松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

facebook.png


HOME > 礼拝説教集 > 20171203

2017年12月3日(日)
説教題「うわべと中身を見抜く」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第10章7~11節

あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい。あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう。わたしは手紙であなたがたを脅していると思われたくない。わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。そのような者は心得ておくがよい。離れていて手紙で書くわたしたちと、その場に居合わせてふるまうわたしたちとに変わりはありません。

旧約聖書: イザヤ書43:1~7

本日の説教の説教題を「うわべと中身を見抜く」と付けました。なぜこのような説教題なのか。それは七節のところにこうあるからです。「あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい。」(七節)。

「うわべ」という言葉があります。「上辺」という漢字を書きます。その表面に浮かび上がっている辺りの部分ということです。当然、上辺の中には、中身があることになります。「うわべ」と訳されている言葉は、聖書の元の言葉では「顔」という言葉です。

私たちが初対面の人と接した場合、まずは相手の顔を見て、話しをすることになると思います。上辺から始めて、次第に中身を知っていく。上辺だけでいつもその人を見ていたり、判断していたら失礼にあたります。

この手紙を書いているパウロとコリント教会の人たちも、最初はそのように接触したのだと思います。パウロはコリント教会の初代牧師です。誰よりも先にコリントの地へやって来て、福音を宣べ伝え、教会を建てました。その時に、いろいろなことがありました。

使徒言行録が伝えるところによれば、パウロたちが福音を伝えていく中で、それに対する反対が起こり、暴動が起こりました。そういう困難の中、パウロは夢の中の幻で、主の言葉を聴きます。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」(使徒言行録一八・九~一〇)。

その言葉に励まされて、パウロは一年半もコリントの街に滞在し、伝道していきました。一年半というと、私たちからすると短いように思えますが、パウロは伝道旅行をしていたのです。他の街よりも長くコリントに留まって、教会を建てていきました。

コリント教会の人たちは、遠くからやって来たパウロと初めて接触し、うわべから始まり、次第にパウロの中身もよく知っていくようになりました。ところが、パウロとコリント教会の関係がぎくしゃくしてしまいます。

一〇節のところに、パウロに対する批判の言葉があります。「わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。」(一〇節)。パウロはこの時、こういう非難を受けていたようです。「話もつまらない」というのは、言葉が無である、ゼロであるということです。そういう非難をパウロは受けていました。

なぜこうなってしまったのか。一〇節に「と言う者たちがいる」とあります。「者たち」と訳されていますが、原文では単数形、つまり一人の人ということです。おそらく、一人の人がそのようにパウロを非難するようになった。そうするとそれに同調する者たちが現れ、その声が大きくなってしまったということでしょう。

パウロは、そういう者たちに対して、今日の聖書箇所を書いているということになります。うわべで人を判断するな。うわべでこの私を判断するな。この私の中身をしっかり見て欲しいとパウロは言っているのです。

そういうわけで、人間の中身を見ていくことになります。人間をうわべだけで判断しない。その人の人間理解を深めていく。そうなってくると、パウロ一人の個々の人の中身を見ていくだけでは済まなくなります。人間とはどういう者なのか。人間ならば誰もが持っている、そのような深い人間理解をしなければならなくなります。聖書は、かなり深い人間理解を持っている書物なのです。

今から五〇〇年も前の人になりますが、カルヴァンという人がいました。スイスのジュネーブの教会を改革した人です。私たちの教会のルーツをたどっていくと、カルヴァンが改革したジュネーブの教会に辿り着くことになります。そのカルヴァンは、教会の改革をしただけではなく、その改革を支えた書物にもなりますが、『キリスト教綱要』という書物を書きました。

この書物は版を重ねていき、膨らんでいきました。一五三六年に初版が出版されました。わずか六章から成るものだったのが、一五五九年(もしくは一六六〇年)の最終版では、四篇八〇章から成るものに膨らんでいったのです。カルヴァンが目指したのは、一つのテーマだけを論じるものではなく、あらゆるテーマを体系的に論じるものを目指し、このような大きなものになっていきました。

