松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年11月26日(日)
説教題「神に由来する力」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第10章1~6節

さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。わたしがそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています。わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。

旧約聖書: エレミヤ書1:4~10

本日、私たちに与えられた聖書箇所から、第一〇章に入ります。先週まで御言葉を聴いてきました第八章から第九章にかけては、献金の話が記されていました。コリント教会が献金を集め、それをエルサレム教会へ送るという話です。今日の聖書箇所の第一〇章からは、それとはかなり趣の異なる話が語られていきます。

この手紙を書いた使徒パウロは、コリント教会の創設者でした。初代牧師です。今はもうすでに教会を離れ、別のところで伝道をしています。しかしいつもコリント教会のことが気がかりでした。いろいろな問題が起こっているということが聞えてくるからです。何度も手紙を書きます。訪問もします。しかし教会との間の関係がぎくしゃくしてしまう。コリントの信徒への手紙二の前半のところで、そのようなことが記されていました。

第七章のところで、パウロとコリント教会の関係が改善し、関係も良好になったことが記されています。そして、第八章と第九章のところでは、献金の話が始まっている。この中でパウロはコリント教会のことを喜び、神に心から感謝している。そういう状態になったのです。

ところが、第一〇章からは再び雲行きが怪しくなってしまいます。手紙としては、新たな区分が始まり、第一三章の最後のところまで、一つのまとまりを持っています。多くの聖書学者が首をひねってこの理由を考えています。別の手紙だったものが合体したのではないか、とも考えられています。さらには、第二章四節のところに、パウロが涙ながらに手紙を書いたと記されています。この第一〇章から第一三章までが、その涙の手紙そのものではないかと考える聖書学者もいるくらいです。

いずれにしても、少し違う状況で第一〇章が語り始められています。「さて」という言葉から始まっています。実は日本語の翻訳だと順番が後ろになってしまっているのですが、第一〇章の書き出しは、実はこうなっています。「さて、私パウロ自身が」。これは強調表現です。「さて、私は…」と単に書けばよかったのですが、「さて、私、パウロ、自身が」と書いているのです。

パウロのこのような手紙は、たいていの場合、口述筆記させたと言われています。パウロが口で語った言葉を、誰かに速記させるのです。しかしこの箇所は、もしかしたらパウロ本人が筆を執って書いたのかもしれません。それほど大事なことを伝えようとしているのです。

今日の聖書箇所の中で、キーワードとなるのが、「肉」という言葉です。全部で四回、使われています。

「わたしたちのことを肉に従って歩んでいると見なしている者たちに対しては、勇敢に立ち向かうつもりです。わたしがそちらに行くときには、そんな強硬な態度をとらずに済むようにと願っています。わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り」(二~四節)。

肉とはいったい何でしょうか。単純には、私たちの肉体のことです。しかし単に肉体だけのことを言っているのではありません。肉体はやがては過ぎ去ります。死んで朽ちなければなりません。そのような意味合いで使われている聖書箇所も多いのでありますが、今日の聖書箇所で特に重視されているのが、肉には欲があるということです。食欲があります。なぜ食べ物を欲するのか。それは体があるからです。体を食べ物によって満足させなければならないからです。

あるいはそれ以外にも、様々な欲望があります。人よりもいい思いをしたいとか、楽をしたいとか、そのような欲があります。性欲もまた考えられるでしょう。肉というのは、私たちの罪の根源になるようなものである、聖書はそのように考えているのです。それが「肉に従って」(二節、三節)ということです。罪と密接に絡むのです。

しかし他方では、私たちは神さまから肉体が与えられています。肉体を決して軽んじるわけではありません。むしろ神からいただいたものとして、私たちはこの肉体を重んじるのです。そしてこの肉体によって、地上の人生を生きています。それが「肉において」(三節)ということです。

「肉において」私たちが生きている時、私たちには様々な戦いがあります。三節から五節にかけて、様々な言葉があります。「理屈」、「神の知識に逆らうあらゆる高慢」、「あらゆる思惑」。これらの言葉は、私たちが「肉に従って」歩んでしまうことを言い換えている言葉です。そういう肉の戦いを、私たちは戦っているのです。

教会の皆様と話をしていますが、様々な戦いがあることがよく分かります。教会の私たちだけではありません。いろいろな方々から、手紙や電話をいただくことがあります。

また、FEBCというキリスト教ラジオ放送局がありますが、毎月、FEBCから「FEBCニュース」という読み物が送られてきます。その中に「リスナーの声」という私も必ず読むようにしているコーナーがあります。ここを読んでいると、時分にはこんな罪があるとか、家族を愛せないとか、人間関係で悩んでいるとか、こんな病を抱えているとか、実に様々な戦いがあることがよく分かります。

例えば、「敵を愛しなさい」という主イエスのお言葉をめぐる戦いがあります。私たちは主イエスのその声を無視するわけにはいかない。けれどもその声の前に立ちつくしてしまいます。どうしたらよいのだろうか、と。どのようにその声を聞いて、歩めばよいのだろうか、と。立ち止まってしまうのです。

主イエスは、敵がいったい誰なのか、あまり詳しく説明をしてくださいません。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ六・四四)と言われます。自分を迫害してくる者のことです。さらにはこう言われます。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか」(マタイ六・四六)。敵とは、自分を愛してくれない人であることも分かります。

そういう敵のことを思い浮かべながら、私たちの戦いを戦っていくことになります。新約聖書の別の箇所には、こうあります。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」(Ⅰペトロ三・九)。

「敵を愛しなさい」というのは、机上の空論ではありません。私たちの身近にある現実問題です。ある人からこのように言われたことを思い起こします。「敵に何かをされたら、やられた以上にやり返してしまいそうです。忍耐できるように、祈ってください」。まさにそういうところで、主イエスの御声を聴き取る戦いがあるのです。

