神が「善悪の知識の木」からだけは取って食べてはならないと命じられます。

第三章に入ると、その「善悪の知識の木」をめぐって、エバと蛇の間で対話がなされます。蛇がエバを誘惑するのです。エバは誘惑に敗れてしまうわけですが、なぜ誘惑を斥けることができなかったのでしょうか。聖書にこうあります。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(創世記三・四~五)。

「神のようになれる」、これが蛇の誘惑の言葉です。「神のようになれる」、これはすべての時代に共通する誘惑のささやきです。この言葉はいろいろな言葉に置き換えることができます。「神のようになれる」、「もはや神なしでやっていきる」、「人間の力でなんでもできる」、「人間には無限に可能性が広がっている」。

他にもいろいろな言葉に置き換えることもできるでしょう。神に造られた人間として、人間には限りがあるはずなのに、限りがないかのように思ってしまう。神のようになれると思ってしまう。そういうまやかしの言葉がいつの時代にも満ちあふれているのです。

コリント教会もそうでした。パウロが心配しているように、キリストに対する真心と純真から逸れてしまうのです。コリント教会には、そういう逸らせてしまう人たちがいたようです。五節から六節にかけてこうあります。「あの大使徒たちと比べて、わたしは少しも引けは取らないと思う。たとえ、話し振りは素人でも、知識はそうではない。そして、わたしたちはあらゆる点あらゆる面で、このことをあなたがたに示してきました。」(五~六節)。

ここに「大使徒」という言葉があります。「大使徒」とは誰のことでしょうか。主イエスの十二弟子のペトロたちのことを思い浮かべそうですが、実はそうではありません。ここもパウロが皮肉を込めてこう言っているのです。この「大使徒」たちとは、パウロのことを非難し、パウロが伝えた最初の福音から逸らさせてしまった人たちのことです。この「大使徒」たちは、パウロが「使徒」であるということを疑い、非難してきたので、彼らのことを「大使徒」と皮肉を込めてそう呼んでいるのです。

これは単なる昔話なのでしょうか。二千年前のコリント教会だけに起こった出来事であり、昔々の話にすぎないのでしょうか。そんなことはありません。私たちにもかかわる話です。私たちの周りにも蛇の誘惑が満ちているように、私たちの問題でもあります。

大事なのは、三節の「キリストに対する真心と純潔」という言葉です。自分の「真心と純潔」ではありません。しかしさらに具体的に言えば、四節の言葉が大事です。「なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。」(四節)。

誘惑に敗れてしまった行先は、「異なるイエス」であり、「違う霊」であり、「違った福音」です。これらのものを斥ける必要があります。そのための誘惑との闘いです。誘惑に負けてしまう要素は、いつも自分の中にあります。蛇の誘惑の言葉に負けてしまったエバもそうでした。そうならないために、私たちは御言葉を聴き続けなければなりません。妬むほどの神の愛を受け入れなければなりません。そうでないと、誘惑に負けてしまった一年の歩みになってしまうでしょう。

コリント教会に宛てて書かれたパウロの手紙が、このように今も聖書の中に残され、今の私たちもこれを読むことができます。コリント教会の立場からすれば、よくぞこんな手紙を残したとも言えます。自分たちにとって恥ずかしい内容の手紙です。自分たちが誘惑に負けてしまい、パウロが皮肉たっぷりに書いている手紙です。

なぜこのような手紙が残っているかと言うと、コリント教会の人たちが自分たちの教会の礼拝の中で、この手紙を何度も繰り返し読み、多くのコピーを作り、諸教会も読んできたからです。自分たちの恥であるかもしれない手紙ですが、しかし大事な手紙として、ここから御言葉を聴き続けたのです。私たちの一年も、コリント教会の人たちのようでありたいと思います。