この八〇章もある『キリスト教綱要』の冒頭のところで、カルヴァンはいったい何から書き始めたのでしょうか。本論が始まる前に、フランスの王様に対する献呈の文章があります。それを除くと、本論が始まっていく最初の第一章のところで書かれているのは、こういうことです。「神認識と自己認識は結び合った事柄である。それらはどのように相互関連しているか」。神を認識することと、自己を認識すること、つまり自己理解は、同時並行のことである。切っても切り離せないものであるということです。

続けてカルヴァンはこう書いていきます。「我々の知恵で、とにかく真理に適い、また堅実な知恵と見做されるべきものの殆ど全ては、二つの部分から成り立つ。すなわち、神を認識することと、我々自身を認識することである。ところが、この二者は多くの絆によって結び合っているので、どちらが他方に先立つか、どちらが他方を生み出すかを識別するのは容易でない」。

カルヴァンがここで論じているのは、人間のうわべの話ではありません。中身の話です。人間は皆、うわべは違います。しかし中身に何か共通している部分があるはずです。

例えば、あるキリスト者の方が、以前、私にこんな話をしてくれたことを思い起こします。その方は、自分は信じて洗礼を受けたと言います。洗礼を受けた頃は、自分が罪人だということもよく分かっていたつもりだったし、自分のその罪がイエス・キリストの十字架によって赦されたということもよく分かったつもりだった。その人は、まずそのように言います。

しかし続けてこう言うのです。けれども、自分は実はその時は、本当はよく分かっていなかった。キリスト者としての歩みを続けていく中で、自分の罪をますます知るようになった。自分の自己理解がさらに深まっていった。なぜかと言うと、神の独り子であるキリストが十字架に架からなければならないほど、自分が罪深いことがよく分かった。ますます自己をそのように理解するようになった、と言うのです。

私たちも同じであります。神が私たちを愛して、独り子を賜るほどに、十字架につけるほどに私たちを愛し、赦してくださった、そういう神を知る。そうすると何が見えてくるか。それほどまでに罪深い自分を知り、しかもその罪が赦されている自分を発見することができるのです。カルヴァンが言うように、神を認識することと、自分を認識することが、一つに結び付いて来るのです。

人間のうわべは、みんな違うかもしれません。今、この礼拝堂の中に、何名の方がおられるでしょうか。五〇~六〇名の方がおられるでしょうか。今日、教会に来た子どもたちも含めれば、もっとたくさんの人がいるはずです。それらの人たちのうわべは、みんな違います。しかし中身において、同じものがあるはずです。皆が罪を抱えています。罪との闘いの中に置かれています。それも一つの大事な人間理解です。しかしそれだけでなく、私たちが抱えている罪が神に赦され、神に愛されている、そういう自己を発見することができる。それがカルヴァンの理解であり、聖書の人間理解であります。

パウロも今日の聖書箇所で、うわべだけを見るな、中身をしっかり見よ、と言います。中身をしっかり見ていくと、何が見えるか。パウロは「キリストのもの」という言葉を使います。「あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい。」(七節)。

クリスチャン、キリスト者という言葉があります。洗礼を受けると、そのように名乗ることができます。単なる呼び方、ネーミングではありません。クリスチャン、キリスト者というのは、ここにあるように「キリストのもの」という意味です。自分が自分のものではなくなるのです。キリストに所属する者であり、私のすべてがキリストのものになるということです。

「キリストのもの」ということに関連し、今日は旧約聖書のイザヤ書第四三章が、私たちに合わせて与えられました。神がイスラエルの民に語ってくださった言葉です。「恐れるな、わたしはあなたを贖う」(イザヤ書四三・一)。

私たちは自分で自分のことを、こんな私なんか、と思うようなところがあるかもしれません。自分の中身を見てみれば、自分が罪人であることは、明らかであります。しかしそういう私のことを、神は贖うと言ってくださいます。贖うというのは、代価を支払って買い取るということです。四節にもこうあります。「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し…」(四三・四)。「わたしの目」というのは、神の目です。私たちは自分の目で、自分のことを価高い、貴いなどとは思わないかもしれません。

しかし神はそうではないのです。神が代価を支払ってくださるほどに、価高く、貴いのです。支払われた代価は、具体的には、神の独り子であるキリストです。キリストが十字架で肉を裂き、血を流してくださった。そういう代価が支払われてまで、神が私たちを贖ってくださった。そこまで私たちは価高く、貴く、愛されている。代価を支払って買い取られたもの、キリストのもの。これが、クリスチャン、キリスト者という中身です。