「肉によって」歩んでいる私たちです。いろいろなことに直面する私たちです。いかに歩むか。いかに「肉に従って」歩むことをしないか。その戦いがあるのです。

私たちはその戦いをどのように戦っていけばよいのでしょうか。私たちに与えられている戦いの武器があります。たった一つだけかもしれません。しかし一つの武器が与えられているのです。

このことに関連して、先週のお話しをしたいと思います。先週、私は説教塾の三十周年のシンポジウムに出かけてきました。月曜日から木曜日まで、三泊四日の集中的な学びの時です。説教塾の主宰者である加藤常昭先生は、もうすでに主導的な役割は退かれています。現役の牧師たちが、講演をしたり研究発表をしたり、そのように過ごした四日間です。

しかし最後の四日目の伝道派遣礼拝で、加藤常昭先生が伝道派遣礼拝の説教をしてくださいました。神が私たちを伝道に派遣してくださる、そのメッセージを聴きました。その中で、加藤先生がこのようなことを語られました。今から五百年ほど前、ヨーロッパの教会で、教会の改革運動が起こり、私たちのプロテスタント教会が生まれていきました。もともとはカトリック教会でした。カトリック教会からプロテスタント教会になる、その変化が起こったのです。

それまでカトリック教会でしたから、聖職者は司祭、神父などと呼ばれていたわけです。しかしプロテスタント教会になると、牧師と呼ばれるようになる。牧師とは、羊飼いの意味です。カトリック教会時代も、聖職者が羊飼いである、その意識がなかったわけではありませんが、プロテスタント教会になって、さらにその意識を強く持ったということでしょう。

牧師は羊飼いである。どのように教会の羊たちを養うのか。神の言葉を語ることによってです。説教を語らなければならなくなる。加藤先生は言われるのです。聖職者たちは、本当に困っただろう、と。カトリック教会の時は、ミサが中心でした。聖餐式を行うのです。誰も理解できないラテン語という言葉を、誰も聞こえないようにボソボソと語って、所作通りにミサを行えばよかった。それで済んだのです。

しかし今日からプロテスタント教会になる。今までと同じようなミサができなくなる。説教を語ることを求められたのです。今まで説教を語ったことがないような者が、ある日突然、説教を語れと言われる。本当に困ったでしょう。

改革者のルターは、模範説教集を作ったと言われています。どのように説教を語ってよいか分からない牧師に対して、この説教の真似をして語るようにとして作られたものです。別の改革者ツヴィングリは、『牧師論』という本を書きました。牧師としてのイロハを書いたものです。さらに別の改革者カルヴァンは、教育用の問答集を作っていきました。牧師も信徒も子どもたちも、こういう信仰教育の手引きに導かれていくのです。

教会の改革によって、礼拝堂がどんどん簡素になっていきます。今までは聖人の像が置かれていたり、礼拝堂の壁一面に絵画が飾られていたり、大きなステンドグラスがあったりと、華やかな礼拝堂でしたが、簡素になっていきます。その簡素な礼拝堂の中に、響き渡るのは説教の声です。武器はたった一つ、神の言葉だけです。それだけで勝負をしよう、その決断をし、教会を改革していったのです。

先週のシンポジウム期間中、ある牧師とこのような話をしました。自分は子どもの頃から、教会の説教を聴き続けてきた。しかしその説教をまるで覚えていない。自分が洗礼を受けた、その際に何か決定的な説教があったわけではない。その後、自分は伝道者になる志が与えられた。その際にも何か決定的な説教があったわけではない。まずはそのように語られました。

しかし何が自分を変えたのか。洗礼を受けてキリスト者としての歩みを始めることができた。伝道者の志が与えられて、今このように伝道者、牧師として歩んでいる。なぜそのような歩みができたのか。説教を聴き続けてきたからに他ならない。そう断言できる。その牧師はそのように言われたのです。

さらに続けて言われたのが、そのような歩みの中で、「自分の思いが打ち砕かれてきた」ということです。自分の思いが打ち砕かれる、とか、自分の心が砕かれる、とか、とても不思議な表現だと思います。私がかつてこの表現を聞いて、とても不思議に思いました。この世ではほとんど使わない表現だと思います。私のかつての祈りになかった言葉です。しかし今でも祈りにおいても、表現においても、こういう表現を使うようになりました。

今日の聖書箇所の四節にこうあります。「わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。」(四節)。「要塞」という言葉は複数形です。もろもろの要塞です。私たちの中にもたくさんの要塞があるはずです。敵を愛せないとか、赦せないとか、自分も人もこうあらねばならないとか、様々な思いが要塞のようにそびえたっているはずです。

この要塞はどのように砕かれるでしょうか。この牧師のように、神の言葉を聴き続ける以外にありません。神の言葉によって、そして四節にあるように、神の力によって、打ち砕いていただくしかありません。

私たちの戦いの武器は、神に由来する力のみです。たった一つの武器です。しかし要塞を破壊するに足る力があります。

新約聖書の他の箇所には、こうあります。「神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」(エフェソ六・一三~一七)。

この聖書箇所では、いろいろな武器がありそうですが、最後に「神の言葉を取りなさい」とまとめられているように、神の言葉を聴く以外に、戦いの武器はないのです。

ある聖書学者が、今日の聖書箇所の解説をひと通り書き終えて、今なおこの戦いが続いているとして、このように書いています。「われわれの用いる武器は果たしていつも「霊的」なものであろうか?」。「肉に従って」歩んでしまうのか、あるいは神の言葉を聴いて、罪から解き放たれるのか。私たちの道は、神の言葉を聴き続ける道なのです。