パウロがここでコリント教会の人たちに問いかけているのも、まさにそのことです。あなたがたは自分のことを「キリストのもの」と言っている。それは大変に結構なことだ。しかし私のうわべだけでなく、中身もよく見て欲しい。私もあなたがたと同じように、キリストのものではないか。中身もあなたがたと同じではないか。その共通の土台で、もう一度、一緒に歩んでいこうと、呼びかけているのです。

続く八節のところにこうあります。「あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう。」(八節)。

「誇り」については、来週の聖書箇所の中心的な事柄ですので、そこで触れたいと思います。「造り上げる」という言葉が出てきます。非常に大事な言葉です。この言葉は、一般的な建築を意味する言葉です。建てるとか、建設するとか、建築するとか、そのような意味の言葉です。

しかし聖書で、単に建造物を建てるという意味でも使われていますが、それだけでなく、人や教会を造り上げるという意味で使われていることも多いのです。日本語にも「建徳」という言葉があります。それと似たような意味合いかもしれませんが、教会や人を造り上げるのです。パウロは別の手紙でこのように言っています。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」(Ⅰコリント八・一)。愛は、人をも教会をも造り上げるのです。

来週の聖書箇所になりますが、一二節のところにはこうあります。「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。」(一二節)。

この内容については、今は踏み込みませんが、比較し合っている問題点が挙げられています。悪い意味での比較です。自分を上げるために、人を下げてしまう。あるいは自分が上に立つために、自分より下の人を探そうとする。こういうところにおいては、人を造り上げるなどということは考えられません。「造り上げる」ためではなく、「打ち倒す」ことがなされてしまっている。

そうではなくて、パウロがいつも心掛けていたことは、人を造り上げ、教会を造り上げていくことです。時に厳しい手紙を書いたり、厳しいことを言わなければならなかったとしても、パウロのスタンスはいつもそこにありました。私もあなたも「キリストのもの」とされていること、そのことを思い起こしながら、この時も歩み出そうとしているのです。

今日の聖書箇所では、牧師であるパウロと、信徒であるコリント教会の人たちの関係が記されています。牧師と信徒の関係です。今日はこの後、臨時教会総会を行います。来年度から赴任する教師の招聘の決議をします。よき方が与えられて感謝しております。私の願いとしては、新たな教師とも、よい関係を持ってもらいたいということです。

私が松本東教会の皆様に感謝していることは、皆さんがご自身のことを、私に伝えくださるということです。例えば、こういうことを言うことができます。毎週、夕礼拝を行っています。夕礼拝前後に、私は今日の礼拝に来ることができなかった方たちのところに、説教を送る発送作業をしています。そうすると、ハガキなどを送ってくださる場合があります。説教の感想を書いてくださいます。それだけではありません。ご自分の状況を書いてくださったり、家族のこと、こういうことを祈って欲しいなど、いろいろなことを知らせてくださいます。

もちろん、このようにハガキをくださる方だけではありません。直接、ご自分のことをお話しくださったり、電話やメールをくださったり、手紙をくださったり、いろいろなことを私に知らせてくださいます。説教者として、そのことは本当に感謝すべきことだと思っています。

そのようにお知らせくださったものの中には、確かに人間の様々な現実もあるかもしれません。誰もが抱えている現実です。そういう話を伺った際に、私がどういうことを思うのか。ぜひその方に福音を聴いていただきたい、そのように思うのです。様々な罪の現実の中にありながらも、罪赦された福音を届けたいと、説教者として強く思います。そう思わないのであれば、伝道者の名に値しないのです。

説教は、説教者一人で造り上げるものではありません。語る者が立てられ、聴く者が集められ、教会の業として造り上げられていくものです。そこで語られる言葉は、人を造り上げ、教会を造り上げていくものです。その意味で、これからも説教者とのよき関係を築き上げていただきたいと願っています。語る者も聴く者も、私は「キリストのもの」、あなたも「キリストのもの」。みんなが「キリストのもの」。その共通の土台に立てる。そしてそこから、私たちの教会の歩みを造り上げていくことができます。今までそうだったように、これからも同じ歩みが続いていくのです。